第88話 ※薔子視点

***薔子視点***


クラブ『幸』を貸し切りにしたいと望む客は珍しくないが、ママである幸乃が首を縦に振る相手は少ない。


そのため実際、店を客が貸し切るというのは月に一度あるかないかぐらいである。


その十名の貸し切り客がやってきたのは、梅雨入りがテレビのニュースで取り上げられた週、豪雨ではないが細かい霧雨の降る夜だった。


「先生。お久しぶりです」


温かいおしぼりを渡しながら、幸乃は初老の男性に微笑みかけた。


彼の着ているスーツには銀の水滴がこぼれ落ちている。


本日の薔子の服装は淡青色の花菖蒲を描いた訪問着に黒い帯、髪型は低目の位置にお団子をつくり、華やかにおくれ毛を散らしている。


「しげちゃん、なかなか来てくれないから寂しかったー」


薔子が席についてわずか五秒足らず、たった一言で頑固そうな眼鏡の老人があっという間に相好を崩している。


神尾茂俊かみおしげとしというのが彼の名前で、職業は整形外科医である。


彼が連れてきたのも医師の集団で、恐らく彼の勤務先であるK大学附属病院の医局に所属する者たちであろう。


七十手前の神尾をはじめ、概ね五十代から六十代が中心だったが、引き連れられて来たのか三十代くらいの男性の姿も見える。


「何飲みます?」


神尾についてドリンクを作りながら、視線を感じて薔子はそちらに目を向けた。


集団の中にいて、ひと際若い青年がじっとこちらを見つめていた。


その瞳には好意もなければ敵意もなく、ただ純粋な興味と好奇心が映っていた。


しばらく接客をしていた薔子がトイレに立って戻ってくるとき、いつの間にか青年が個室の前に立っていた。


「あら、もうお帰りですか?」


薔子が尋ねると、青年は快活な笑顔を見せた。


「ええ。どうも、こういう場所は苦手で」


「そんなこと言わずに、ゆっくりしていってくださいな。今度は私が席に着きますから、一緒にお話しましょ?」


「ありがとうございます。薔子さん」


堂々とした態度で青年は言った。


薔子は軽く目を瞠る。

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