無間少女と白昼夢
小林勤務
第1話 未来
熱を出した幼い妹を寝かしつけるとそのまま外へ出た。
11月下旬のある日、時刻は正午に差し掛かっていた。肌寒さは感じられず、じとりと粘つくような湿気が漂っていた。空を見上げても、暗雲が立ち込めている風でもない。鼻を鳴らしてそのまま路地に出る。
すると、木造住宅が密集した狭い路地の先に一人の少女が見えた。
綺麗な――今まで見たことがないような子であった。
艶やかな黒髪と紺色のスカートが誘うように風に靡く。
なぜか強い衝動に駆られて、その子の元へ歩き出してしまった。こちらが一歩前へ進むと、その子もこちらに一歩向かってくる。磁石のように互いに引き寄せられ、距離が縮まっていく。
その距離、3メートル程になると、一陣の風が二人の間を通り抜けた。
ふわり。
その風に煽られてスカートがゆっくりとめくれ上がる。
瞬き一つできずに一点を凝視していると、こちらの意識を呼び覚ますようにその子は笑った。
「見たでしょ?」
「い、いや……」と答えるのが精一杯で。
「見たよね?」
この目に焼き付いたのは、眩しい程の白であった。己の顔が真っ赤になっているのがわかった。
「ふーん」にやにやしながらこちらを覗き込む。「やっぱり興味あるよね」
「わ、わざとじゃないぞ」
彼女は目を丸くした。「別に怒ってないよ。からかってるわけじゃないから、そんなに怒らないでよ」
まあまあとばかりに手をひらひらとさせる。
不思議な子であった。幾つだろうか。やけに大人っぽく感じられるけど、13歳の自分と同い年に見えなくもない。いずれにせよ、見た目も言動も自分の周りにはいない子だった。
「どこから来たの?」
「わたし?」
「うん」つっけんどうに指をさす。「学校で見たことないし」
「そうねえ」
彼女は人差し指を唇に当てた。
子供のくせに、というかこのご時世に薄っすらと口紅なんか塗っている。むだにどきどきしてしまう。
「でも、言ったところでわかってくれるかな」
「なんだよそれ」
「どうしよう、どう言えばいいんだろうね」
「いや……、もったいつけずに言いなよ」
彼女は名案が浮かんだとばかりにパンと両手を叩く。情けないことに、その音にびくっと肩を震わせてしまった。
「あのね、目を閉じてみてよ」
「目?」
「そうそう、目を閉じて、深呼吸して、今からわたしが言うことを思い描いてみて」
なんだそれ、意味がわからない。
困惑するこちらに構うことなく、早く早くと急き立てるので素直に彼女に従った。当然のことながら目の前は真っ暗になったが、瞼の裏側に仄かな光を感じた。
「じゃあ、いくよ。いいって言うまで目を開けちゃだめだよ」
「うん、わかった」
「あのね、遠い未来を思い描いてみて」
「未来?」
「そう。今よりずっとずっと遠い未来。あなたがね、思い描く、ありったけの夢と希望をできる限り形にして、頭の中で想像してみて」
なんだそれ。「そんなの急に言われても、わから――」
「あのね、そんな時間はないんだ」かき消すように言われた。「ごめんね。説明不足なんだけど、これしか思い浮かばなくて」
「わ、わかったよ」
つたない頭を最大限に働かせてあらん限りの未来を思い描く。
自分の夢――
希望――
それは、きっと。
「どう? 見えた?」
「うん」
「どんな感じ?」
この質問になぜか口ごもってしまう。こんな馬鹿な空想を他人に、しかも初めて会った女の子に伝えるのが、とんでもなく恥ずかしいと思えたからだ。
そんな自分にお構いなしに彼女は続ける。
「あなたの夢は叶ってる?」「あなたの未来は明るい?」「あなたは笑ってる?」「どんな未来が広がってる?」「どんな未来になってほしい?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に対してたまらず目を開けた。
「いきなりそんなこと言われても……とっさに思い付いたのは、妹や弟とかのことだけだったよ。あいつら、家ではやかましいくせして、外では――」
ここまで言って口が止まってしまった。目をぱちくりさせて、目の前の光景に息を呑む。
彼女の体は透き通り、柔らかそうな白い肌の向こう側に路地の続きが見えた。そのまま空気に溶けるように存在自体がゆらめいていた。
彼女は寂しそうに笑う。
「未来ってね、強く願えば願うほど叶っちゃうもんだよ」
気のせいだろうか、薄っすらと瞳に涙を浮かべていた。
「ごめんね、もう時間がないの」
なんだ。わけがわからない。だが、なぜかこちらも猛烈な寂しさに襲われてしまった。
「あなたに悪意が迫ってる」
予想もしないその一言に思わず身を乗り出した。
「悪意?」
「そう、大きな悪意。それはね、もうすぐ目に見える形でやってくるよ。縦横無尽に空を舞う悪魔があなたの未来を奪いにやってくるの」
「な、なんだそれ」
「そいつはね、何度も何度もあなたのもとにやってきて、死の雨を降らせてくるの」
気が付くと額には汗がだまになっており、次々と頬を流れてあごに滴り落ちた。
「だから、お願い――」
もうすでに、彼女の姿は意識しないと気付かないぐらいに消えかかっていた。
緊張に全身が震えて、固唾を呑んで彼女の最後の言葉を待つ。
「なにがなんでも、逃げて」
手を伸ばして触れることも叶わず、彼女が完全に姿を消すと同時に、至る場所に設置された警報機がけたたましく鳴り響いた。
一瞬で、静まり返った町がたたき起こされる。
不安定なノイズが混じる警報は、繰り返しある事実を警告してくる。
息を切らせて家族のもとへ走った。
さっきのはなんだったのだろうか。
夢?
いや――
一瞬だけ目を閉じて思い返すが、路上の石に躓きそうになり慌てて頭を振る。
それどころではない。
遥か遠い東方の洋上。
大量の爆弾を積み込んだ動く要塞が、次々と発艦してこの町へ迫ってくる。
鼓動が激しくなり、視界は狭まる。
走り抜けるごとに一瞬で周囲の景色が遠ざかる。
急げ。
大切なものを守るために。
頭を埋め尽くすのは、眼前に迫った危機にどう対処するかだけだ。
あの子のことは、もう頭の中にはなかった。
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