第9話 暴力
3
視線をさえぎる茂みの中に体を突っ込んだ。
枝や葉っぱに素肌を引っ掻かれながら右往左往走り抜け切った先で、これで一安心かと一瞬気を緩みかけた。すぐに背後から荒々しい足音が聞こえ、雷は血の気が引く。
迷いなく自分のほうへ向かってきている。音をたてて茂みをとおるのは、かえって自分の痕跡を残してしまっただけなのかもしれない。
「くそ」
吐き捨て、雷は息を整えるひまもないままふたたび走りだす。
肌が粟立つ心地がする。頭の中が真っ白になる恐怖と限界まで引き絞られたような切迫感は、いじめっ子に追い立てられていたかつての記憶の比ではない。
雷は森の中へ中へと道なき道を走りながら忙しくゲームのステータスに関しておもいだしていた。
逃げた雷のことなど諦めればいいものを、男たちは追いかけてくる。
早い段階で足音に気づいた初動と敏捷のステータスによる爆発的な瞬発力のおかげで、今のところかなり距離を取れているのが雷にとって救いだった。
(種族人間は、『精霊の贈り物』の中で一番のハズレ種族だった)
メインシナリオで仲間にできるレイという少年の例外をのぞき、人間は成長値が格別に低い。
彼らは人間にみえるし、雷のほうがステータス値が優れているはずなのだ。ゲーム通りのステータス格差が存在するのであれば、逃げ切るのはたやすいはず……レベルが同じならば、という注釈がつくが。
(さすがにレベル1なわけねえよな!)
「おいおい、どこに行くんだよ嬢ちゃん! こんな夜に森を走り回ったら危ねえぞ。おい、待ちなあ!」
男たちが、雷のすがたを視界に捉えるところまで追いついてきた。
雷は振り返れなかった。そんな余裕など、ありはしなかった。
「怖え魔物に食われちまうかもしんねえぞ。魔物に食われるよりももっといい思いできるとこに連れていってやるから大人しくこっちにきなあ」
「ガキが好きなじじいに可愛がってもらえる店だぞ。きっと楽しいぜ」
(見た目未成年者を娼館に売り飛ばす気かよ! そうだと思ってたけどな!)
男たちには遊びにすぎないのか、余裕のある様子で下品に哄笑していた。
物騒な雰囲気の男たちのレベルが、1で止まっているとはとうてい思えない。
(レベルが上のやつに、勝てるとは思えねえ)
なおかつ厄介なことにレベルアップでステータスが増加するのと他に、スキルレベルが10刻みごとにスキルに関連するステータス数値にプラス1される。
たとえば〈剣術Lv10〉なら攻撃力に1。〈神聖魔法Lv20〉ならば魔力に2……というように。
スキルは無制限に所有できるから、ゲームでは細々としたスキルを取得してステータスの底上げをしていた。『精霊の贈り物』はレベルがなかなか上がりにくく、戦力をあげるためにたとえ使わないスキルであろうととりあえず入手してスキルレベルを上げておくのが攻略のセオリーだった。
ゲームから現実になったこの世界でスキルがどのように適用しているのかはわからないが「剣術などの主要スキルしか持っていない。スキルレベルのステータス反映もない」などと考えないほうがいい。
この状況で楽観視などして状況を軽く見積もって行動するなど、愚の骨頂だ。
男たちのステータスは、雷など手も足もでないと考えたほうがいいだろう。雷はステータスを底上げしてくれるようなスキルなど持たず、装備も貧弱な初期装備。そのうえそれもぼろぼろなのだ。
まともにやりあって勝てる相手ではない。
(動くなら、スタミナが0になる前!)
スタミナポイントのステータスバーが逐一確認できる状態であったならば、赤信号が灯っているくらいに残りの体力が限界に近い。
SPが空になった瞬間、この鬼ごっこの勝敗は最悪の形で呆気なく決するだろう。
あの極度の疲労状態におそわれたら、雷は歩くことすらままならなくなる。
捉えられて、男たちによってろくでもない店に売られてしまう。
(人身売買なんてくそくらえだ)
雷は本気で走っている。敏捷の数値自体はレベル差があっても、ティタン神族は敏捷が優秀な種族だからそう負けてはいないと思う。だが、足の長さがまったく違う。こちらが二歩足を出して必死に稼ぐ距離は、大柄の男である彼らならば一歩で詰められる。
体力そのものの桁が違えば、消費している体力量も違うのだ。
状況は雷が不利。
(逃げの一手でジリ貧になるよりは……!)
視界のすみに毒消し草を見つける。
雷はその草の存在をみとめると袋が破けない程度にいれておいた《
(少なくとも、魔力だけは確実に勝ってるはずだ)
レベルやスキルの数で劣ることで、攻撃力や防御力、体力といった物理ステータスは男たちのほうが上だろう。
しかしどれだけレベルの差があろうと、戦士系の男たちに魔力で負けているとは思えない。
雷の初期魔力は、エルフなどには負けるとはいえひじょうに優秀なのだ。
《
(当たれ!)
一縷の望みをかけて投げた石は、放物線を描いて明後日のほうに飛んでいった。男たちが避ける動作をするまでもなかった。
(くっそ。だけど、石はまだある)
雷は男たちに見えないようロッドに力を込めてへし折り、少なからず傷を作れそうな尖ったきっさきを作る。それを隠して次の行動にうつった。
「いきなりひとに石を投げるなんて危ねえなあ、お嬢ちゃん」
「あんまりやんちゃするようだったら、優しくしてもらえる店に連れてくまえに、お仕置きしてやらなきゃなるぞ」
雷は毒消し草をいそぎむしり、噛み砕く。そくざに《
片手には石を持ち、片手には真っ二つに折った杖の片方を持つ。
「ようやく諦めたかい。いい子だ」
立ち止まった雷に、もはや悪辣さを隠しもせずに男たちは近寄ってくる。
「相当臭えしだいぶ汚れてはいるがなかなか小綺麗なガキだな。いい拾いもんした。こりゃ、そこそこの額になりそうだ」
「せいぜい変態じじいどものの腹の下で可愛がってもらうんだな、嬢ちゃん」
ふうふうと荒い息継ぎに苦しむふりをしていた雷は、男のひとりが肩に手を置いた瞬間うごいた。
男の顔面に噛み砕いた毒を勢いよく吹き付ける。
驚いてすきを見せた男の顎に、雷は折ったロッドの切先を勢いよくぶつけるように突いた。
「でぇっ! なにしやがるこのクソガキぃ!」
不揃いに折れたロッドで顎を突かれた男は、傷口を抑えながら苦鳴をあげた。
がなりたてる男に怖気付くことなく、雷は石で殴るように《
「こんの、ガキ! こっちが優しくしてやってんのにいい気になりやがって!」
仲間への突然の攻撃にもうひとりの男が怒りをあらわにした。
雷はそれに気圧されることなく、男の足に水切り投げの要領で素早く《
今度こそ無事に男に当たり、雷は無駄口を叩かずに再び全速力で駆け出した。
「おい、こら待て! てんめえ、ぶっ殺してやる! なんで体が動かねえんだ!?」
「くっそ、まさか魔法か!? あんのガキ! おいこら逃げんな、まてこの!」
背中に怒号が突き刺さる。
雷は道から離れ、森の深いところに向かって駆けていった。
4
(助けて)
雷は無意識のうちに誰ともなしに懇願していた。
胸の内に宿るのは益体もない逃避の言葉だった。
なににおいても重要なのは差し迫った状況を解決する妙案を思いつくことなのに、雷の頭はなんの生産性もないことばかりめぐっている。
(だれか助けてくれ)
思考は空回りするばかりで、自身を救済する方法はからっきし浮かばない。他力本願がとめどなくわきあがり、雷のなかをいっぱいに満たす。助けてという願いだけで雷という器は埋まりきり、痛切な願いはだれに受け止めてもらうことなくあふれこぼれおちていく。雷は、どうすればいいのか、もうわからなかった。
雷の冷静さを奪う、あせらせるばかりの怒号が背後から追いつめてくる。
足止めで距離を稼いだはずなのに、姿など見えていないのに男たちは雷のありかを正確に把握してみるみるうちに迫ってきていた。
(こんなの、こんなの嘘だ)
雷は現実を否定してくてたまらなかった。
(どうして、どうして俺がこんなめに……! ちくしょう、畜生っ)
無意味に現況を呪い、罵りをはいた。
(対象追うスキルか? 追跡、とかいうのがあった気がする。……けど、それがあってわかったところでどうしろっていんだよ!)
雷は自身へ絶望が近づいていることに気づいた。
死刑宣告を告げる死神の呼吸がすぐそこに聞こえてくるかのようだった。
どれだけ姿を隠そうと雷を見つけ出す能力を男たちが持っていたら、雷が逃げ切る可能性など万に一つない。
限界がくるまえに往生際わるく隠れられそうな木の窪に身をひそめ、雷は息を整える。
「もう、本当に、だれか助けてくれよぉ……」
泣き言には真実涙がまじる。
なにがいけなかったのだろう。
原因もわからないまま、自分のものではない体でもう一度生きることをはじめた。
自分は健気にもそれを受け入れたではないか。
もし、神様なんてものがいるのならば。それが自分を見ているのならば、何が気に入らなくてこんな苦境に己を立たせるのか。
説明もないまま放り出されても、不平を吐くだけで自暴自棄にもならずになんとか状況を飲み込んだ。
生きることを決意した。身に余るような高望みもしていない。ごくあたりまえの生活の手段と場所をもとめていただけのに、その仕打ちがこれなのか。あんまりではないか。
目的があって、何かの試練を与える存在がいるのならばその成果に対する報酬がほしい。
報いがほしい。見返りが欲しかった。
この辛くて耐え難いふしあわせを帳消しにするものがほしい。
(ゲームに似た世界。そこに生まれ変わっても、俺はきっと主人公じゃない。別の端役の、いてもいなくてもいい何かなんだ)
プレイヤーにストレスを感じさせないためか、主人公が酷い目にあうことはそうそうなかった。シナリオにきちんと守られていた。
シナリオの根幹が主人公自身が底辺で足掻きながら血の道を切り開いていくような話ではなく、突然の理不尽に見舞われたひとたちを救済したり手伝ったりしたりするよくあるヒロイックストーリーだった。
何をしたってーー制作の予期していない変な遊び方でもしないかぎりーー主人公は常に安全な場所にいる。不幸なひとたちを俯瞰するだけで、ともに奈落に落ちるわけでもなく高みから手を差し出して救ってやるのが役目。
画面によって隔てられているプレイヤーと同じように、主人公は世界の抱える悲しみからは壁一枚遮られた場所にいる傍観者。
優れた能力をもち、大陸から姿を消してしまった高位の魔法を唯一使え、伝説級のアイテムをただひとり作ることができる。
すごいすごいとあざといくらいに持ち上げられて、仲間から慕われて、周囲からは一目置かれて、その過剰な賛美はもはや食傷気味になるほどだった。
囲まれて、守られて、それが『精霊の贈り物』の主人公だった。
けれども、雷にはそんな無条件でそばにいてくれる仲間なんていない。
無条件に味方がいて、世界に守られて、不幸から一歩引いたところで悠然と王道を歩んではいない。
(この世界の陰惨さをしめすための記号のひとつみたいなものなのか、俺は……)
そんな可能性が頭をよぎると、泣きたくて泣きたくて仕方なかった。
どこか別の場所に選ばれた誰かがいて、レッドカーペットでも敷かれたような道を歩いている。そこから見下されるのが、雷の役目。スポットライトなどあたることのない、たくさんいる不幸な端役のひとり。
あるいは、世界の抱える過酷さを淡々と描写した風景画に描かれた、一片の存在にすぎないのかもしれない。
(しんどい、苦しい)
苦しくて、辛い。
誰かにこの窮状を訴えたい。
声を聞き届けてほしい。
煙を見つけたときのことを、思い返す。
ひとを疑って、危ぶんで、恐れて、近づかなかったのが正しかったのか? ああ、きっとそうだったのだろう。そう、自分自身を罵ったとも。それを怠った自分がなんて愚かだと思った。見境いをなくしていた、判断能力を低下させていた。馬鹿だった。
自分を責める言葉を思いつくかぎりぶつけていると、同時に言い訳がましい感情が胸の内で荒れる。
身を切るようにひもじくて、ひもじさがいっそう惨めになるほど寒さが体に堪えた。孤独が心を膿み爛れさせ、なおのこと雷を苦しめた。
雷は、ただ人恋しかっただけなのだ。ひとと会話したかった。ありきたりなぬくもりを求めた。それがいけなかったのか? たとえそうだとしたら、そんな非道がまかりとおっていいのか?
あたりまえのことすら望めない世界なんて、いっそ滅んでしまえ。
もしも、自分がこの世界を救う役割を担うために二度目の生を受けたとしても、こんな仕打ちをする世界を助けたいとは、決して思わない。
雷は目に諦観を宿しつつも、涙を拭いて立ち上がる。
体力はある程度回復した。
「逃げなきゃ……」
言い聞かせるように呟き、木の虚から出る。
諦めたくない、諦めきれない。だが、心のどこかで不可能を悟っている。
走って、立ち止まり、また走って。
繰り返しているうちに走れる距離は短くなり立ち止まる時間は長くなった。
声は近づき、足音は大きくなる。
「顔は傷つけんなよ。売値が下がっちまう」
「うっせーな! このクソガキをぶっ殺さねえと気がすまねえんだよこっちは!」
最後はあっけなく捕まった。
毒で動きを鈍くすることを望み雷が傷つけてやった男は、頭に血を登らせていた。
「ほどほどにしとけよ。ここで殺したらここまで苦労して追いかけた苦労が水の泡だろうが」
「くそっ。うっせえな!」
男は疲労でまともに動けない雷の腹を蹴った。蹴られた衝撃で横倒れになった小さな体に、さらに容赦なく追撃を加える。
「がっ、はっ!」
声にならない、苦しい息がこぼれた。
それから腹を三度、強く打ちすえられた衝撃に、食道に酸っぱいものが一気に競り上がってきた。
ろくなものをいれていない腹が、胃液と未消化の葉っぱや木の実をみっともなく吐き出す。
立つことも体を支えて起き上がることもできず、雷は痙攣しながら吐き出し倒れ伏す。
呼吸がうまくできない。全身が内側から灼けただれていくようだった。
気道にはいりこむ酸味にむせる。息の仕方を忘れたように、がたがたと体だけがせわしなく震える。
叫びたいくらいに鋭く下腹部が痛みを訴えていた。股座が濡れた感覚がして、失禁でもしたのかとこんな状況だというのに気になった。目に涙を浮かべた顔でぼんやりと下腹に目を向けると、黒いズボンをさらに濃くするように濡れていた。尿特有のアンモニア臭はせず、鉄臭いような気がした。
「あ、ああ」
ちかちかと目がくらむ。
「やめろっつってんだろ!」
「黙れよ!」
男は、制止も聞かずに雷に暴力を振るおうとする。
おとなしくそれを受けたら、自分は死ぬだろうか。
このままいっそ、死んでしまったら楽になるのだろうか。
「ーーあああああっ!」
叫びが喉からほとばしった。
自分がこんなにも哀れに思えたのは初めてだった。
学校でいじめを受けていても、家族がいなくても、雷には仲間がいた。友人がいた。大好きな親友がいつも味方でいてくれた。帰りたい場所があり、自分はそこに帰ることができていた。
幸せは、どんな苦境に陥っていても必ず雷のそばに寄り添っていてくれていた。
けれども、今の雷はあまりにも惨めで可哀想だった。
何もない。
雷は、雷を支えてくれるものを何ももたない。
帰る場所はない。帰れる場所がない。
雷は、
「誰か、たすけて!」
それでも、死にたくなかった。
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