第1節(その5)
「ベオナード卿?」
驚いて声を上げたのはユディスだったが、その口から出てきた意外な名前に、マティソンもまた驚いて同じ名前をおうむ返しに繰り返すのだった。
「ベオナード卿……!?」
おのが名を口にした両者をまじまじと見比べつつ、その大男……騎士ベオナードと呼ばれた男はにやにやとほくそ笑みながら言うのだった。
「ユディス、久方ぶりに顔を合わせておいてこんな事をいうのも野暮な話だが、俺が覚えている限りではその男が着ているのは憲兵隊の制服のはずだぞ」
「それは知っている。彼は憲兵で間違いない」
「なら、憲兵相手に剣を振り上げるなんて大それた事は、俺なら可能な限り避けたいところだ。一体、何があったんだ」
「それは、この失礼な少尉さんに訊いて」
ぶっきらぼうにユディスが答えて、ベオナードの視線がマティソンに向かう。
「これは……その」
マティソン自身も意識していなかったが彼は思わず振り上げられた剣から身を守ろうと両腕で頭を庇いつつ、身を低く屈めて思わず片膝を床についてしまっていた。膝を折った無抵抗の相手を容赦なく打ち据えようというのは確かに問題だったが、マティソン少尉自身はむしろ自らが何の抵抗も出来なかった事実を恥じたようだった。咳払いをしながら直立の姿勢に戻ると、ユディスもまた、ばつが悪そうに少尉とベオナード卿を見比べ、剣を引っ込めるのだった。
ベオナード卿はそれを見て、満足げにほくそ笑んだ。
「そうだ、それがいい。事情はよくわからんが、荒っぽい事はとかく避けるに越したことはない」
「ベオナード卿? あなたは、本当に、本物のベオナード卿……なのですか?」
彼の来訪に助けられた格好のマティソン少尉が、恐る恐る問うた。
「いかにも。そういうお前さんは?」
問われて、マティソンは自分の名前と肩書を答えた。憲兵と正騎士では組織系統が異なるとはいえ同じ軍人同士のはずだが、伝説的な人物を目の当たりにして自分も軍人であるということは失念してしまったようだった。
「あなたは、生きていたんですね」
「はてさて、生きているものか死んでいるものか。とりあえず今日のところはここにいる。お前さんの眼の前にな」
そう言って何が面白いのかにやにやと笑みを浮かべる大男は、背丈だけではなく肩幅もがっちりとした巨躯の主だった。頰から顎にかけて髭で覆われたその風貌からは年齢ははっきりと伺えはしなかったが、生きていれば五十歳に届くかという年齢のはずだった。体格や歩き方から年齢相応の衰えを感じることは無かったが、その佇まいは不思議と落ち着き払っていて、貫禄を漂わせていた。
マティソン少尉の目には、まさに生ける伝説であるように見えたが、ユディスは顔なじみなのか口調がずけずけと遠慮が無かった。
「もう来ちゃったの? 少し早すぎるんではなくて?」
「早すぎるということはない。刻限までもうどれほども間がない」
話に割って入って、マティソンが問う。
「……もしかして、お二人でアーヴァリーに行かれるおつもりでしたかね? 僕は一応、彼女を王都にとどめ置くようにと、上から指示を受けているんですが……」
「それなら心配はない。今から王都を出てもおそらく間に合わない」
ベオナード卿の言葉に、ユディスが真剣な表情で念を押す。
「それじゃ……ここで?」
「ここで。それしかあるまい」
そういうと、ベオナード卿は断りもなしにソファの上にあった旅行鞄を無造作に脇に押しやって、空いた場所にどかっと座り込む。状況が飲み込めないマティソンはその場に立ち尽くしたまま、いたたまれなくなってそろそろと壁際に引き下がっていく。
お茶でも入れてくる、と言ってユディスは奥にあるキッチンへと下がっていく。
「本当に、ベオナード卿なんですね?」
「お前さんも疑り深いな」
「いや、疑っているというわけでもないのですが……。つい昨日まで、ユディスがあなたやアドニス卿のような英傑に近しい人だなんて知りもしなかった。なのに今日になってみるとその当人まで現れてしまうなんて」
「君が思っているほど、大したものじゃない」
「そうはおっしゃいますが、何せ竜退治ですよ」
「うん、確かに竜を殺すとなるとおおごとではあるだろうがなあ。……我ながら大それたことをしでかしたとは思うが、まあ言ってみれば結果的にそうなったというだけで、べつだん難しいことは何もないのだよ」
「そこですよ。アドニス殿もそうですが、どうしてあなた達は、竜殺しなどという偉業を成し遂げたのに、その後身を隠すようにしているんですか? もっと、こう……例えば将軍のような要職についていたり、魔導士の塔でも高い学位についていたりするものではないのですかね?」
マティソン少尉の言い分は、何も知らぬ人々からすれば当然の疑問と言えたかも知れない。それだけに答えようと思えば確かに面倒な質問ではあった。
果たして過日、竜が現れたあの荒野で何があったというのか……ベオナードはただ、遠い目をするばかりだった。
(第2節に続く)
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