透明と白濁

佐久 創

第1話 先輩と僕

 僕は至って普通の人間だ。ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に育てられ、それなりの友人を持ち、それなりにいい人生を歩んできた。

 だからあの時、きっと僕はあれが何かわからなかった。納得ができなかったのだ。共感も、理解もできず、とにかく「わからない」という気持ちでいっぱいだった。

 そして人とは、得てして自分とは違うもの、自分にとってよくわからないものに心を惹かれてしまうものなのである。


 *


 それはとある夏の、放課後の大学での出来事だった。

 夏休みが目前に迫った学校は閑散としていて、夕暮れになれば残っている学生はほぼいない。集中講義のあとに居残って簡単な課題を済ませた僕は、待っていてくれるような友人がいないこと、そしてこの後にも特に予定がないことといったことにいささか寂しさを覚えながら、帰路に着く。明日からの予定を思い返しながらぼんやりと廊下を歩いていれば、ふと目の端で、教室に何かを捉えた。ああ、僕のように居残った学生がいるのか。そう思って何気なく目をやると、それは、僕がよく知る先輩であった。

 先輩とは、僕の一つ上、三年生の大学生である。一つ上と言っても実際は留年しただか休学しただかで、年齢は三つほど上であると聞いている。さっぱりとした顔立ちの美人で、小さな鼻に白い肌、細い髪が印象的な女性だ。少し変わった中性的な話し方をし、いつもふざけた冗談ばかりをいっているのにどこか知的で、なぜか専攻の違う僕に興味を持って絡んでくる不思議な先輩である。美人に親しく接されて悪い気がするはずもないが、そう言った下心とは違うところでも、僕はこの愉快で捉え所のない先輩を好ましく思っていた。

 声をかけようかと少し迷い、扉の前で立ち止まる。しかし何故だか、先輩がいつもと様子が違うように思えてしまい躊躇われた。いつもならばこういう時、敏い先輩は、人の気配に早々に気づいてこちらに声をかけてくる。それが今は、こちらを見ようともしないからだろうか。

 窓辺に座る彼女は背を向けてしまっていて、その表情は伺えない。その手にはカッターナイフが握られていて、暇つぶしでもするように刃を出し入れしている。かちかち、かちかち。聞こえないはずの音が、何故だかやけに生々しく、耳に届く。

 その部屋はまるで世界から切り取られてしまっているかのようで、こちらとあちらを繋ぐ扉はひどく重い鋼鉄でできているかのように、先輩のいる中の様子を写す小窓は、物語を流すスクリーンであるかのように思えた。

 閉ざされた薄いカーテンからは夕日が透けていて、部屋全体をぼんやりと照らしている。そして、その光に透けて見えなくなってしまうくらいの存在感で、先輩は居た。普段の様子がまるで嘘のように。昼と夜の境に溶けていくような先輩は、確かに先輩でありながら、僕の知らない人のようだった。

 そして、しばらく手の中でカッターナイフを弄んでいた彼女は、おもむろに、その刃で真っ白な左腕を切りつけた。

「あ、」

 つい漏れてしまった声に、慌てて手で口を覆う。しかし、イヤホンをしている彼女に扉越しの声は届かなかったようで、こちらに気づくことなく、一定のリズムを腕に刻んでいく。

 目をそらしたくなる光景が、目の前に繰り広げられていく。刻まれるたびに体の影からちらりと見える腕には、見る見るうちに赤い線が何本も引かれていった。その線を見るたびに、思考力を奪われるような、足元が覚束なくなるような感覚に襲われる。


 これはなんだ?何をしているんだ?なぜ先輩は、こんなことをしているんだ?


 なぜ僕は、それを見ているんだ?


 答えられない質問が浮かんでは消え、また同じような質問が浮かんでは消えた。わかることといえば、きっとこれはとてもプライベートな問題で、決して他人が土足で踏み込んではいけないことだということ、見てはいけないものを見ているということ、そして、それでもなぜか、目が離せないということだけだった。

 この距離から、この角度からでは、今しがた作られた傷がどのくらいのものなのかは窺い知れない。これ以上を知ろうとしてはいけない、何も見なかったことにして、この場を離れなければならない。頭ではわかっているのに、自分でも理解できない衝動が僕をこの場に釘付けにして離さない。

 笑顔とユーモアを愛する彼女が、頼れるしっかりとした人だという勝手な印象が、僕の中の「先輩」が、塗りかえられていく。


 気づけば先輩はカッターナイフをしまい、ぼんやりと宙を眺めていた。止血をしているのか、左腕はもう片方の手で押さえられている。先ほどまでの幻想のような空気は一気に気怠さを孕み、先輩は力無く項垂れているようにも、心地よさに脱力しているようにも見えた。

 僕は、気づけば止まっていた呼吸を再開し、我に帰ったようにその場を離れようと一歩、退いた。

 その時、先輩が何かに弾かれたかのようにこちらを見た。

 ああ、しまった、目があった。気づかれてしまった。瞬間に僕の中に、猛烈な恥ずかしさと罪悪感が生まれた。その衝動は耐え難く、気づいた時にはもう足は走って逃げ出していた。

 廊下を抜け、階段を駆け降り、駐輪場に止められた自転車をひっくり返さんばかりの勢いで引き摺り出す。そうやって再び我に帰ったのは、下宿先のアパートの扉を閉めた時だった。


 鍵を閉め、ずるずるとその場にしゃがみ込み、上がった息を整える。背中にかいた嫌な汗は、きっと暑い中全力で走ったから、だけではない。

 どうすればよかったのだろう。どうしようもなかった。いや、僕はそもそも誤った行動をしてしまったのだ。あそこからどうすればよかったのかなんて決まっている。謝罪するべきだったのだ。でも、本当に?触れて欲しくないのではないか?ならば黙って、あの場を離れるしかなかったのではないか?しかし少なくとも、気づかれてしまった以上、こうやって逃げ帰ってしまうのは間違っていただろう。

 自問自答の渦が頭を回り、罪悪感がどんどんと膨らんでいく。それと比例するように、だんだんと「教室なんかであんなことをする方が間違っている。」という憤りも芽生え始めた。しかしこれは自己擁護のための憤りであることも、僕は理解している。ああ、そうだ、僕はあれを見るべきではなかった。「何をしているか」に気づいた時点で、僕はその場を離れるべきだったのだ。

 この先どんな顔をして先輩に合えば良いのだろう。専攻が違うのだから、避けるのはそう難しいことではない。ならばいっそ、このまま縁を切ってしまおうか。

 しばらくは学内の共有スペースを利用することを控えよう。先輩もきっと、もう僕の顔も見たくないはずだ。謝ることができないのは心が痛むが、かといってどう謝れば良いのかもわからない。つまりは、諦めるしかないのだろう。きっとそうだ。

 部屋に乱暴に荷物を置き、熱いシャワーを浴びながら今日のことを考えたが、それ以上の答えは浮かばなかった。学校の課題も読書も手につかず、何をするにも今日の放課後の出来事が脳裏をよぎる。結局そうして布団に入ってもまだ、僕はその問いと答えを繰り返していた。眠れない夜の終わり、白んできた部屋の中、ようやくまどろんできた頭で最後に思い出したのは、夕暮れの空気に溶けそうな先輩の姿と、白い肌に引かれた赤い色だった。


 *


 結局この事件は、僕のこの時の葛藤とは全く違う方向へと進んでいくこととなる。


 翌朝、僕はいつもより遅い時間に目を覚した。スマートフォンを確認すれば、一〇時をすこし回ったところだ。夜から友人と飲みにいく約束をしているものの、昼間の予定はない。寝不足の頭でSNSの確認をしていれば、メッセージアプリに、先輩からのメッセージがきていることに気がついた。途端、冷や水を浴びせられたように目が覚め、再び昨日の罪悪感が胸の中に広がる。

 僕は法廷で判決を言い渡される罪人のように、微かに震える指でそっとそのメッセージを開いた。


[ 今日、会える? ] 8:22

[ 奢るよ ] 8:22


 簡潔なメッセージを確認し、また知らずに止めていた息を吐く。どうやら先輩は、このままにはしておいてくれないらしい。断罪されるのか、もしくは向こうが謝るのか。

 どちらにせよ僕は、この機会からは逃げてはいけないだろう。先輩が嫌いになったわけではないのだ。ここまで条件が揃ったなら、一言だけでも謝罪を入れるべきだ。僕はどう返そうか迷いながら、結局「昼間ならいつでも大丈夫です。」とだけ返した。

 返信は程なく、「了解。では、いつもの喫茶店に14:00」と、簡素な文に「またあとで」というゆるいタコのスタンプがついてきた。どうやら怒っているわけではないのかもしれない。

 幾分かほっとしながら、布団から起き上がり、冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出してコップに注ぐ。他の連絡もチェックしながら、淡々と朝の支度を進めていく。どうやら、一四時の予定まで落ち着くことは出来なさそうだ。


 もしかしたら、先輩をあそこまで苦しめるものは、むしろ後輩の僕になら打ち明けられるようなものかもしれない。助けてあげようなんていうのはおこがましいし、そんなつもりもないが、もしかしたら、ほんの少しなら力になれるかもしれない。

 部屋を出る準備をする頃には、悶々と考えすぎた結果そんなことすら頭に浮かんでいた。

 そんな淡い期待と、その分だけ軽くなった罪悪感を胸に、僕は約束の喫茶店へと向かったのだった。


「いつもの喫茶店」とは、大学近くの昔ながらの喫茶店「レモン」のことである。映画や本の趣味が合う僕と先輩は、よくこの喫茶店で作品についてやそれとは関係のない話をつらつらとするのだ。

 約束の時間より少し前に、からん、と来店を知らせるベルをならせば、すでにきていた先輩がぱっと顔を上げて手招きをした。

 昨日の様子とは打って変わり、まるで変わらない「先輩」だ。そこには昨日の様子の面影は欠片もなく、あっけらかんとした性格の、いつもの先輩がいた。

 あまりに変わらない様子に僕がつい立ち竦んでいると、先輩は怪訝な顔をして首をかしげ、おーい、と手を振る。

 いささか拍子抜けしながら席に着くと、「アイスコーヒーでいい?」と、僕がいつも頼むものを挙げた。はい、と頷けば、「あ、せっかく先輩の奢りなんだから、何か食べなよ。」とメニューを渡される。ああ、いつもの先輩だ。これはもしかして、「なかったことにしろ」ということなのか。

 真意を図かねていると、再び先輩が口を開いた。

「私アイスティーかな、君、お昼は?」

「朝飯とまとめて食ってきました。」

「そっか、じゃあもしかしてお腹空いてないかい?デザートでもいいんだけどさ。」

「じゃあ…ガトーショコラで。」

「オーケー、遠慮しないでね?また食べたくなったら頼みな。」

「さすがにケーキ二個は食いませんて。」

「ふふ、そう?甘味好き系男子じゃないか、君。」

 先輩は、マスター、と唯一の店員である初老の男性を呼ぶと、アイスコーヒーとガトーショコラ、アイスティー、それにレモンケーキを注文した。馴染みの店主はかしこまりました、と奥へ戻り準備に取り掛かる。先輩はさて、とメニューを片付けると、両手を組んで顎を置き、机に肘をついた。小さな鼻と白い肌、光の透けるきれいな髪に、白いシャツと薄手の黄色いカーディガン。ここまで全く、いつもと同じ。いつもと違うことといえば、先輩が真夏になっても必ず長袖を着ていたのは、きっとあれの痕を隠すためだったのだろうか、と僕が勝手に思ったことくらいだろうか。そんなことを考えながら、あまりにも普通な先輩を眺めていれば、先輩はいつものように口を開いた。

「なんでそんなに普通なんだって顔だね。昨日あんなことがあったのにって。」

 いたずらな笑みを浮かべる先輩のストレートな物言いに、ぎくりとする。二の句を継げずにいると、からからと先輩は笑って言った。

「あはは、ごめんごめん。意地悪を言うつもりはなかったんだよ。いや、呼び出して悪かったね、まあ、なに、ほら…やっぱり君、昨日のこと気にしてるでしょ。気にしてるんだろうなと思ってさ。私としては、別に気にしなくていいよって思うんだけどさ、まあ、無理でしょ?だから一回、腹割って話そうかと思ってね。」

 悪びれる様子もなく、かと言って落ち込む様子もなく、まるで過去に見たことのある映画について話すようなテンションで先輩は話し始める。運ばれてきたレモンケーキを一口食べると、そのまま言葉をつないだ。


「本当に、別に君はあの件に関してなんの責任も負う必要はないんだ。」

 僕もクリームの乗ったガトーショコラを口に運びながら、話を聞く。

「むしろ被害者だよ。見たくもないものを目撃してしまったんだから。それについては私に非があるね、あんなことは、公共の場ですべきではなかった。」

 よく冷えたアイスコーヒーは、外が暑かったせいもあり、するすると心地よく喉を通って行く。でも胃の腑に落ちたそれは冷たすぎて、一度に飲めば芯から冷えてしまいそうだった。

「あれは一種の癖のようなもので、私が何か重い精神疾患を抱えているだとか、どうしようもない思いを抱えているだとか、そんなことではないんだ。ただの癖、タバコを吸う奴っているだろ?体に悪いのに。そう言うアレさ。」

 いつもの冗談を言う口調とおんなじ調子で、先輩は話す。

 聞きながら、僕がフォークで突いたガトーショコラの上のクリームは、綺麗に整えられていた形が不定形に崩れて、皿の上にべたりと落ちた。


「――じゃあ、いつもあんなことを?」

 その瞬間、僕の口から飛び出たのは、自分でも思いもよらない言葉だった。

 僕はここに、謝罪をするために来たのではなかったか。どうしてこんな言葉が口をついたのだろうか。混乱しながらも顔をあげれば、目をぱちくりとさせた先輩がいた。しかし驚いた顔も一瞬で、先輩はすぐにいつもの調子に戻ってしまう。

「まあ、そうだね。少なくとも一回や二回じゃあないよ。」

「痛くないんですか。」

「痛いさ。でも、癖になってしまったんだ。」

「どうしてそんなことを。」

「どうして?うーん、きっかけは忘れてしまったな。まあ、癖ってそう言うものじゃないかい?」

「だから長袖なんですか。」

「ご明察。」

 踏み込んではいけない。不躾なことを聞いている。自覚はあるのに、口をついて出る質問はさっきまでが嘘のようにするすると出てきた。

 ああ、まただ、思考力を奪われ、足元が覚束ない。目が眩んでいるような感覚。僕は今、また彼女に釘付けにされている。いつもの昼下がりの喫茶店だったはずの空気が、だんだんと夕暮れに飲み込まれていく。

「……このことを知っている人はいるんですか。」

 その一言を口に出してみてようやく、理性の一端を捕まえた。さすがにこれは、この質問はおかしい。「後輩」が、無遠慮に聞いていい範囲をとっくに超えている。

 幸い、客足はまばらで、僕たちの周りの席についている客はいない。店内には心地よいBGMが流れており、僕たちの会話を周囲に聞かれてしまっているようなことはなさそうだった。ほっと胸を撫で下ろすこともできないままに、先輩が答える。

「君だけ。他には、誰も。」

 その瞬間、満足にも似た感情が僕の中に広がる。もはや僕にとって、わからないのは僕自身についてだった。どうしてこんなことを聞いているのだろう。そしてなぜ、その言葉に満足しているのか。今日は偶然でも居合わせてしまったことを謝罪して、いつものように他愛もない話をして、そして、また日常に帰るつもりだったのに。

 昨日からのこの衝動は、先輩の力になりたいなどという純粋な思いやりの気持ちからくるものだと、果たして言えるだろうか。いや、もっと私欲に塗れた、おぞましい何かであるような気がする。僕は僕が、なんだか恐ろしく思えてきた。僕の中にある僕に似た何かが、恐ろしい。

「君がそんなことを聞いてくるって言うのは少し意外だったな。――まあ、それだけ衝撃的だったってことかな、なんというか、すまなかった。」

 初めて謝罪を口にした先輩を前に、また僕の中の罪悪感が膨らんでゆく。

「違うんです、こんなことを言うつもりはなかったんです。本当に、つい口をついてでてしまって…。僕の方こそ、見てしまって、すみませんでした。偶然だったとしても、僕は謝ろうと思って、今日ここに来たんです。」

 もはや何を言っても取り繕うようだが、今からでも目的を果たそうと、必死に言葉を繋ぐ。頭を下げれば、くしゃりと髪を撫ぜられた。

「いいんだ。言っただろう、これは君になんの非もないことだ。謝る必要なんてないんだよ。」

 その一言を最後に、先輩はもうこの話はおわり、とばかりに最近話題の映画についての話を振ってきた。僕もそれに倣って、その話題に乗った。

 現金なもので、人は許されれば自分の罪がなくなったかのように安心する。僕も同様、許されたことに、他愛もない話を続くことに安心して、先ほどまで感じていた恐ろしさを見失ってしまった。


 どのくらい話しただろう。少なくとも、取り止めのない話をしながら、僕はアイスコーヒーをもう一杯、先輩はアイスカフェオレを注文した。

 おかわりが運ばれてきた時、ふと、受け取ろうと手を伸ばした先輩の袖口に、目が行ってしまった。意識してみなければ見逃してしまうほどの、うっすらとした横一線の傷痕。それをみた瞬間、頭に、今朝方思ったことがふと過ぎってしまったのだ。

 あんなことをしておきながら、本当にただの癖だなどということがあるのだろうか。やはり何か、僕には言えないような悩みがあるのかもしれない。


 ――君だけ。他には、誰も。


 先ほどの先輩の言葉がリフレインする。

 僕だけ、ならば、いざと言う時に手を差し伸べられるのも、もしかしたら僕だけかもしれない。自惚れた考えかもしれないが、それでも、ただ先輩の安息に僕がなれるのなら。

 そんな思いが浮かんでは消えてゆく。先輩はそんなことには気づかず、変わらず話を続けている。

 適当に相槌を打ちながら、話題が途切れた頃。今だと、僕はできるだけさりげなく切り出した。

「…あの、先輩」

「なに、ケーキ食べる?」

「違いますよ。…ああ、あの、僕ならいつでもこうやって、話するんで。」

「ええ〜、急になにさ改まって。言われなくても、私いっつも君を連れ回してるじゃない。」

「いや、まあそうですけど…。僕も結構楽しんでますし、話すの。だからなんすか、その、気にしないでなんでも話してくださいね。…僕結構聞くの上手なんで。」

 慣れない冗談まで言った言葉は、果たしてうまく言えているだろうか。しどろもどろになりながらも紡いだ言葉に、先輩は答えない。

 目を見れないまま、誤魔化すように言葉を続けてしまう。

「別に無理にとは言わないですし、僕が何かしようなんてことも思ってないですけど、ただ、その…話くらいなら聴けるしと、思いまして。」

 ついに言葉が続けられなくなった。黙ったままの先輩に、間違えてしまったかと緊張する体は熱く、冷や汗が垂れそうだった。

 からん、と、先輩のグラスから音がした。見れば先輩は、ストローでカフェオレの中の氷をくるくると回している。グラスを見つめてしばし黙った後、ようやく先輩は口を開いた。


「私が君に、さっき以上に話すことはもうないよ。」


 すう、と血の気がひき、頭が酸欠になっているような感覚がする。

「そう、ですか。…いまは、そうかもしれないけど――」

「ないんだ。これ以上は、ない。」

 ピシャリと言い切る先輩に、ああ、僕は間違えたのかと停止しそうな頭でそれだけを思った。先輩は先ほどまでと似た、でも何かが違う笑みで顔をあげる。

「きみはひとがひとを救えると、本気で思っているんだね。」

 つられてようやく見た先輩の瞳は、何も写していなかった。いつもは僕をみてきらきら煌く茶色の瞳は、何も見ていないようにどこまでも空虚だった。

「別に、そんなつもりじゃ…ただ、いや、そんなことを言いたかったわけじゃなくで、救いたいとか、救ってやるとか、そんなことじゃなくて、ただ、何かの役に、立てるなら、って。」

 とっさに僕の口から出た言葉はあまりにもお粗末で、耐えきれなくなった僕はそのがらんどうから目を逸らした。そんな僕の様子を、先輩は心底おかしそうに、ふふふと笑った。

「いや、別に責めてるわけじゃないさ。当然の流れだと思うよ。ただ、私は別にそれを望んでいないと言うだけだ。」

 くつくつと笑いながら、先輩はゆっくりと、ほんの少しだけ袖をたくし上げた。僕の目は、吸い込まれるようにそこに注目してしまうが、先輩は気にも止めていない様子だった。手の甲がこちらを向いていて、傷は、見えない。

「そもそも別に、隠す気はないんだ。見つかるとほら、さっきの君のような反応をされるだろう?想像できたからね。言っただろ、これは癖だ。心配されたいわけでもなければ、死にたいわけでもないんだよ。そう言う意味で、さっきの君の反応は、見当違いの的外れってことさ。」

 彼女の言葉が、ぼやけた僕の頭の中に染み込んでいく。これが、本当の先輩だと言うのか。これまで見てきた先輩と、似ていて、でも、どこか違う。

「いいかい?所詮ひとはひとりなんだ。自分を救えるのは自分だけ。二人でいたって三人でいたって、その事実は変わりゃしない。二人ならひとりとひとり、三人ならひとりとひとりと、そしてひとりだ。オーケー?」

 両手で人差し指を立てて寄り添わせては離し、先輩は語る。袖口から除く白く浮き出た線状の傷痕が、さっきよりもはっきりと見える。僕は目が眩み、黙って話の続きを待つしかなくなってしまう。さっきまで聞こえていた、遠くの座席の客の微かな話し声も、趣味のいいBGMも聞こえなくなり、嫌にうるさい自分の心音と彼女の声だけが取り残される。僕の周りにまとう空気はいつの間にか、あのむせ返るような夕暮れ時に似ていた。

 ああ、彼女は確かに先輩だ。彼女の語る言葉は、これまでの先輩の言葉の端々にもにじみ出ていたことだった。似ているのではない。僕が、彼女の「先輩」の部分しか見せられていたなかったにすぎないのだ。

 そして今、僕はきっと「彼女」という深い深淵の縁に立っている。興味本位で中を覗いてしまって、目を離せずにいる。

 そして、深淵を覗く時、深淵もまた、こちらを見ているのだ。だからきっと、こんなにも落ち着かない気持ちになるんだ。そうやって僕は、目の前の空虚に、化け物じみていて、それでもどこかに人間のような寂しさをたたえる彼女に、魅入られているのだ。

 僕は黙って彼女に先を促した。彼女はそっと指をたたみ、

「そう。だから君には、私が救えない。」

 そう、僕に言った。


 それから先輩は袖をまた掌まで引っ張ると、一気にカフェオレを飲み干した。

「意地悪言ったね。誤解しないで欲しいんだけど、私は君のことが大好きなんだよ?本当に。だから君もつまんないこと言わないで、これまで通り私にかまってくれると嬉しいな。――無理にとは、言わないけどね。」

 そう言って伝票を手にすると、またね、と言ってカウンターの方へと歩いていった。

 僕は追いかけようとしたけれど、全身がまるで金縛りにあった後のように重だるく、先輩の言葉に、はい、また、と小さく返すので精一杯だった。


 からん、と音を立てて先輩は店を出てゆく。それでも夕暮れ時の残り香は僕にまとわりついて、思考をぼやかしてしまう。すっかり汗をかいて薄くなったアイスコーヒーと取り残された僕は、そんな回らない頭の中でただ漠然と、しかしはっきりと、僕は、先輩が好きなのだと自覚した。

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