10. 騎士の想い
母レキシスの影は、シリルの肩に突き立った手斧を鎖を引き、手元に引き戻した。
シリルの顔が歪み、肩から流れる血が、その衣服を
母の裏切りのショックで何も考えられず呆然とするフェイラエールを、シリルは、馬上に引き上げた。
「ちょっと待ってなよ。ほら、フェルマーのおじさんところの私兵が気づいてこっちに来るからさ。あいつらさ、覇王になりたいんだってさ。予言をふきこんだら、すぐにその気になったよ。……って、お前、まだ動けたんだ。うざいっ」
キンっと剣がぶつかり合う音を立てて、レキシスの影の邪魔したのは、アドマースの影だった。
シリルは、それをちらりと見てうなずくと、馬首を返した。
母は、フェイラエールに関しては、公式な行事ですらほとんど出席することはなかった。
表向きは体調不良が原因だったが、自分の姿を目にするのがつらいのだろうと、ずっと思っていた。
母国を滅亡させた、仇敵である男──憎んでも憎み足りない男の娘なのだ。
(でも、違っていた。お母様は、昔から、私に関心がなかっただけ。そして、今は、私を憎んでいる)
それも、憎い男の娘だからではなく、愛した男を取られまいとする嫉妬からだ。
フェイラエールが見ないふりをしていただけだ。
母レキシスが大切に思っていたのは、今も過去も自分自身と愛する男だけだったということを。
「姫。レキシス様が姫をお助け下さったのは事実です」
なおも、フェイラエールの心中を
「大丈夫。もう大丈夫よ。本当は、うすうす気づいてたわ。私は、お母様にとっくに捨てられていたってこと。シリルが、母の悪い噂が私の所に入ってこないようにしてくれてたのね。私は、現実を正しく認識すべきだわ。そうでないと、これからは生き残れない」
「姫……」
(そうよ、今は生き残ることを考えないと)
フェイラエールは、その時になってやっと、自分の左腕が不自然に冷たいのに気づいた。
(そういえばシリルは、敵の手斧を受けて……)
シリルの左腕から流れる血が、フェイラエールの衣服までを濡らし、風を受けて体を冷やしていたのだ。
どれだけの血が流れたのかとぞっとする。
「シリルっ。手当をしないとっ!!」
「今は時間が惜しい。追手が迫っているので、まずはタキス卿と合流しましょう。すぐに彼が追ってきてくれているはずです」
「……分かったわ」
背後からの追手の足音を受けて、フェイラエールは同意するしかなかった。
月明りしかない中、慣れぬ山中の二人乗りの騎乗。
それも怪我をおして。
フェイラエールは、ただ小さくなって馬の背にしがみついていることしかできない自分の無力さに唇をかみしめた。
そして、谷川にかかるつり橋を前にして、二人の逃走に限界が訪れた。
「止まれ! フェイラエール姫ですね。保護いたしますので、皇宮までお戻りください」
「密告の通りだ。銀髪の女騎士と藍色の髪の姫」
「数日で皇都からこんなところまで来られるなんて。見ろ、騎馬の民の黒血馬だ」
私兵の指揮官と思しき男が声を張り上げ、その背後の兵の無遠慮な声まで耳に入る。
小さなつり橋の手前で追手に追いつかれると、シリルは、観念したように馬の足を止めた。
追跡者たちに背を向けたまま、降参するように両手を上げると、フェイラエールの耳元へ小さな声でささやきかける。
「姫、タキス卿がすぐ近くまで来ているはずです。時間を稼ぎます。戻ってきてはいけません」
「シリル、だめ、」
「あなたと世界を巡りたかった」
(なんで今、そんなことを言うの?)
「シリルっ」
「行けっ」
フェイラエールが振り返る前に、シリルが馬から飛び降り、馬の尻をうつ。
馬がつり橋を駆け抜け、背後に怒号が飛び交う。
体が軽くなった馬は飛ぶようにかけ、フェイラエールは、振り落とされないように、ただ、馬にしがみつくことしかできなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
あれからどれだけの時がたったのだろう。
何人の敵を切り伏せたのか。
捕らえられそうになる前に、シリルは谷川に飛び込み、ここまで流されてきた。
体はもうピクリとも動かなかった。
シリルの左腕は既につり橋の手前で使いものにならなくなっていた。
馬を操ることもままならなくなった状態では、足止めをするしか、姫を助ける道はなかった。
(姫は、無事逃げおおせたのだろうか)
騎馬の民の
それを信じて、馬に任せた。
あとは、予言が姫を守ってくれるはずだ。
(覇王を導くまでは、姫は死なない)
自分もまた予言を利用しようとしているということに気づきシリルは苦笑した。
「シリル様」
「影……か。姫は、どうなったか分かるか?」
「無事タキス卿と合流されました」
「そうか、よかった……」
「お伝えしなければならないことがあります。本家は、伯爵ご夫妻、兄上様、全て討ち死にされました。アドマースを継ぐ者は、シリル様のみです」
姫には伝えなかったが、そうなることは分かっていた。
皆覚悟の上でシリルを送り出した。
アドマースの矜持を持って。
そして、シリルもまた、自らの命を散らそうとしていた。
「伯爵家当主として命じる。影。お前は、今後姫のおそばにつけ」
「……はい」
十代の初め、アドマース家の責務として引き合わされた姫。
聡明な姫に魅了され、姫を思うその感情が、単純な忠誠心などではなく、恋い慕うという気持ちであることを、早くからシリルは気づいていた。
姫は演技のつもりだったが、シリルにとっては全てが真実だった。
「姫に、お慕いしていたと……」
言いかけて口をつぐむ。
(優しい姫に、応えられなかったという後悔の傷を残したくない)
「お慕いしていたとは……伝えないで欲しい」
(私の想いは、傷ではなく、忠誠という心の支えとして、あの方の心に残るべきだ)
シリルの瞳には、もう、現実の景色は映っていなかった。
ただ、彼が恋い慕った藍の髪の主がその先で微笑んでいた。
「ただ、シリルはこれからもずっとおそばでお支えすると、それだけを」
「お伝え……いたします」
「影、
「……っつ」
「影でも、手が震えるのだな。ああ、最後に聞いておこう。お前の名は――?」
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