獣道の先に

第4話 辿る

 1


 ひとの気配を感じられない森から出るのはもちろんだが、水を見つけるのが第一の急務だった。

 喉の渇きは命にもかかわるものだ。己の生き汚さを知っている雷は、たとえ精魂尽き果てようと這ってでも進もうとする自分が容易に想像できた。苦しみながら、あるかわからない水を求めてさまよう空想の中の己は、その姿がちいさな子どもなだけにずいぶんと愚かしく切ない。

 想像しうるみじめな未来を迎えないためにも、雷は体が正常なうちにせめて水を見つけるか、高望みするのならばひとを見つけたかった。


 一心に活路を求めてさまよう雷は、同時に腑に落ちないものを抱えていた。

 この森は、ゲームの開始地点でも、物語がはじまる時間軸でもない。

 雷の記憶が正しければ、物語の開始地点は街に近い大きな道だった。春めいた空気を感じさせるピンク色の花びらのエフェクトが画面上で舞っており、時間帯は明るい昼だ。

 こんな秋に近い涼しげでさびしげな空気ではない。花を見失ったら最後、視界が効かなくなるような夜でもなかった。


 遭遇した黒い犬はゲーム世界に住む魔物で、雷はゲームのキャラクターの姿になりその能力を持ちえている。 

 この事実から、ゲームで描かれていた世界に準じた法則のある世界にいるのだとは判断できる。


 では、自分が画面越しに旅をした世界において、ここはどの位置にあたるのか。


 それがわからない。


 ゲーム内の森の光景なんて詳しく覚えていないし、画面越しに俯瞰的に見るのと主観として見るのとでは、様相が違うだろう。印象に残る特徴的な場所でなければ、どこそこだと勘付けることはできないだろう。


 ここがもし、ゲーム開始地点からほど遠い場所だとしたら、何故なのだろう。


 異世界に姿まで変えて生き返って、こんなどことも知れぬ場所にいるのはなぜなのか。それになんらかの理由があるのか。答えはだれも教えてはくれない。

 仮に、なんらかの意思を持つものが一度日本で死した雷を、この世界で蘇らせたのだとしよう。

 それは一体どうしてなのか? という疑問は、ゲームと同じ場所と時間帯であればある程度解決できたのだ。

 雷をまるきりゲームの主人公に見立てて、新たな世界でやり直しをせたとしたら、ひじょうに迷惑だが雷に物語の主人公のような活躍を期待しているということが可能性のひとつとして浮上する。


 誰とも知らない、雷をこのような目に合わせている存在に雷はどくづく。

 自分の知る物語をなぞるような場所に出ていたら、雷はこんなにも苦労はしなかったというのに。

 都市は目と鼻の先にあり、プレイキャラクターをコントローラーで移動したり、ダッシュやジャンプの基本動作、そして戦闘のチュートリアルを終わらせたら、すぐに安全な場所にむかうことができた。ゲームに似た知らない世界に飛ばされたとしても、こうであれば、こんな苦労と苦痛は味合わずにすんだ。


 しかし、どれほど嘆いても、雷の現状はそうではないのだ。


 機械仕掛けの神デウスエクスマキナのような全てを都合よく物事を進める存在は欠如しており、こうやって雷が生きているのは、なにかの偶然が噛み合った奇跡の具象だからなのか?

 疑問符ばかりが頭をしめる。


 雷はため息をついた。これも、考え続けてもせんなきことなのだ。今はどうしようもないことに気を囚われているよりも、細心の注意をはらうべきだ。


 わからないことは恐ろしい。恐ろしさを埋めたいがために、あれこれと考えてしまうが、それはけっして現状から自らを助けだすものではない。

 いつ迫るともわからない危機に備えるためには、神がかった事象にうんうんと頭を悩ませるよりは気を引き締めるべきなのだ。そのほうがよほど建設的だ。


 流れる汗を手の甲でぬぐう。

 夜は、まだ長い。


 2


 さきほどよりもずっと足取りを気をつけ周囲に警戒し、雷はあるく。ときには草むらをかきわけ、ときにはあの小犬の姿をさきに見つけて息をひそめてやりすごした。自分が通った証として、草を結び、前に進む。枝を折るよりも体力を使わないし、音をたてないからこちらのほうが安全な手段だった。

 自分が枝を折った木や、傷をつけた木の場所には来ていないから、同じ場所をぐるぐるとまわっているわけではないとおもう。確実にどこかへとは向かっているのだ。


 回復薬ポーションを一本飲み、ひと息をついた。これがただの水であれば気休めにもならない少量の水分なのだが、妙な理屈ですっと体の渇きが癒える。これで、残りは一本だけになった。

 天を見上げた。木々の隙間から確認できる夜空には、天辺に月を見つけることができた。深夜であるが、緊張感で眠気はなく、依然目が冴えている。この張り詰めた意識が続けばいい。水を見つけるまでは、休みたくない。一度足を完全に止めたら、ふたたび動き出すのはなかなか難しいだろう。精神的にもそうだが、肉体的にも。回復薬ポーションだけで、水分補給が間に合うわけがないのだ。時間がたてばたつほど、限界は近づくだろう。


 不安にかられているさなか、細い獣道を見つけた。猪のような大きな獣のつくるものではない気がした。だが、あの黒い犬のようなちいさい生き物が通っていたにしては、しっかりと踏みしめられている。森を生活圏とするひとが作ったものであることが一番望ましいが、そのような都合のいい奇跡は望まないほうがいい。

 まだ出会っていない危険な生き物の通り道だった場合を考えると、手放しでは喜べないが、森に住む生き物ならば、水場の場所をわかっているはずだ。


 この獣道をたどって歩いたさきに、水があれば。

 希望をにじませて、道の先をみつめる。一心にそれを続けたあと、雷はかぶりをふった。

 ここで終わったはずの意識が再開してから、こうやって渇望して自分に都合のいい可能性にすがってばかりだ。

 そんな、運がいい結末など待っているはずがない。


 戒めのために、雷はいいふくめる。

 だってそうだろう。

 雷が願えば叶うような幸運の持ち主ならば、そもそも事故にあっていなかった。

 事故で死んでよくわからない場所で生き返ったことが幸運だというのならば、返す言葉もないが。


(死んで、そのまま終わるんじゃなくて。不幸中の幸でもこんな姿でも、生き返って良かったと思ってる自分がいるのは、確かだ。苦しくても、なにもかも終わってしまうよりは、ずっといい。でも、一番望むのは、本当に奇跡が起こるのなら、死にたくなかった。俺は、こんなわけのわからない姿じゃなくて、雷礼央として日本で生きていたかった)


 取り戻せない過去に、胸を焦がす。

 見知らぬ場所に放り出された、孤独と渇きに震える。目に熱いものがこみ上げてくるのは、ひとりきりの苦しみに耐えかねたからだ。

 意地を張ることすらできない、寂しさがあった。


(……ああ、会いたいな)


 日本に帰り、日常の中にいる親しい者たちに会いたい。郷愁が琴線をゆらし、雷は胸をおさえた。

 やっと、自分の死後に残されるみなのことをおもった。


 そうして気付くのだ。今まで自分のことばかりで、何一つ彼らのことを思わなかった。

 目覚めてからはその暇がなかったが、雷が思い返したのは、自らの命が尽きる瞬間だ。

 人間、追い詰められると本性が出るというが、今まで世話になった人への感謝を抱きながら死ぬという愁傷さは雷の中にはかけらもなく、我が身に降りかかった不幸への矛先のない怒りを燃やしながら意識を途絶えさせていた。


 常々いつか恩返しをしたいと思っていた世話になった施設の人や、家族のように育った親友のことをちらりとも考えなかった。

 自分を育ててくれた社会への感謝、世話になった人への感謝を忘れたことはないと思っていたが、綺麗事で塗装した上っ面をひっぺがしたあとに残るのは、自分本位で他者への思いやりに欠けた男だったというわけだ。


 幼い容姿に不釣り合いな、乾いた自嘲がもれた。


「悔いてる暇なんて、ないな」


 口にしたのは、耳に痛い事実から目をそむけるための言い訳ではない。


 もとより自覚はあったので、今更だったのだ。

 自分自身が思っていた以上に、雷礼央と言う人間は割とどうしようもない底辺の心根の持ち主だったという事実を、認識しなおしたにすぎない。

 雷はそんな愚かな自身を責めるでもなく、ただ漫然と受け入れた。

 呵責に耐えきれないまともな性格をしていたならば、こんな性根とっくに改めている。ようはもう手遅れだったのだ。 


「三つ子の魂百までっていうしな。変わるはずがないんだ」


 幼子の姿になっても、自分という人間が変われる気はしない。

 未だに自分のものとは思えないちいさな手を見て、雷はうつむいた。

 気落ちする材料ばかりで、前向きになって気持ちが上向くのはむずかしい。


 それでも前を向くのは、生きたいからだ。

 雷礼央という男が生きた二十三年間の歴史は、他人からしてみれば吹けば飛ぶようなものかもしれない。

 だが、雷だけはその時間と、時間をかけて築いたものは、今のどうしようもない自分自身の性格をふくめて大事なものなのだ。

 物心つくまえに両親を失い、施設にあずけられ何も持たないまま育ってきた。

 ひとつひとつ自らの努力で手に入れて形作ったもの、それを今の自分の意識の喪失ですべて失ってしまうのは、悔やんでも悔やみきれないほどに惜しいのだ。


 雷が人生をかけて手にしてきたものは、全てなくなってしまった。肉体もかりそめのもので、これを自分とおもうのはむずかしい。

 だが、今の雷には記憶がある。

 幼くして両親を失い施設育ちの苦労はあったが、そんな彼を支えてくれる友人や周囲の大人に恵まれていた。

 公立高校を卒業後、地元の飲料メーカーに無事就職。

 年齢相応の稼ぎをやりくりしながら、細々とした趣味を楽しみつつ安定した日々を送っていた。

 今までの人生の幸と不幸を天秤にかけたのならば、幸のほうに傾くと彼は自信を持って断言しただろう。

 そういう一生だった。その記憶の尊さは雷だけのものだ。

 そして、雷礼央としての二十三年の時間が築いた“内面”だ。二十三年の間に形成された性格。あまり賢くないなりに蓄えた知識。人格と知識に基づく今この瞬間鬱々と巡っている思考回路。それだって自分が生きて手に入れたものだ。

 今、この子供の自分が死ねば、その思い出という宝物と、雷礼央という存在すらなかったものになってしまう。

 それだけはぜったいに許せなかった。


 3


 目の前にぶらさげれた先の見えないわずかな希望。それを選び成功して無事延命できるか、失敗して絶望するかは自らの手に委ねられている。

 どうしようと迷って立ち止まるよりは、取り返しがつく段階で選択肢の正否を確認したほうがいい。

 雷は幸運を期待し、獣道をたどって進むことを決めた。


 草は踏み固めれれているため、足場に気を付ける必要がないのは、雷を幾分か楽にさせた。ぬめりのある苔は少なく、どこに木の根があるかもわからない草むらを歩くわけではないから、それ以外のことに気を払える。

 無論、いいことばかりではない。差し引きでいえば、マイナスであろう。獣道をつくった生き物と不用意な遭遇するのを避けるため、雷は今までいじょうに神経を過敏にさせなければならなかった。万に一つ、あの犬のような獣とおちあいたくない。耳を研ぎ澄まし、つねに前後の音を確認していた。


 怯えながら歩き続けると、かすかであるが水音を聞いた、気がした。

 雷は声を上げたい衝動を抑えるために唇をつよく引き結び、食い入るように音の方向を見つめた。

 擦り切れて追い詰めれた精神が幻聴を聞き取ったわけではない。雷はそう思いたかった。

 ただのおもい込みかもしれないという不審があった。わずかに抱いた期待が裏切られることが恐ろしくて、足取りはひどくゆっくりしたものとなる。


 雷はその直後、自分のその行動がいかに正しかったのかおもい知ることなる。

 音を消して恐る恐る向かった先には、先客がいた。

 水を見つけたと我を忘れ、喜び勇んで駆け寄っていたら無警戒にそれとはちあっていたはずだ。


 花の青白い光に照らし出されたのは、一本角を額に生やした二足歩行の魔物だった。

 空想の物語に、たいがい登場してくる怪物、ゴブリン。ゲームでも、序盤の雑魚敵として登場していた。

 画面越しに見る姿に比べ、それはとても恐ろしい見目だった。


 なにせ雷と変わらない身長がありながら、体の厚みは段違いだ。いっそ不格好なまでに二の腕と太腿の筋肉が発達している。あれに少し掴みかかられただけで、雷にはひとたまりもないだろう。

 瞼がうすく、むき出しに近いまるまるとした目がひどく不気味だ。汚れが目立つ赤茶けた皮膚の上に、獣の毛皮で作った防具をまとい、腰には武器をさげていた。見るからに物騒ないでたちだ。


 ゴブリンは一匹だけだ。だが、それでも雷の手におえそうにない。


(最悪だ……)


 ゴブリンのさきには、求め続けた水があった。岩場から少しずつ水が漏れている。湧水だ。湧き水は水溜りよりは大きいていどのちいさな泉を作っていた。

 水を求めてさまよい歩いていた雷の前に、やっと生き残れそうな希望が見えた。

 しかし、それを手に入れるには大きな難題が待ち構えていたのだ。

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