第44話 出発のうた
ネスト様への報告を終えて部屋から退出する。ドアが完全に閉まり、ネスト様の姿が見えなくなる。俺は深く息を吐いた。
「まだ……ネスト様の部屋……緊張するの?」
「するよ。カナメはしないの?」
「……しない」
カナメはさらりと言ってみせる。考えてみればカナメは俺より年下とはいえ、館で働いている期間は俺より長いのだ。必然的にネスト様やネスト様の部屋と触れる時間が多くなる。
しかし冷静に見えてカナメも感情が俺とは違う方向に昂っているように見えた。その証拠に廊下を歩く彼女の足取りが軽やかだ。跳ねるように足を動かしている。
きっと戦の前に自分のできることを成せたと言うのが嬉しいのだろう。俺だって嬉しい。カナメがここまで感情をわかりやすく表現するのはとても珍しい。雪でも降るのではないのだろうか。
文化人との繋がりをネスト様へ報告した後にはいよいよ俺のやることは無くなった。あとは戦える人たちに任せるだけだ。
そこから数日は普段通りの日々が続いた。無風の湖面のように静かで、落ち着いた時間が続いた。俺は詩作を黙々と続け、カナメは庭の手入れと魔獣の居住区の整備を行っていた。
しかし静かな湖面でも突如投げ入れられた石によって泡が立ち、波紋が広がり、水飛沫が上がるのだ。
「おい!!ネスト!あとその他大勢!」
館のドアを事もあろうか足で開けたドルカの顔には焦りの色が見えた。俺を含め館の玄関近くにいた使用人たちは一斉にドルカへと目線を向けた。
「バール領の奴らが向かってきているぞ!」
その一言は館中を波立たせるのに十分すぎた。その報告がされるや否や使用人たちがバタバタと動き始める。指示が飛び交い、武器が用意される。そして十分経つ頃には館の前の庭に全ての使用人が並んでいた。
使用人たちの前にネスト様が立つ。その顔はいつものような快活で明るい好青年という感じではなかった。
「……さて、奴らが来た。魔獣を市民として領地に受け入れるのに反対の奴らだ」
全員がネスト様の言葉を一字一句逃さぬようにして聞き入っていた。
「魔獣はもうすでに貴重な労働力であり、仲間だ。彼らの尊厳を守るために俺は戦おうと思う。市民への避難令は魔法でもう飛ばした。だからこの館のみの戦力で相手の一万の兵を追い返す」
言っていることは無茶苦茶である。館で働く人数は約五十人である。それで一万の兵を相手取るなど巨象に対して虫が攻撃するようなものだろう。しかしネスト様には勝算があるのだ。というより勝算を日頃から作り続けていた。そのための戦闘訓練なのだ。
館の全ての使用人はネスト様とゲイルさんの厳しい訓練をくぐり抜けている。一対多数であっても戦える可能性はある。
「悪いがトルバトル、カナメ、それと諜報部隊の皆は留守番してもらう。館を頼んだよ」
「はい!」
喧しいドルカの応答に混じって俺は返答をした。要は小さくコクリと頷いた。ネスト様はそれを見て優しげ微笑んだ。そしてすぐに他の使用人たちの方へと目線を戻す。
「バール領からこの街に入るには橋を通るしかない。そこから敵を1人たりとも通さず、撤退させる。これが勝利条件だ」
ネスト様は無茶に無茶を重ねた。しかし使用人の誰一人嫌な顔をする者はいない。自分たちなら岩さえ手で抉れると言うような自信を持っているのだ。
「さて……最後に一つ。この街を守るぞ!」
ネスト様の声に応えて使用人たちが皆手を突き上げた。俺もカナメも諜報部隊も、戦いに出はしないが手を挙げた。この一体感が心地よかった。俺は俺にできることをやった。だからあとは応援するだけだ。
ネスト様は出発するべく門へと歩き出した。その背中は広大な大地のように大きかった。そしてそれに続くゲイルさんや使用人たちの背もまた、勇ましかった。その中の一人、キールがくるりと振り返って俺の方へと駆け寄ってきた。
「どうしたんだよ?キール」
「戦いに勝ったらパーティが開かれるだろう。歌う詩を考えておいてくれるか?」
「任せとけ!」
俺はわざと歯が思い切り見えるように笑った。キールも頬の肉がグッと持ち上げて笑う。
キールがネスト様たちに続いて門へと向かう。しかしすぐに彼女は立ち止まってしまった。それもそのはず、ネスト様自身が立ち止まっているのだ。
いきなり立ち止まったネスト様に後ろに続く使用人たちは戸惑いを隠せないでいた。勇ましい掛け声をした後には勇ましく歩いていくだけのはずだ。しかしネスト様は止まった。そして呟く。
「……そう来るか……バール領主殿……」
ネスト様がそう言うや否や、俺の真横を冷気が通り過ぎた。それは今まで感じたことのない寒気だった。そしてこれからも体験し得ないようなもの。まるで骨や血液まで凍らせてしまうような。
パキッという音がした。俺が下を向くと地面に氷が張っていた。あり得ない。それが俺の感想だった。温暖なネスト様の領地に雪が降ったり氷が張ったりするのは考えられない。
俺が目線を上げると、見える限りの建物が全て凍り付いていた。まるで街全てが青白い鎧を纏っているかのようだった。
「な、何が……?!」
確実に周囲の気候そのものが変わっていた。そんなことができる魔法や生物を俺は知らない。俺の理解と常識の範疇を超えていた。他の使用人たちも同じようだった。皆顔が青くなっているのは寒気ばかりのせいではない。不安なのだ。
ネスト様は白いため息をついた。そして館の方へと振り返り、皆へ顔を見せた。目元には氷の筋のようなものが張り付いている。
「敵対するバール領主殿は召喚や交渉が得意だ。おそらく彼はドラゴンを味方につけた。見返りは知らんが……これは氷のドラゴン、ミゾレの影響だろう」
ドラゴンが敵の味方である、その情報を聞けば寒くなくても震え上がる。勝てるはずがない。御伽噺ではないのだから。ネスト様の言葉を聞いた皆は呆然としていた。歴史上で数度しか姿を現していない最強に近い存在が自分たちの街に現れるなんて考えもしなかったのだ。
「命令を変える」
ネスト様の目から涙が溢れた。なぜ彼は泣いているのだろう。きっとミゾレが怖いからではない。何かを失うことを恐れているような、そんな目だ。仲間や部下思いのネスト様が失うのが怖いもの……。
ネスト様の目から溢れた涙はすぐさま凍りつく。そして白いため息を長く、深く吐いた。そして呟く。
「……もっと皆んなと一緒にいたかった。でもここにいれば皆は巻き添えを喰らうだろうな」
ネスト様は今度は笑顔を見せた。しかしそれは無理矢理作ったものだ。誰に、何のために作った笑顔なのか。それは自明だった。そして俺はネスト様が今まさにやらんとしていることがわかってしまった。
「お待ちください!ネスト様!」
「最後の命令だ。皆、幸せになれ」
直後、使用人たちの足元に白い光がカーペットのように広がった。俺はこの光景を知っている。ワープの魔法だ。こんなところ、このタイミングでワープを使う理由はただ一つ。俺たちを逃すためである。
「待って……!」
俺の声は届いただろうか。いや、届いても意味はないだろう。俺程度ではネスト様の発動した魔法をキャンセルできない。俺の手は虚しく空をかいた。
視界が全て白い光へと変わる。もうすでに寒さの極地に至っていたグリンの街は見えなくなっていた。ただ、最後に聞いたことのないような、万物を震え上がらせてしまいそうな咆哮を聞いた。きっとミゾレのものだ。
白い光が解け、次に俺が踏みしめた地面は草原だった。全く知らない草原だった。
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