第7節(その4)
「あのような状態ゆえ、しばし様子を見たい。待ってもらえるか?」
「しばし、とは」
「二日ほど」
執事は一瞬黙り込んだが、ルーファスの最期の姿を見れば否も応もない。
ベオナードらはあらためて近衛騎士の遺体と向き直る。
「アドニス、お前さんはどう思う?」
「すでにここまで容姿の変容が進んでいるから、四年前と同じ状況とは言えないわね。マーカスたちと同じ成り行きになるかどうかは分からない」
「待ってみよう。そのまま何事も無ければ、それに越したことはないのだが」
そんな次第で、一同は前の晩に引き続き屋敷に逗留する事となった。
ベオナードは、いつなんどき何があってもいいように、と、ルーファスの亡骸と同じ部屋でつきっきりで不寝番を買って出た。あまり愉快な役目とは言えなかったが、マーカス達のように蘇って人を襲うようなことになるおそれは充分にあった。
アドニスもそうするべきと思ったが、幼子を付き合せるわけにもいかず、元と同じ客室を使わせてもらう事となった。
落ち着かない夜だった。半ば隠遁生活を送り来客もほとんど無かっただろうに客間は掃除も行き届いていて、ここ数年辺境の農村で暮らしていたアドニスには身に余るほどに快適だったが、これから待ち受けている事を思えば気が気ではいられない。
それでも、幼子を寝かしつけ、自身も添い寝しているうちにアドニスはいつの間にかうつらうつらと眠りに落ちてしまったようだった。
真夜中、不意に響いた金切り声で、彼女は目を覚ました。
飛び起きた瞬間に血の気が引く思いをしたのは、その金切り声が恐ろしげだったせいばかりではない。同じ寝台で寝入っていたはずの幼子の姿がどこにも無かったせいだった。
慌てて振り向けば、例の緋色の剣は入口の扉のそばに立てかけてあった。慌てて剣をつかみ、金切り声の聞こえてきた方――つまりはルーファスの居室に向かう。
部屋に足を踏み入れてみると、そこで寝ずの番をしていたはずのベオナードが剣を手にして、悪鬼と化したルーファスと相対していた。
そう……ルーファスはやはり蘇ったのだった。うろこに覆われた姿にもはや在りし日の近衛騎士の面影はなく、ただただ巨大なとかげのような異形が二足で直立し彼らの前に立ちはだかるばかりだった。
「アドニス……!」
化け物とにらみ合うベオナードが、苦境を訴えるようにアドニスにちらりと目配せを送ってくる。何を訴えようとしているのかは状況を見ればすぐに分かった。
ベオナードと悪鬼の間に割って入るように、そこに娘の姿があったのだ。
血の気が引く思いがして大慌てで駆け寄ろうとしたアドニスだったが、迂闊に悪鬼の前に出てよいものか、一寸の戸惑いがあった。それを冷静に考え直すだけの余裕があったのは、悪鬼がすぐにでも幼子に襲い掛かろうとせず、何故か両者黙って不思議そうに互いを見ているさまが見て取れたからだったが。
とはいえ、いつまでも彼女を危険な怪物の前に晒しておくわけにはいかない。アドニスは剣を手に、意を決して一歩前に踏み出した。
次の瞬間、悪鬼はアドニスの方に向き直り、強く威嚇するように金切り声を上げる。そして今度は明確に敵意をむき出しにして彼女に躍りかかってくるのだった。
慌てて剣を抜こうとするが、向こうの方が早かった。剣を半身だけ抜いたところで、悪鬼の爪が切っ先を掴みかかり、力任せに彼女の手から鞘ごとむしり取って、あさっての方に放り投げたのだった。
これについてはアドニスは剣士ではなかったから、扱いがたどたどしいからといって責められる筋合いではなかったかも知れない。だがマーカスらを灰に変えた肝心かなめの武器があっさりと奪われてしまった事は、アドニスを動揺させるに充分だった。
その悪鬼の側にも一瞬の怯みがあった。力任せに剣をもぎり取ったその手のひらから白い煙が上がっていた。切っ先を掴んだ手指の表皮が、表面を軽く焦がしたようにじゅうじゅうと薄く煙をあげたかと思うと、次の瞬間には指先がぼろぼろと崩れ落ちてくる。
その隙をつくように、慌ててベオナードが両者の間に割って入る。悪鬼は怒りに任せて正騎士に掴みかかろうとするが、うろこに覆われたその腕はすでに手首から先が消炭のようになってぼろぼろと崩れ落ちていくのだった。
今のうちに、とアドニスは身をかがめて両者から一歩二歩引いて距離をとった。そうしながら彼女は部屋の中を見回し、投げ捨てられた剣の行方とおのが娘が今どこにいるのかを目で追おうとした。
そしてその両方はすぐさま、同時に見つかった。小さな女の子が、あの紅い剣の柄をつかんでずるずると引きずりながらこちらによたよたと歩み寄ってきているのが見えたのだ。
確かに、緋色の剣は普通の鋼鉄製の剣に比べれば幾分軽く、アドニスでも軽々と振り回す事が出来たが、子供の手に余るのは確かだった。
その頼りない手つきに、あぶない、と思わず声を上げたアドニスだったが、意に介す様子もなく、幼子はおのれの身長ほどもある長剣を勢いに任せて思いっきり振り上げた。
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