第64話

朝起きると、薔子しょうこは何事もなかったかのように高遠のベッドで眠りこけていた。


呆れとほっとする気持ちが、濃い目に淹れたミルクティーの割合で混ざり合っている。


複雑な気分のまま家を出て、珍しく予約の埋まらない日だったため、早めに上がらせてもらうことにした。


マンションの階段を上がる自分の足音が、知らず小走りになっている。


――馬鹿げてる。


そう自分でも思うのだが、はやる心はとめられない。


もどかしい思いで鍵を開けると、果たせるかな、薔子はまだそこにいた。


「お帰りー高遠。今日は早いんだね」


出勤前の支度をしているのか、テーブルの上に化粧ポーチやコットン、ヘアアイロン、香水の瓶といったものが乱雑に置かれている。


大きな鏡の中、くりっとした薔子の瞳と目が合う。


「ちょうどよかった。寝過ごしちゃって、美容院行く時間ないの。髪セットしてー」


「嫌だよ」


鞄をおろした高遠がぞんざいに答えると、薔子は両手を顔の前で合わせてしなを作った。


「ねえーお願い。お金払うから」


「嫌だっつってんだろ」


ソファーに腰をおろし、テレビのリモコンに手を伸ばす。


視線を感じて横目で見ると、頬を膨らませて恨みがましい顔つきで見つめてくる。


「ああ、もう、うっぜえな」


高遠は立ち上がり、洗面所からドライヤーと霧吹きを手に戻ってきた。

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