第96話

夜明け前、足音を忍ばせて薔子は帰宅した。


鍵を回して玄関から入り、靴を脱いで入ってくるところを、暗い室内で高遠が待ち構えていた。


「ただいま」


驚いたように薔子は首を傾げた。


「待っててくれたの?」


高遠は黙っている。


その表情にただならぬ気配を感じたのか、薔子は自然と口許を引き締めた。


いつものように、気軽に抱きついてくることもない。


「どうしたの?」


あまりに長い間沈黙が続くので、再び薔子から口を開く。


高遠は薔子の目を見て言った。


清瀬由衣きよせ・ゆい


薔子の目が大きく見開かれたのを見て確信する。


「やっぱり嘘じゃないんだな」


甘さを拭い去った淡泊な面差しで、薔子は高遠を見つめている。


「門田弁護士から聞いたよ。お前の本名も、これまでのことも」


「……どうして」


「それだけじゃない。妹さんとも知り合いになった」


次の瞬間、薔子の姿が視界から消えた。


えっと思った途端、視界が反転して、高遠の体は床に打ちつけられていた。


強く頭を打ったらしく、目の前がぼやける。


やがて天井が見え、高遠の腹の上に馬乗りになって覆いかぶさる薔子の姿が目に映り、自分が押し倒された体勢になっていることが分かった。


「芽衣に何をしたの」


別人のような顔と声が言った。


いや、別人ではなく、これが本来の彼女の姿なのかもしれなかった。


高遠が黙っていると、尖った爪が眼球の上に近づけられる。


「答えて」


奇妙なほど静かな声だった。

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