・野球の試合が行われている中学校のグラウンドを、門の外から見つめる女の子を見かけた。その試合に意中の男の子が出ていて、それを遠くから応援しているというストーリーを想像した。青春してやがる。羨ましい。そんな妄想を勝手にして勝手に妬んでいる俺が一番惨めなんだろうな。


・俺は雑貨屋に入ることが大好きで、何も買わなくてもお店にいるだけでQOLが上がった感じがする。そして最近、おしゃれな雑貨屋に入ることにも躊躇がなくなってきた。以前は萎縮して外から商品を眺めることしか出来なかったのに。それはきっとおしゃれな雑貨屋に釣り合うほど俺がおしゃれになったというわけではなく、ただ単に気恥ずかしいという感情が摩耗しただけなんだろう。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、何らかの感情が擦り減っていくのは悲しいことなのかもしれない。


・目の前で泣いている誰かを励まそうと言葉を選んでいたらふと萩原朔太郎の詩のある一節を思い出して、その言葉の意味をその時はじめて理解することができた。そしてその言葉をその人にかけると、その人は泣き出して俺を抱きしめてきた。そんな夢を見た。でも目が覚めた今はその一節が何なのか思い出せないし、泣いていたのが誰なのかも思い出せない。ただりんごが落ちるように詩の意味を理解した、あの感覚だけが残っている。俺は死ぬまでに何回それを経験できるのだろうか。


・最近は中原中也の詩を読んでいる。やっぱり詩は好きだ。心の繊細な部分をそっと撫でられている気分になる。特に彼の代表作とも言える「汚れちまった悲しみに」が良い。悲しみという感情はもともと新鮮で、純粋で、一点の汚れもない綺麗なものなのだ。悲しみは水色の絵の具みたいな色をしている。それが汚れちまった時に生まれる感情は、何という名前なのだろうか。


・俺の普段の一人称は「俺」なのだけれど、なぜかこの「ひとりごと」では「私」を使っていた。理由はきっと、第一話で「私」を使ったから統一させているのだろう。だけどよく考えてみたらこれは「ひとりごと」なのであって、ほとんど顔も素性も知らないカクヨムの読者のために何の気兼ねをする必要があるのだろう。俺は俺がしたいように「俺」でも「私」でも「某」でも好きな一人称を使えばいいし、好きなことを書けばいい。それで誰かが傷ついたとしても、一人として傷つけない言葉などないのだから、いるかもわからない誰かに気兼ねする必要はない。忖度と配慮をしまくった芸術は、外面だけ芸術に似せた何かに過ぎないのだから。

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