空色の少女

@Casablanca27

空色の少女

 少年は、陰鬱な雨の下で両手を高く上げ、回るように踊っていた。濡れた綺麗な黒髪は乾くこともなく、ただ揺れるのみだった。少年は笑っていた。眩しい、晴れ空のような笑顔で。


 「戸井~。起きろ~」

 老けた国語教師ののんびりとした声で戸井玲子は顔をあげた。みんなが黙々とノートを書いている中、窓の外で木々は雨に揺れていた。起きて早々、玲子は大きなくしゃみをする。顎くらいの長さしかない髪とスカートが、夢に出てきた少年のように濡れていたのだった。周りの生徒は誰一人として濡れていない。玲子は、体を震わせながら寝ていた分の板書を写し始めた。

 「なんで私、濡れてるんだろ」

 玲子は書く手は止めずに後ろの席の長野つくしに話かける。

 「知らないよ~。一時間目始まる直前に玲子が教室入ってきて、そのまま寝ちゃうんだもん」

 「そうだっけ?」

 「え、覚えてないの?」

 「うん」

 「嘘だ~」

 そう言いながらも笑顔でつくしはタオルを手渡してくれる。つくしはこういう気遣いのできる子なのだ。玲子は一旦シャーペンを机に置き、髪を乱雑に拭く。タオルからは柔軟剤の柔らかい香りが漂っていた。

 「もう一人寝てるやつがいるな~。金子、お前も起きろ~」

 またしてものんびりとした声で国語教師が言う。それに気づかず金子勇太は眠っている。雨の中サッカーの朝練をした彼の髪も濡れていた。その頭を隣の席のつくしが軽く叩いて起こす。勇太は大きなあくびをすると、

 「長野、ノート見せて」

 と強引につくしのノートを取り上げた。

 「はいはい、またですか」

 つくしは半ば呆れながら言う。それでも嫌そうな顔はしていなかった。むしろ笑顔のように見えた。二年生にしてサッカー部のエースである勇太は、校内の女子の半分以上が加入する非公認ファンクラブができるほどの人気だ。その会員であるつくしは「勇太くんに一番近い女」と呼ばれ、両想いなのではないか、という噂すら立っている。実際にはただ席が近いだけだと玲子は知っているが、いつもつくしのノートを借りるところを見るにあながち嘘とも言い切れないのでは、とも思っている。玲子は頭の中に浮かんだ妄想をぐちゃぐちゃにして、板書を写す手を早めた。


 玲子はその日の夜、今朝見た夢と同じ少年の夢を見た。少年は、真っ暗な夜の中、回るように踊っていた。次の日も、また次の日も玲子は少年の夢を見た。夢の中の少年は美しかった。人気のない夜の歩道橋で舞うように踊る。公園の噴水の前で笑うように歌う。大きな月の下で笑みを見せ回る。彼にとってはこの世界の全てがステージだった。玲子は、彼の踊る姿を見ながら自分が踊っているかのような疲労感を感じていた。それがまた心地よかった。今夜はどんな踊りを見せてくれるのだろう。いつしか玲子はそれが毎日の楽しみになっていた。

 ある夜、また玲子は少年の夢を見た。しかし、その夢は今までとは少し違っていた。夜の学校の屋上で踊っていた少年が、ピタリと踊りをやめ、こちらに向かって歩いてきたのだ。玲子は動揺しながらも「これは夢……」と自分に言い聞かせて歩み寄った。

 「君の名前は?」

 少年が尋ねる。

 「玲子。戸井玲子。あなたは?」

 「僕はソラ。やっと君と会うことができた」

 ソラと名乗った少年は嬉しそうにそう言うなり、玲子の手を取って回り出した。玲子は動揺したがソラの手を握り、共に回り始めた。

 「私のことを知ってるの?」

 「もちろんさ」

 二人は音もない静かな屋上で踊り始めた。ソラの首にはサファイアのネックレスがかかっている。

 「素敵なネックレスね」

 「ありがとう」

 「あなたは何者なの?」

 「ソラ、でいいよ。君は僕のことを知らないのかい?」

 「知らない。けど私、最近ソラの夢をよく見るの。どうしてだろう?」

 「玲子」

 ソラは踊りを止め、玲子の耳に口を近づける。

 「これは夢なんかじゃないよ。僕も、君も、全てがホンモノだ」

 ソラは夜風のように静かに囁く。ソラの背後に輝く満月が眩しい。

 「ホンモノって、これは私の夢の中だよ?」

 「でも今、君はこうして僕と踊っているじゃないか」

 そう言うとソラは握った玲子の腕を引き寄せる。二人の顔が接近する。そして、ソラは玲子の瞳を覗き込む。

 「君の瞳はあの満月のようだ」

 そう言うとソラは顔を真っ赤にした玲子の手を放し、玲子から遠ざかる。アスファルトにソラの足音が響く。

 「玲子。一つだけお願いを聞いてくれるかい?」

 玲子は無言で頷く。

 「僕の話を誰にもしないでほしい」

 「どうして?」

 「君だって、友人に夢の中で出会った少年の話なんかしたら笑われるだろう?」

 「それもそうだね。わかった。話さない」

 そう言うとソラは微笑み、そして玲子に背を向けて言う。

 「もうすぐ、この夜が明ける。お別れの時間だ。また会おう、玲子」

 「待って」

 玲子がそう言って手を伸ばした頃にはソラはもう夜の闇に消えてしまっていた。


 玲子の目が覚めたのはソラを見失ってからすぐだった。玲子は、自宅のベッドの上で体を起こした。首筋には汗が流れ、着ていたTシャツにはしみができている。夢の中の暗闇とは裏腹に外は朝日が明るく輝いていた。あまりの眩しさに玲子は顔を歪める。

 「眩しい……」

 玲子はそっと呟く。やはり疲労感は残っていた。玲子は大きなあくびをする。すると、玲子の頭の中から髪の毛が抜けるかのごとく、昨日の夢の記憶が消えていく。

 「嫌だ……ソラ……」

 玲子は顔を手で覆う。少しふらつくような感覚がする。

 「お願い、消えないで」

 玲子は部屋を歩き回る。しかしその足掻きも空しく、ソラの夢に関する記憶がするすると抜け落ちる。

 「なんで……」

 その瞬間、玲子は足元がふらつき、ついに転倒してしまった。玲子はその場に倒れ込んだまま起き上がらなかった。


 ソラは朝日の差す街中を裸足で歩いていた。高い背を縮めて深い息を吐く。街を塗りつぶすような人ごみも、その異質な雰囲気のせいか誰もソラに近づくことはなかった。

 「ここじゃ、踊れない」

 ソラは小さくそう呟くと風の吹く方へと歩きだした。


 「戸井~。欠席か。連絡が入っていないが誰か知ってるやついるか?」

 点呼を取る担任の呼びかけに静まりかえった教室は口を開かない。勇太がつくしに、

 「お前何か知らないの?」

 と小声で聞くが、つくしは首を横に振る。

 「そうか。はい、長野~」

 担任は教室の静けさをかき消すかのように大声で呼ぶ。

 「あっ、はい」

 つくしが返事をして立った途端、大きな声で言う。

 「私、玲子を探してきます!」

 「おい長野! おい!」

 そう担任が叫んだ時にはつくしは廊下を駆け始めていた。その姿は廊下に吹き荒れる嵐だった。


 ソラは、気が付くと河川敷へと辿りついていた。川の流れる音と川沿いを行く人の足音、時々通る自転車の音以外の雑音がないこの空間をソラは気に入った。そして、それらの音に合わせるようにソラは踊る。回りながら川の方へ、川に近づいたらまた回りながら戻る。ソラはその一見何も意味のない動きを繰り返した。胸元ではサファイアのネックレスが激しく揺れる。首筋には汗が流れるが気にも止めずにソラは回り続けた。

 長い間回り続けて、ソラの足もふらついてきた。でもソラは止まらず回り続ける。それはまるで意識を持ってしまった独楽のようだ。足元の雑草はソラの付近だけが抜けてしまっている。やがてソラは独楽が止まるようにゆっくりと草の上にうつ伏せで倒れこんでしまった。やがてソラは意識を失って動かなくなった。


 玲子は起き上がり、学校へと向かう。足元はまだふらついたままだった。今にも倒れ込んでしまいそうな不安定な体をなんとか前へと進める。玲子の前に学校が見えてきた。玲子は足を速める。そして、一瞬ふらつきが激しくなり、そのままばたりと倒れてしまった。

 玲子が目を覚ましたのは柔らかい感触の上だった。玲子が体を起こすと白衣の女性が立っていた。

 「目が覚めましたね、戸井さん」

 「ここは……?」

 「保健室です。長野さんが倒れてるところを見つけて運んでくれたんですよ」

 そう言うと校医は玲子にペットボトルの水を差し出す。

 「ありがとうございます。つくしは?」

 「長野さんは教室に戻りました。おそらく熱中症でしょう。夏休みも近づいて暑くなってきたのでこまめに水分補給をするようにしてください」

 玲子は背中にじんわりとした湿り気を感じた。そして貰った水を勢いよく喉に流し込む。潤された玲子は大きく伸びをしたが、それでもまだ疲労感は残っていた。

 「何か変な夢でも見ましたか?」

 校医が聞く。

 「どうしてですか?」

 「寝ている時によくわからない、うなされているような寝言を言っていたので……」

 玲子の顔は暑さと恥ずかしさで真っ赤だった。ソラとの約束が頭をよぎる。窓から風が吹き込み、伸びた髪の毛を揺らす。

 「いえ、特にありません」

 「そうですか。水分補給、気を付けて」

 「わかりました。ありがとうございます」

 そう言うと玲子は立ち上がり保健室を出ようとした。ドアノブに手をかけた時、右手首に赤い蚊に刺されたような腫れができていたのが見えた。玲子は爪でその上にバツを作り、そのままドアを開けた。


 玲子はかゆみの消えない手首を気にしながら帰り道の川の土手を歩いていた。玲子の身長を越す高さの草が風に揺られている。並んで足音を奏でる野球部員を避けるように端に寄った。

 「おーい! 戸井~!」

 その声のした方を向くと、勇太が両手を大きく振っていた。

 「長野から聞いたぞ。ぶっ倒れてたんだってな。大丈夫か?」

 そう言うと勇太は玲子にリンゴジュースのペットボトルを投げる。玲子はなんとかキャッチする。

 「ナイスキャッチ」

 「いいの?これ、貰っちゃって」

 「さっき自販機でもう一本当たったんだよ」

 勇太は自分の分のペットボトルを開ける。玲子も続けるようにペットボトルを開け、ジュースを一口飲む。勇太は伸びをすると草の上に寝転がった。玲子はその横に座り込む。

 「てか今日はサッカーの練習ないの?」

 「昨日試合だったからオフ」

 「そうなんだ」

 玲子は落ちている小石を適当に川に放り込む。小石は小さな音を立てた。

 「戸井も寝っ転がれよ」

 勇太が玲子の方を見て言う。

 「いいよ、制服にしわ付くし」

 「そうか」

 勇太はそっけない返事をしてまた視線を空に戻す。玲子はまたジュースに口を付ける。風が吹き、背の高い草たちが踊り出す。

 「戸井ってさ」

 「何?」

 「好きな人とかいんの?」

 「はぁ!?」

 玲子は思わず大きな声を出す。玲子は脳内で何人もの男子の顔を巡らせようとするも、浮かぶのはソラの顔だけだった。

 「ま、まぁ……内緒」

 玲子は適当な返事で誤魔化した。

 「そうか」

 勇太はまたしてもそっけない返事をする。なんだか気まずくなり、玲子は空を見上げる。大きな雲が一つ、上空を流れていった。

 「なんで急にそんなこと聞くの?」

 なんとか気まずさを取り除くため、玲子が言う。

 「いや、なんかさ、お前、そういう噂立たないじゃん」

 「まあね」

 勇太はいつの間に空になったペットボトルを軽く投げて遊んでいる。

 「もしかしたらさ」

 「何よ」

 「俺たち一緒にいるの見られたら噂立つかもな」

 二人の間に笑いが起こる。

 「金子との噂なんて御免だよ」

 「え~」

 また笑いが起こる。玲子は楽しくなってきた。

 「そういえばさ」

 勇太は何やら自分のズボンのポケットを探り出す。

 「さっきこれ拾ったんだよね」

 その手には玲子には見覚えのあるサファイアのネックレスがあった。

 「これ……」

 ソラのネックレス、という言葉を無理やり飲み込む。

 「別にいらないから戸井にあげてもいいよ」

 「本当!?」

 玲子は興奮し始める。

 「まあ、これで噂が立つかもな」

 「うるさい」

 「ほら」

 そういうと勇太はネックレスを玲子の首にかける。玲子はソラがつけていたものだと思うと少しテンションが上がった。

 「似合ってる、くらい言ったら?」

 「くれた人に対してその態度かよ」

 「でもあんたそれ拾っただけじゃん」

 「はいはい似合ってますよ」

 「何それ」

 玲子はふふっと少し笑った。これがもし本当にソラのものなら、ソラの落とし物だろう。落とし物のネックレスが実在するならばソラも実在するはず。夢の外でもソラに会いたい、玲子はそう思った。

 その翌日から玲子の夢にソラは出て来なくなった。勇太と仲良くしていたことに嫉妬したのか、ぱったりと、だ。手首のかゆみが治っても、夏休みに入ってもソラは夢の中に現れないのだった。

 そんなある日、玲子は朝早くから家の棚という棚を開けていた。つくしから本を貸してほしいという連絡が来て、その本を探している最中だった。頼まれた本は玲子が中学生の時に買った小説。つくしはかなり読書が好きなのだが、近所の図書館が閉まっているらしく、読む本がないとのことだった。本棚を見ても目当ての本はなく、どこに収納したのかわからなくなってしまっていたのだ。そしてようやく、洋服のタンスの一番下の段から見つかった。玲子は宝物を見つけた冒険者のように喜んだ。朝食も食べずに探した甲斐があった。本を取り出すとその下にアルバムが置かれていた。玲子は棚からアルバムを取り出し、埃を払う。そして開く。それは母親のアルバムだった。玲子はそれを仏壇に置く。玲子の両親は半年前に久しぶりに二人きりでドライブデートに行ったきり、帰らぬ人となった。当時、玲子は家にいたが連絡を受け、あまりのショックにしばらく家を出ることができなかったのだった。

 「お母さんのアルバムが見つかったよ。ここに置いておくからね」

 玲子は仏壇に向かい、話かける。

 「お父さん、お母さん。私、一人で大丈夫だからね。料理は苦手だけどつくしが作りに来てくれるし、ちゃんと掃除もしてる。それにね……ううん、やっぱりなんでもない」

 玲子は言いかけてから、撤回した。ソラとの約束だ。玲子は息を吸う。

 「私、毎日がすごい楽しいよ。だから安心してね、お父さん、お母さん」

 言い終わった途端に玲子はため息をついた。そして、玲子の頬を暖かい感触が過ぎ去る。

 「おかしいなぁ。泣かないようにしてたのに……やっぱり私、泣き虫で弱いのかなぁ。お父さん、お母さん……」

 こみ上げる感情に脳の処理が追い付かず、涙というエラーメッセージが表示される。玲子はベッドに飛び込み、たくさん泣いた。そしていつしか泣き疲れて眠ってしまった。


 ソラはまたしても河川敷に来ていた。砂の上に拾った枝で線を引き、交差させる。これがソラの舞台の中心だった。ソラはいつものように回り出した。宙を舞う汗が日に照らされて光っている。ソラの胸ではサファイアのネックレスが踊っていた。

 「玲子は……僕が……」

 ソラの回転速度はどんどん上がっていく。それは最早踊りではなく竜巻のように高速で回り続ける風だった。緩んでくる速度を、地面を蹴り、取り戻す。ソラはその行為自体に夢中になっていた。いつしか最初に引いた線も見えなくなり、砂埃が高く舞う。

 「おーい」

 遠くから誰かを呼ぶ声がする。ソラは減速し、辺りを見回すがそこにいたのは声の主の少年とソラの二人だけだった。

 「まずい……」

 ソラは回るのをやめ、一目散に走り去った。そして、街の人ごみに紛れて姿を消した。


 「玲子……」

 玲子が目を開けるとつくしが顔を覗きこんでいた。

 「んん……つくし……」

 玲子は目を擦る。

 「おはよう、玲子」

 「おはよう。って今何時!?」

 「十二時半」

 「もうそんな時間か……」

 泣き疲れたあと、しばらく寝ていたようだ。ソラの夢を見るようになってから睡眠時間は確保していたはずなのにそれでも寝不足だったのだろうか。

 「てか、つくしどうやって入ってきたの!?」

 つくしに合鍵は渡していない。

 「普通に、ピンポンしようとしたらドア開いてた」

 「閉め忘れたな……」

 入ってきたのがつくしでよかった、と玲子は思った。

 「つくし、これ、本」

 「ありがとう! 読み終わったら返すね」

 つくしはカバンに本をしまうと歩き出す。

 「玲子、朝ごはん食べた?」

 「食べてない」

 「じゃあ少し多めに作る?」

 「お願い」

 「了解」

 「いつも悪いね」

 「いいのいいの」

 そう言うとつくしは玲子の家のキッチンに立った。

 「うどんとサラダでいい?」

 「お任せします、つくしシェフ」

 つくしは家から持参した野菜を水道水で洗う。レタスを手でちぎっては盛りつける。そしてきゅうりを均一な大きさに切り分ける。ミニトマトも切り、きゅうりと共にレタスの上へ乗せる。それと同時進行で鍋ではお湯を沸かしている。

 「玲子~」

 冷蔵庫を覗きながらつくしが言う。

 「ドレッシング、ないじゃん」

 「いつの間に……」

 「自分の家の冷蔵庫でしょ」

 呆れた、という顔でつくしは玲子を見る。

 「はいはい、今度買っておきまーす」

 「仕方ないなぁ。サラダうどんにしていい?」

 「わかりました!シェフ!」

 つくしは沸き立った鍋のお湯に麺を入れる。玲子はもう食卓に座り、食べ始めるのを待っている。つくしは茹で上がった麺を二つの皿に盛り付け、その上に先程のサラダを乗せ、上からつゆをかける。

 「ほら、玲子。できあがったよ」

 食卓にサラダうどんが並ぶ。玲子はおやつを前にした子供のように興奮している。

 「いっただっきまーす!」

 玲子は勢いよく食べ始める。それをつくしは呆れたような目で見ながら、食べ始める。

 「なんでつくしこんな美味しいもん作れるの!?」

 「これは簡単だよ。野菜切って麺茹でてつゆかけるだけだもん」

 「私にはそれができないの!」

 「それ、誇らしげに言うことじゃないから」

 笑いが二人を抱え込む。

 「ねえ玲子、夏休みの終わりにでも旅行しない?」

 「賛成!」

 「どこにする?」

 二人は食べる手を止めてスマホで候補を検索し始めた。開いた窓からそよ風が吹き込んだ。


 つくしも帰り、暇になった玲子はベッドの上でスマホをいじっていた。それすら飽きてしまった玲子は仏壇に向かい、今朝見つけたアルバムを手に取り、見始めた。そのアルバムには母親の写真がいくつもあった。まだ赤ちゃんの時の写真、小学校に入学した時の写真、高校受験に合格した時の写真、他にも様々な写真があった。そして最後の写真は父親との結婚式の写真だった。満面の笑みを浮かべる母親と、その横で優しい表情を浮かべる父親。写真を見ている玲子まで笑顔になっていた。しかし、玲子の顔が一瞬にして曇った。

 「これって……」

 間違いなく母親のつけているネックレスがソラのものと同じなのだ。ソラのネックレスを引き出しから出し、比較するも、全く同じものだった。さらにアルバムには祖母の字で「ネックレスは特注品!」と書いてある。玲子は状況が飲み込めなかったが、ソラに会いたいという思いだけが膨れあがっていた。夢でソラが行った場所ならいるかもしれない、そう考えた玲子はネックレスを持ち、家を出た。

 ソラが行った場所はどれも玲子の住む街に実在する場所だった。しかし、歩道橋にも、公園にも、河川敷にもソラの姿はなかった。河川敷では夜まで待ってみたが一向に現れる気配はなかった。結局玲子は河川敷の橋の下に座り込み、そこで眠ってしまった。

 翌日もその次の日も玲子はソラを探したが、見つかる気配はなかった。夕方や夜だけでなく、朝にも探すようにしたが、ソラは見つからない。

 「君も餌やりする?」

 「いえ、結構です」

 いつも河川敷で鳩にパンくずをやっているおじさんともいつの間に顔見知りになっていた。この人にソラについて聞こうと思ったが、ソラとの約束を破ることはできなかった

 ソラを探し始めて一週間近くが経った頃、玲子はもはや日課になりつつある朝の捜索を終え、自販機で水を買って飲んでいた。いくら夏真っ只中とはいえ、朝は涼しくて心地が良い。玲子は水を一気に飲み干した。その時、ポケットに入れていた玲子のスマホが鳴った。つくしからの電話だ。

 「もしもし、つくし」

 「玲子! 今どこいるの?」

 「散歩」

 「何してんの! 今日登校日だよ!」

 玲子は夏休み中に学校に行く登校日をすっかり忘れていたようだ。

 「わかった。今から行く」

 玲子は電話を切ると家に向かって走り出した。川の水面は日に照らされながら揺らめいていた。


 玲子が急いで教室に入ると担任はまだ来ていないのか、騒がしかった。そして、いつもは男子も女子も多く集まる勇太の席の周りには珍しく誰もいなかった。

 「ねぇ、金子なんかあったの?」

 玲子はつくしにスマホでメッセージを送る。つくしは玲子の肩を叩き、無言で勇太の椅子の横を指差す。そこには二本の松葉杖が立てかけられていた。そして、心なしか勇太の顔も沈んでいるように見えた。玲子はなんとなく状況を察し勇太から目を離した。その時、玲子のスマホが鳴った。教室に入ってきた担任の目を盗むようにスマホを見ると、「あとで屋上に来て」と勇太からのメッセージが来ている。玲子は慌ててスマホをポケットにしまった。


 気が付けばホームルームが終わり玲子は立ち上がる。

 「玲子、帰りにコンビニ寄ってかない?」

 「ごめん、つくし。トイレ行くから先行ってて」

 そう言うと玲子は教室を出て階段を駆けた。

 屋上に出ると、そこには眩しく暑い夏の日差しが待ち受けていた。玲子は手をかざし、空を見上げる。後ろから階段を上がってくる松葉杖の音が聞こえ、玲子は振り返る。

 「日陰入ろうぜ」

 影になっている場所めがけて進む勇太の後を玲子は追いかけた。日陰に入ると勇太は座り込む。つられるように玲子も座った。しばらくの間、二人の距離を沈黙が遠ざける。場違いなセミの声がやかましく響く。

 「俺さ」

 深い息を吸った勇太が口を開く。

 「この間サッカーの練習で怪我しちゃって」

 玲子は無言で頷く。

 「右足の前十字靭帯断裂。手術しないと治らないって医者が言ってた。手術が成功したところで高校のうちにまともにサッカーができるまで回復するかはわからないんだってさ」

 「金子……」

 玲子は言葉を失う。

 「俺、小さい頃からサッカーやってきて、将来もサッカーで生きていくつもりだったんだ。実際、二年なのにプロのスカウトの話ももう来てたんだぜ? でも、それも全部なくなった」

 勇太の目が潤む。玲子はかける言葉も思いつかず、黙ったままでいる。

 「泣いたりなんかしちゃって俺、ダサいよな……」

 勇太の目から雨粒のような涙がぽたぽた落ちる。玲子はハンカチを取り出し、勇太に手渡す。

 「ありがとう。戸井はやっぱり優しいな」

 玲子は少し照れる。

 「心配かけるから、あんまりみんなに言うなよ」

 「なんで私には話してくれるの?」

 勇太は玲子の瞳を見つめる。

 「戸井、お前のことが好きだ」

 玲子は思わず赤くなった顔を逸らす。玲子は今まで勇太のことを特に好きとも嫌いとも思っていなかった。突然の告白に、玲子はただ動揺するしかなかった。

 「私……」

 玲子の頭は感情の整理をしなければならないはずなのに突然ソラの顔が脳裏に浮かんで覆いつくされる。一瞬、意識を失うような感覚が玲子を襲う。

 「ごめんなさい」

 勇太の表情が曇る。セミの鳴き声も静まったような気がした。玲子の頭が自分の発言に追いついた時、目の前に勇太の姿はなかった。


 「玲子~? 聞いてる?」

 つくしが玲子に問いかけるも、玲子は上の空だった。玲子はなぜ自分が告白を断ったのか、その理由に説明がつかず、考えこんでいた。かといって、つくしに相談するわけにもいかず、ただ黙り込んだままつくしの横に並んで歩いた。

 玲子は家に帰っても考えていたが、断った瞬間の記憶も曖昧で、考えれば考えるほど頭痛がするような感覚に見舞われた。玲子はエアコンの効いた部屋の床に寝転ぶ。玲子はその後、つくしが作り置きしてくれていた夕食を食べ、そのまま眠ってしまった。


 翌朝、玲子はスマホに鳴り響く着信音で目を覚ました。こんな朝早くから誰が、と少し苛立ちながら画面を見ると「つくし」と書かれている。仕方なくスマホを耳に近づける。

 「もしもし」

 「玲子~」

 つくしは今にも泣きそうな声で喋っている。

 「どうかしたの?」

 「勇太くんが、勇太くんが……」

 「何?」

 「死んじゃった」

 玲子の頭が冷えていくのが分かる。

 「昨日の夜、学校の屋上から飛び降りて……」

 「どうして……」

 「分からない、分からないけど、相当辛かったんだと思う。足怪我してるのに屋上の柵登ったんだもん」

 玲子にも返す言葉が見つからない。心当たりがないことはないが、それをつくしに言う勇気はない。その後つくしは電話で小一時間泣き続け、玲子もそれを聞いているだけの時間が続いた。

 つくしとの電話が終わり、玲子はベッドに体を放る。目から雨が落ちるのが玲子の肌は感じ取った。

 「私のせい……なのかな……」

 少しの間泣いているとスマホにつくしからメッセージが送られてくる。あまりのショックに寝込んでしまったらしいつくしは今日、玲子の家に夕食を作りに来ないようだ。玲子は立ち上がり、ふらつく足で仏壇の前に座る。

 「お父さん、お母さん……私、どうしたらいいの……」

 玲子は泣きながら手を合わせる。その日はそのまま泣き続け、疲れてまともに食事も取らずに寝てしまった。


 ソラは夜の学校の屋上に一人、立っていた。警察によって張られた黄色いテープを尻目にソラは回り始めた。今夜はゆっくりと回る。夜なのに蒸し暑くはなく、涼しい風が吹いていた。ソラは回転をやめ、月に手を伸ばす。

 「玲子は、僕が……」

 ソラはまた回り始めた。ソラのステージはそのまま二時間ほど続いた。


 つくしとの旅行は、中止になった。二人ともとても旅行などに行っていられるような精神状態ではなかったのだ。つくしが玲子の家に食事を作りに来ないので玲子の食事はコンビニのものばかりだった。次第に部屋の中におにぎりやサンドウィッチの袋のゴミがいくつも溜まっていく。

 そんなある日、つくしから「本を返したいから待ち合わせをしよう」という旨のメッセージが送られてきた。玲子は指定された時間通りに公園に向かった。終わりに近づいているとはいえまだ夏。自然と背中が汗ばんでくる。暑さには敵わないのか、公園には玲子しかいないようだった。しばらく立っていると遠くからつくしが現れる。

 「ごめ~ん。遅れちゃって」

 「ねえつくし、暑いから場所変えない?」

 玲子はこの暑さに耐えられそうになかったのだ。もう腕にまで汗が滲みだした。

 「いいの、人が多いところじゃできない話もあるでしょ」

 「それもそうだね」

 二人は近くの自販機で飲み物を買い、公園のベンチに腰掛ける。

 「つくし、もう具合は大丈夫なの?」

 「うん」

 二人に微妙な間が生まれる。たった一週間ほど会っていないだけなのに、二人の距離は遠く離れてしまったようだった。

 「ねえ玲子」

 「何?」

 「この間の登校日、ホームルームのあと何してたの?」

 玲子は自分の視線が動くのを感じた。

 「何って、トイレに」

 「噓でしょ、それ」

 玲子の汗が冷や汗へと変わっていく。

 「なんで嘘ってわかるの?」

 「だって玲子、ホームルームのあと、階段登って行ったでしょ。トイレなんて階段登らなくても行けるのに。あとは単純に帰ってくるのが遅かった」

 「はい……」

 玲子には返す言葉もない。

 「で、もう一つ。勇太くんファンクラブの子が言ってたんだけど」

 玲子は唾を飲みこむ。

 「あの日、勇太くんが屋上から落ち込んだような顔で降りてきたって」

 玲子は手汗でべたべたしている手に力が入る。

 「ねえ、玲子。何があったの?」

 つくしは静かな声で聞く。玲子はつくしに一部始終を話した。

 「そうだったのね…… ねえ、玲子」

 つくしは顔を玲子の方に向ける。

 「なんで断ったの?」

 つくしの声には感情が乗ってないように聞こえた。

 「あの時のこと、よく覚えてないの」

 「何それ」

 「なんかあの時の私、私じゃないみたいだった」

 「はぁ」

 つくしはため息をつく。その瞳には呆れとも似つかない何か暗い色が浮かんでいた。

 「ほんと、本当なの!」

 玲子は涙目になりながら言う。そんな玲子の頬をつくしは突然平手で叩く。

 「あんたが断らなかったら勇太くんは死ぬことなんてなかった!」

 つくしは激高し、ベンチから立ち上がる。玲子は頬を抑える。

 「ねえ、私が勇太くんのこと好きだったの知ってるよね? そして私がどれだけ勇太くん尽くしてきたかも知ってるよね? なのになんであんたが……」

 玲子は半ベソをかいている。つくしは続ける。

 「でもね、私、勇太くんがあんたのこと好きだってこと気づいてた。だからあんたの傍にいたら勇太くんの目につくかもしれない、そう思ってた。いつかあんたから私に目移りするように、そう思って傍にいたのに。毎日ご飯作りに行って、親が死んだ時だって傍にいてあげた。それなのになんで私は、私は、こんなにも報われないの……」

 ついにつくしも泣き出してしまった。まだ気温は高いはずなのに公園は凍り付いていた。

 「つくし……」

 「うるさい…… あんたなんて大嫌いよ!」

 そう言うとつくしはカバンから玲子の貸した本を取り出し、玲子に投げつけた。玲子はもう痛みなど気にならず、ただ震えていた。つくしも肩を震わせていた。

 すると突然、二人の間に粉の塊のようなものが投げられた。二人とも驚き体を引くと、そこに鳩がわっと集まる。玲子はそれがパンくずであることに気が付くまで時間がかかった。そして息を切らしながらこちらに走ってくる人の姿が見えた。間違いなく、河川敷で出会ったおじさんだ。

 「君たち! 何をしているんだい!」

 鳩を気味悪がっていたつくしはおじさんも気味悪く思ったのかそのまま走り去ってしまった。

 「ここの鳩はこのパンが好きなんだよ」

 おじさんは慣れたような口調で言う。

 「あの…… 助けてくれたんですか?」

 「ちょっと喧嘩のような声が聞こえてね。迷惑だったかな?」

 「いえ…… ありがとうございます」

 おじさんは照れたような様子で鳩にパンくずを放っている。玲子はその様子を眺めていた。

 「君もやる?」

 「遠慮しておきます」

 玲子は楽しそうにパンくずを投げるおじさんに先ほど起こったことの一部始終を話した。

 「そうか。それは災難だったね」

 優しい声でおじさんは言う。

 「そういう時、信じられるのは自分だけだぞ~! いつまでも落ち込んでたらいつまでも立ち上がれない!」

 そう言うとおじさんは空になったビニール袋をポケットにしまい、

 「じゃ」

 と言って去ってしまった。やがてそこのパンくずが少なくなると、鳩たちも散り散りになっていった。


 夜になると玲子の足は自然と学校の屋上へと向かっていた。鍵こそかかっていたが、あまりに脆く、適当にドアノブをいじると簡単に開いてしまった。玲子は屋上の柵に手をかけ、下を覗く。そこには満月に照らされてもなお黒い世界が広がっていた。

 「金子もこんな景色を見てたのかな……」

 玲子がその世界に見惚れていたその時。

 「玲子」

 慌てて振り返るとそこにはソラの姿があった。玲子はポケットに入れていたサファイアのネックレスを取り出し、差し出す。

 「これ、あなたのでしょ?」

 「ありがとう」

 ソラは玲子の手からネックレスを取るなり、首にかけた。

 「ようやくあなたに会えた」

 「これで二回目だね」

 満月の下で、ソラはゆっくりと回り始める。玲子もつられるように回り出す。二人とも同じペースでただただ回る。

 「ねえ、ソラ」

 「なんだい? 玲子」

 玲子が動きを止めるとソラも止める。

 「そのネックレス、私のお母さんの特注品のと一緒なんだけど。なんでソラがそれを持ってるの?」

 ソラは口をつぐんで上を見上げる。つられるように玲子も上を見ると月と離れた場所で星が瞬いていた。

 「ねえ、あなたは何者なの? なんで死んだお母さんのネックレスを持ってたの? 教えて」

 ソラは顔を下げ玲子の方に向き直る。

 「僕はね、君だよ」

 玲子は言葉の意味すら理解できず黙り込んでしまう。

 「こうなると思ったから話さないようにしてたんだけどなぁ……」

 ソラは頭をかく。

 「どういうこと?」

 「そのままの意味さ。僕も君も同じ、一人の人間だ。第二人格という表現がベストだろうか」

 そう言うとソラは姿を消す。

 「これが本当の景色だ。君は君の中にいる僕と会話していたにすぎない」

 そしてまたソラが出現する。

 「君の視点からはこう見えるんだよ。そして、君が寝た時、悲しみに明け暮れた時などの、言ってしまえばログアウト中の時間に僕は君の体を使って踊っていたんだ。君に僕の夢を見せて励ますためにね」

 「私の中にそんな人格があったなんて気づかなかった」

 「当然だ。君にバレないように君を守るのが僕の役目だから」

 ソラは、自分の首にかかったネックレスを見つめる。

 「そして、半年前のあの日。僕たちの両親が亡くなった日。君の脳にはおそらく、家で連絡を受け、そのまま家に居続けたと記憶されているはず。だがそれは間違い。本当は君はその直後、事故現場に向かっている。その最中、君はあまりのショックに耐え切れず、心の避難先として僕、ソラの人格を形成した」

 玲子は全身の震えが止まらない。

 「僕は現場に着き、このネックレスを回収した。君に嫌なことを思い出させる引き金になりかねない。そして、僕が僕自身の使命を忘れないようにしたい。そう思ってずっと僕が保管していたんだけど……」

 「落としちゃった…… ってこと?」

 「そういうこと」

 初めて二人の間に笑いが起こるが、玲子、そしてもちろんソラも笑い顔が引きつっていた。

 「こうして誕生した僕の使命は君を守ること。でも君にこの事実を知られたら、君は僕のことを気味悪く思うかもしれない。何かしらの手段で僕の人格を消そうとしたかもしれない。そうすれば君を守ることができなくなる。だから僕の存在は口外しないようにお願いしたんだ」

 「随分いろいろ話してくれるのね」

 「自分に嘘はつけないからね」

 「今までついてたクセに」

 またしても笑いが起こる。そしてソラは急に真剣な顔になる。

 「そして、ある日、僕が河川敷で踊っていた時、君の知り合いに見つかってしまったんだ。君と彼を近づけなければ僕の存在が君にバレることはないだろうと思っていたんだけど、まさか君に告白するとは想定外だったよ。君と彼が親密になって彼の口から僕のことが告げられたら君はどうなってしまうかわからないからね。とっさに君の体を乗っ取って断ったよ。君を守るために」

 「え……?」

 玲子は絶句する。

 「何を困惑しているんだい? 僕は君を守るために……」

 「だって私、断った時の記憶がないし自覚もないの、それって……」

 「ああ、僕がやったよ」

 「そんな……」

 玲子は肩を落とす。それと同時にソラへの怒りも湧き上がってくる。

 「どうした? 僕はあくまで君のために……」

 「うるさい!」

 玲子は大声で叫ぶ。静かな屋上から街中に響き渡る。

 「守るだけじゃなくて私の人生を邪魔する気!? あなたが断ったせいで金子は……金子は……」

 「どうしたんだ、今の君はまるで君を裏切ったあの友人のようだ」

 玲子の頭につくしの顔がよぎる。玲子は頭を抱える。

 「つくし……」

 玲子の勢いがどんどん萎えていく。

 「結局、君を守れるのは君に最も近しい存在である僕だけなんだ。君の前から消えていった二人は、二人とも自分のことしか考えていない。そんな奴らに君を任せられない。任せたくない。だって君は僕だから!」

 ソラは声を荒げる。玲子はしゃがみこんでしまった。

 「私、弱いんだ……誰かに守ってもらわないと生きていけない。そんな私もう嫌だ……嫌だ……」

 「玲子、君が弱いわけないさ。だって君は僕なんだ。君が強くなければ今まともにこの真実を受け入れて会話することなど不可能だろう。ただ僕は、君を守る使命の下、生まれてきた。それだけなんだ」

 玲子はおもむろに立ち上がる。そして息を吸い、弱い自分を吐き出し、口を開く。

 「ソラ、あなたも本当は自分のことしか考えてないじゃない! 使命使命って自分の存在を正当化して、私に内緒にすることで私の中でひっそり生きていこうとして……」

 「違う! そんなことはない! ただ僕は……」

 玲子はソラの言葉を無視する。そしてネックレスを外し、高く掲げる。

 「何をする気だ! 玲子!」

 ソラは必死な声で叫ぶ。

 「このネックレスがあなたにあの日のことを思い出させるんでしょう? 使命とやらを与えるんでしょう?」

 ソラは黙ってしまう。

 「私はもう、傷つかない。だって私はソラ、あなただから。あなたには身勝手なところもあるけど、それ以上にあなたは強い。私はそんな強い人になりたい。あなたのような強い意志があれば私は傷つかない。これはあなたが教えてくれたことでしょう? ありがとう、ソラ」

 玲子はネックレスを手が届く最高点まで持ち上げる。

 「やめろ……やめるんだ!」

 ソラは今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。

 「ありがとう。そして、さよなら」

 玲子はそう言うとネックレスを思いっきり地面に叩きつけた。ネックレスに嵌められていたサファイアの宝石は砕けなかった。ただ一部分に傷がついていた、それだけだった。気が付くと、玲子の目からもソラは消えていた。そして玲子を激しい疲労感が襲った。何度か出会ったことのある感覚に触れながら、玲子は眠ってしまった。


 しばらくして、勇太の葬儀が行われた。玲子も出席した。その帰り、玲子が歩いていると、

 「玲子」

 と後ろから声をかけられる。振り向くとそこにはつくしが立っていた。玲子は少し身構える。

 「あの、玲子、この前はごめん!」

 また何か言われると思っていた玲子は肩の力を抜いた。

 「私、あの後、これでいいんだ、って。ずっと憎んでた相手に全てぶつけてやったぞ、って。思いこんだんだけど、なんだか寂しくて堪らなくて。なんでだろう、ずっと憎んでたはずなのに大嫌いだったはずなのに、いつの間にか心の奥ではそうじゃなくなってたのかな。だから、ごめん! 許してなんて言うつもりはないけど、それだけ、伝えたくて」

 つくしは言い切ると大きな息を吐いた。玲子はつくしに駆け寄る。

 「いいよ」

 「え?」

 「全部、忘れるよ」

 「本当に?」

 「うん。私、強いから!」

 そう言った玲子の表情はとても輝いていた。


 少女は、爽快な空の下で両手を高く上げ、回るように踊っていた。乾いた綺麗な黒髪は、濡れることもなく、ただ揺れるのみだった。少女は笑っていた。眩しい、晴れ空のような笑顔で。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空色の少女 @Casablanca27

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る