第8節

第8節(その1)

  8


 話の上で、その名前が出るに至って――。

 それまで正騎士ベオナードの話を間抜けな相槌を打ちながらじっと聞き入ってたマティソン少尉は、思わずその名前の主……この部屋の主でもある、ユディスの方を見やった。

 気がつけば、ユディスは腕組みをしたままベオナードとマティソン少尉の前に仁王立ちになり、恨みがましい眼差しでじっと二人の方を睨みつけていた。

 言い知れぬ身の危険すら感じたマティソン少尉だったが、彼女の非難の矛先はまずは語り手であった正騎士に向けられた。

「ベオナード卿」

「ん?」

「そこまで彼に話をする必要あった? 彼がここに何をしに来たのか、話し込んでいるうちにすっかり忘れてしまったようね」

「む、ちと喋り過ぎたか?」

 彼女の剣呑な態度に気が気ではないマティソンを尻目に、正騎士はなんら悪びれもせず、豪快に笑い飛ばすのだった。

「いやいや、そもそも少尉、あんたが何しに来たのかをおれは聞いていたかな……?」

「今丁度お話にあった邸宅火災のさいの異議申し立ての件で、ユディスのこのたびの爵位相続にもしかしたら手続き上問題が生じるかも、ということで、上司から指示を受けて彼女を王都に留めおくようにと言われて来たのですが」

 簡潔に事実関係を説明すればすむ事なのに、声が裏返りそうになりながらしどろもどろの口調になってしまうマティソンだった。

「ふむ……となると、少尉」

「ええ。今の話だと、ユディスには本来はアンバーソン家の相続権は無い、という事になりますよね? いや、それどころか、そもそもユディス・アンバーソンという名前ですらないわけで……あれ?」

 マティソンは頭の中で考えを組み立てながら順序立てて言葉に並べていく中で、唐突に途方に暮れてしまった。

「……それじゃ君は、結局何者なの、ユディス?」

 おそるおそる質問したマティソンだったが、当のユディスがまるで眼力だけで彼を殺そうと試みているかのごとく鋭い目で睨み据えているのをみやって、訊くべきではなかった、しまった、と後悔した。

 そんな両者のやりとりを見かねて、ベオナードが告げる。

「多少は疑わしいところもあるかも知れんが、その当時その内容で届けが受理されている以上、現在のところこの王国では彼女はアドニス・アンバーソン子爵の姪、ユディス・アンバーソンだ。それは間違いない」

「子爵家令嬢にはとても見えなくて、ごめんなさいね」

「いや、そういう意味では……」

 ユディスの機嫌を損ねてしまったと大いに慌てたマティソンだが、とにかく話を先に続ける。

「いずれにしましても……結局現在のところ先だって死去したアドニス・アンバーソン殿がその時点で子爵家を継承したということは、そこで魔導士の塔からは除籍になった、ということですね」

「うむ。そもそも辺境域に出かけたまま行方不明という扱いだったから、塔に帰還の報告をし、正式に除籍したのちに、ここにいるユディスについてヘンドリクス卿の提案どおりに書類手続きをして……ええと、それからどうしたんだっけ」

「アーヴァリーの領地の別宅に移ったの。魔導士ではなくなったけど研究は一人でも出来るからといって、本を取り寄せては書き物をしたり、時には一人だけでひそかにあの廃墟へ赴いて何かを調べ歩いたりなどして過ごしていた。私は母……じゃない、叔母の方針で十五になると王都の寄宿学校に入れられて、そのまま王立大学に進学し、卒業した後もアーヴァリーには帰らずにずっとこの下宿で一人暮らしをしていた、というわけ」

「ヘンドリクス卿からは王都を離れぬようにと言われたが、アーヴァリーであれば王都からもほど近いからな。焼け落ちた邸宅を二人住まいのために再建する気にもなれなかったのだろう」

「卒業後にアーヴァリーに戻らなかったのはどうしてです?」

「私は帰りたかった。でも、母が……叔母があまりいい顔をしなくて」

「……いずれにせよ、ユディスの身元に疑いを挟んだのはなかなか鋭いと言えるが、それ以上詮索しない方がいいかも知れないぞ。相手は爵位持ちの貴族であるし、どこからどんな横やりがあったものかわからん」

「ベオナード卿が誰かに何か口添えをされるということですか?」

「俺ではなくて、ヘンドリクス卿が存命の間に色々手回しをしてくれているからな。卿も故人とはいえ長く軍総監の任にあって、大なり小なり卿に恩義があるという御仁もあちこちに沢山おられるであろう。憲兵風情が下手に嗅ぎ回るようなことをして、ある日突然上官とやらに、そんな指示は出してないなどとはしごを外されたら、お前さんは相当な窮地に立たされるぞ」

「そ、そのように言われましても」

 あからさまに狼狽する少尉に、ユディスはうんざりした表情を見せると、ため息交じりに告げた。

「とにかく、もともと非番だったというなら少尉はもう家に帰った方がいいわね。ここから先は何が起きても、私たちは何の保証も出来ないから」

「どういう事です?」

 マティソン少尉がそう問い返した次の瞬間――。

 遠くで、悲鳴のような金切り声が響いてくるのが分かった。

「来た」

 ユディスが短く呟いた。

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