立場

 カーテンの隙間から柔らかな陽光が差し込み清々しい朝を迎えた。母さんの美味しい朝食を食べ軽やかな足取りで登校し着席した。授業が始まり、プリントが前から配られてくる。前の席のヤツが振り返ると、ボクはトイレに駆け込んで、朝食べた物を全部吐き出した。


 口の回りを血で汚した田口の顔を鮮明に思い出してしまった。そういえば吉澤が欠席している。昨日起こった事を思い出すと、どんどん身体が重くなっていった。


 給食を殆ど残し、集会所へ向かった。しばらくすると誰かが上がってくる。やっぱり田口だ。田口が歩み寄ってくるとボクは何故か後退りしてしまった。


「な、なんだよ」


「口の利き方に気をつけろよ!」田口はボクの頭を叩いて、ケータイの画面をボクに向けた。


 松葉杖を持った中学生が細い路地に入っていく……逆側からやってきた同じ制服の中学生の顔面を松葉杖で殴打し、血塗れになりうずくまる。手を緩めることなく松葉杖で危害を加えた後、立ち去る松葉杖の中学生の顔が鮮明に映っていた。


 そうだ、そうだった。藤代の通学路を調べさせたのはボクだ。決行日は教えてなかったから油断していた。コイツはボクを監視していていたのか?


「靴下脱げよ」


「なんでだよ」


「これを見て、なんでお前が口ごたえできるんだよ!」


 田口はボクに平手打ちをした。ボクは滲み出る涙を拭い靴下を脱ぐと、口に詰めろ、と田口は言った。拒否する選択肢が無いと知ったボクは靴下を咥えた。


「違えだろ! 口に詰めろって言ったんだよ!」


 田口は凄い形相で咥えた靴下を喉の奥へと押し込んできた。ボクはのけ反り後ろに倒れてしまう。すかさず田口は馬乗りになり、何かを取り出した。次の瞬間、左脚に激痛が走り、ボクが叫んだと同時に田口は喉奥まで靴下を押し込んだ。気持ち悪さと激痛で頭が変になりそうだ。左脚を見るとコンパスの針が太腿に突き刺さっていた。脳がそれを認識するとさらに痛みが強まった。田口はボクの様子を見てニヤリと笑っていた。そしてその表情を変えずにボクの太腿に突き立ったコンパスを蹴り上げた。


「んんんんんんん!」


「煩さいな、人が来ちゃうだろ」


 田口はボクの呻き声が出ないように喉奥に靴下を押し込む。ボクは靴下と一緒にゲロを吐き出した。田口はボクの顔を踏み付けた。吐瀉物に擦り付けるようにして何度もグリグリと押し付けられる。


「なあ、覚えてるか? あの時はお前がゲロまみれの俺の頭を踏みつけてたよなあ。お前の勝ち誇った顔、忘れてねえからな! 謝れ!」


 昼休みの体育館女子トイレの出来事。田口の変態行為の撮影と彫刻刀で脚を刺した事しか覚えていなかった。顔への圧が高まる。


「早く、謝れええええ!」


「……ご、ごめん、なささい」


「何だよ、その謝り方は。『申し訳ありませんでした。私は田口様の奴隷です』だろう。さあ、言えよ!」


 田口は振り上げ足をボクの側頭部に突き落とした。耳がキーンと鳴り、視界が白くなり、ゆらゆらと揺れだした。


「ごめんなさいもうしわけありませんでしたああああ。ぼくわああたあぐちさまのどおれいになりますうううう……」


 そんなボクを、ケタケタ笑いながら撮影する田口に殺意を覚えることもなく、自分の吐いたゲロに沈み、さらに深く深く堕ちていく、感覚も消え、音も消え、思考も消え、何もかも消え、自分そのものも消えて、底の見えない海の底の暗闇に溶けて消えていった。



 朝起きたら顔を洗うように……トイレに行ったら手を洗うように……寝る前に歯を磨くように……それが当たり前過ぎてまるで自然な流れのように、ボクはマンションの14階に立っていた。


 キーン……キーン……キーン……。金属音が背後で鳴っている。聴こえていても、いなくても、どうでもよかった。だってもうボクはいないから。消えたから。ボクは欄干に登った。


「コーチの母ちゃんは本間を殺したこと知らないよなあ?」


 煙草の煙が通り抜けると、左脚に痛みがある事を思い出す。


「コーチが死んだら、お前の母ちゃんにこの画像送りつけてやる」


 急に脚が震えだし、欄干にたっていられそうになくなる。弾き飛ばされた煙草がボクの肩を掠めて落下していく。振り返ると彼はケータイの画面をこちらに向けていた。脳みそをぶちまけた本間とボクのツーショットだ。やっぱりあの時撮影していたのか……。


「この画像を母ちゃんが見たら何を思うんだろうなあ。虐められっ子だと思っていたら、実は殺人犯でした……。そして殺人犯の母親として後ろ指差されながら、生きていくんだろうなあ。どこに逃げようと必ず見つけ出し、職場や家に嫌がらせし続けることを約束してやる。そして行き場のなくなった母ちゃんは熟女専門の風俗にでも沈めてやるぜ。お前の母ちゃん歳の割にイケてるから、いい線いくと思うぜ」


 鎌の眼は口許だけで微笑んで、手を差し伸べた。もう死ぬことも許されないのか。全身の力が抜けていく。気を抜いたら落ちてしまいそうだ。死んだら楽になれると思ったのに、ボクが死んだら母さんが地獄に堕とされる。殺人犯の母親……。


「母さんだけはやめてください」


 彼の手を握ると力強く引き戻された。ボクが左脚を痛がる様子を見て、何も言わなかった。田口に撮られた動画を観たに違いない。


「まあ、これ飲んで落ち着けよ」


 ブラックの缶コーヒーを渡された。


「乾杯」


 何に乾杯だよ? 飲む気にならないボクの黒い缶コーヒーと彼の缶コーヒーをコツリと合わせた。何故、二つ用意してある? 黒いはずの液体はまるで水道水のように味がしなかった。

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