歯車

ソラ

 

 かたかた。かたかた。

 ペットショップの窓際に置かれたケージの中で、白と茶色のハムスターが一心不乱に回し車の中を走っていた。

 その光景を、近所の高校の制服を着た少女――ミケがじっと見つめていた。

 かたかた。かたかた。

 ふいに髪の毛にぽた、と水滴が落ちた。それに気づいたミケはハムスターから視線をはずし、空を見上げた。

 分厚い灰色の雲が一面に広がり、音を立てて雨が降り始めた。人々は速足で行き過ぎていく。

 ミケは表情を変えないまま、リュックから折りたたみ傘を取り出し、広げた。

 傘に打ち付ける雨音をぼんやりと聞きながら、足は自然と自宅に向かっている。

 薄汚れた団地。人気のない公園。

 背の低い常緑樹の路地を抜けると、幅の広い国道に突き当たり、その上を横切る歩道橋の階段を登る。

 歩道橋の半ばまでくると、ミケはふと立ち止まり、下を見た。

 ごうごうと音を立てながら、片側三車線の道路を色とりどりの自動車や巨大なトラックが目にも止まらぬ速さで走り去っていく。

「……ここから飛び降りたら、明日、学校行かなくていいのかな」

 そうつぶやくや否や、無意識に足が前に動いていた。ローファーのつま先が歩道橋の欄干にぶつかり、こつんと硬い音を立てた。

 手すりについた腕に体重をかけ、ふわりと体が浮く。

「ちょっと、君」

 ふいに響いた男性の声に、ミケは動きを止めた。落ちていく折りたたみ傘が視界の端をかすめていく。いつの間にか強くなっていた雨が、容赦なくミケの髪と制服を濡らした。

 直後、大きな影がかぶせられる。

 見上げれば、くたびれたワイシャツの首元を開け、紺色のジャケットを羽織った男性に大きな傘を差し向けられていた。

 男性は、そっと目を細めて言う。

「自分から投げ出すくらいなら、その命、オレに預けてみない?」

「いえ、結構です」

 ミケの声は雨の間にはっきりと響いた。


 昨日から降り続いていた雨が止んだのは、日がだいぶ高くなってからのことだった。常緑樹の葉から灰色の空を映したしずくが落ちる。

 学校を抜け出したミケは、ふと、公園の入り口で立ち止まった。

 背の高い木に囲まれた静かなそこの東屋で、男性がひとり、文庫本に読みふけっていた。

「平日の真昼間に本なんか読んでていいの、おじさん」

「そういう君も、学校はどうしたんだい?」

 本に目を向けたまま尋ねてくる男性は、まるで声をかけられるのを予想して待っていたかのようだった。

「……早退」

 そっぽを向いたまま答えると、男性は軽く笑い声をあげた。

「なんだ、君もサボりか。じゃ、せっかくだからサボり仲間の名前が知りたいな」

 文庫本を置き、どこか楽しむような顔の男性にミケはしばらく考え、

「……ミケ」

 抑揚のない声で答えた。

「それ、本名じゃないよね」

「知らないおじさんに、本名を教えるわけないでしょ」

 当たり前だ、という顔で言えば、男性も「確かに」とうなずく。

「じゃあ、オレ――いや、おじさんのことは『カラス』って呼んでよ。三毛猫と烏。いいコンビだと思うけど、どうよ?」

 なぜだか得意げな男性――カラスに、ミケはさして顔色も変えずに言い返す。

「勝手にコンビにしないで。昨日会ったばっかりなのに」

「まあまあ、そう言わずに。とりあえず、立ってるのもなんだし座りなよ」

 カラスが、使い古したハンドバッグを自分の脇に寄せ、ぽんぽんと開いたスペースを叩いた。

 ミケはしばし考えを巡らせたあと、無言のままリュックを抱え、カラスの斜め向かいの椅子に腰かけた。少し残念そうに肩をすくめたあと、カラスはまた文庫本に目を戻した。

 しばらく、ふたりの間には本のページをめくる音だけが響いていた。

 なんだか、それがとても居心地がよかった。

 ミケも何か読むものがないか、とリュックの中を探る。しかし、持ってきた本を学校で読み終えてしまったことを思い出した。

 ひとつ息をついたミケは、斜め向かいに座る男性を眺める。

 量が多い黒髪を、うなじのあたりでひとつに結んでいる。ぼさっとした印象を与える前髪を整えれば、もう少しカッコよくなるのにな、とミケは思う。

 時折、あごの無精ひげをなでる手は骨ばっていて、半分開いた唇は色が薄い。

 そこまで観察し、ふと、カラスの顔に見覚えがあるような気がした。どこで見たっけな、とミケが首をかしげていると、ふいに顔をあげたカラスと視線がかち合った。

 ミケは反射的に目をそらした。

「そんなにおじさんをじっと見て、どうしたの?」

「別に」

 言葉尻にかぶせるような即答にカラスが苦笑する。目元にしわが寄り、まなじりが下がる。見ている者に、どこか情けない印象を与える笑みだった。

 最近の若い子の行動はわからないなぁ、とぼやくカラスのハンドバッグから、バイブレーションの音が聞こえた。

 少し表面が傷ついた二つ折りの携帯電話を取り出したカラスは、どこか嫌そうな顔をしていた。

 しばらく画面を注視していたが、大きなため息とともに携帯電話と文庫本をバッグにしまう。

「行くの?」

 無意識に尋ねると、カラスは肩をすくめた。

「そう。ちょっと会社に呼び出されちゃったんでね」

「サボってるのがばれたんじゃないの」

 ミケが頬杖をついたまま言えば、「そうかもしれないねぇ」とカラスは笑った。そのまま、ハンドバッグを小脇に抱えて立ち上がった。

「じゃ、遅くならないうちに帰るんだぞ」

 その言葉に、ミケの胸がちくりと痛む。

「帰ったって、どうせひとりよ」

 投げやりな言葉が口をついて出た。

 自分の発言にはっとしてカラスを見れば、太い眉を下げて困ったように笑っていた。

「……じゃあ、おじさんはもう行くよ」

 手を小さく振りながら去っていくカラスの背に、ミケは何も言えなかった。

 人気がなくなった公園。ただ遠く、国道の喧騒が聞こえる。

「……帰ろう」

 自分に言い聞かせるように言葉に出し、ミケは立ち上がってリュックを背負った。

 

 次の朝も、七時に起きて学校へ行く。

 自分の中途半端な真面目さに辟易する。学校を抜け出すくらいなら、朝から行かないという選択をすればいいのに。

 朝のホームルーム。頬杖をついて窓の外を眺めながら、今日も今日とて昼前には抜け出そうか、などと考えていると、学級委員の男子生徒が立ち上がり、教卓の前に立った。

 今日の帰りのホームルームが終わったあと、クラス会議をするらしい。しかも、全員参加で。

「時間はあまりとらせないよ。予定がある人もいるだろうし」

 そう言いながら、男子生徒がミケを見た気がした。これは目をつけられている。抜け出すと色々と厄介そうだ。

 ミケは観念して、机に突っ伏した。

 そして、放課後。

 クラス会議の議題は、携帯電話やスマートフォンの持ち込みについてだった。

 議論を繰り広げているのは、派手に制服を着崩した女子生徒と学級委員の男子生徒。

「授業中に使ってないんだし、別にいいでしょ?」

 女子生徒の言葉に、うんうんとうなずく四人。

「そういう問題ではなくて、もっと根本的な話をしようよ。そもそも、学校や授業に関係ないものを持ってきてどうするんだ?」

 声高に言う男子生徒。それもそうだ、とうなずきかける三人。しかし、誰も声をあげない。

 ああでもないこうでもないと、議論は平行線のまま、五分。一〇分。二〇分。

 時計の針を見つめながら、このふたりはかみ合ってないな、とミケは思った。

 クラス会議という名の言い合いは、下校時刻の午後六時でお開きとなった。

「いなくてもよかったじゃん、私」

 やっと学校を出たミケはそうつぶやき、無意識に公園へと足を向けていた。

 東屋の下でカラスが本を読んでいた。ただ、今日は、傍らに小型のラジオを置き、聞くともなしに聞いていた。

「今日は遅かったね」

 ミケに気づいたカラスは、少しだけ視線をあげて言った。

「ちょっとね」

 それ以上、ミケは何も言わなかった。カラスも特に気にした風もなく、ふーん、と答えただけだった。

 昨日のことについて、カラスは何も思っていないのだろうか。

 ミケはこっそりと、カラスの顔を盗み見る。

 いつになく真剣に文字を目で追っているカラス。いつも何を読んでいるのだろう。

 ミケが本の背表紙を見ようとしたとき、洋楽を垂れ流していたラジオから、ふいに中学生の女子が飛び降り自殺を図ったというニュースが聞こえてきた。その中学生のクラスメイトが涙ながらにコメントした、とキャスターが言う。

「……カラスは、私についてインタビューされたら、なんて答える?」

 ぽつりとミケが言うと、カラスはぎょっとした顔をした。

「えっ、また飛び降り自殺とか考えてます?」

「考えてないです」

 ミケは即答し、「ちょっと気になっただけ」と目をそらした。

 ラジオはニュースを読み終え、貿易会社のコマーシャルが流れていた。「♪烏のマークの~」というイメージソングが耳に残る。

 訝しげな顔をしたまま、カラスは無精ひげをなでた。

「そうだなぁ。『大人しい子でした』って言うかな」

 そっか、と大して興味もなさそうな反応に、いささか肩透かしを食らうカラスに、ミケは続けて問う。

「もし私が死んだら、泣いてくれる?」

「まあ、一応」

 その言葉に、ミケは少し目を見張った。

「一応でも、泣いてくれるんだ」

 肩をすくめながら、カラスは頭をかいた。

「そりゃね。唯一のサボり仲間だし、何だかんだ話してると楽だし」

「ふーん……」

 ミケはカラスから顔をそらし、髪先をいじっている。

「聞いたわりには興味なさげね、ミケさん」

 不満そうに口をとがらせたカラスがミケを見る。すると、ひとつ目をまたたかせた。

「……なんか、うれしそうだね」

「別に」

「見事な即答だこと」

 カラスは苦笑しながら、そっぽを向き続けるミケを眺めていた。

 

 それからというもの、カラスは夕方を過ぎたころに公園に姿を現すようになった。

 それまでの時間、ミケは暇つぶしと称して学校にいることが多くなった。

 学校にいるのは、断じて出席日数が足りないとか内申点に響くとか、そういうことではないのだ、と、ミケが言うと、決まって「はいはい」と聞き流されてしまう。

 そんなやりとりをしたあと、東屋の下から赤い空を見上げながら、ミケは何気なく言葉を投げかける。

「カラスは、本当に会社に行かなくていいの?」

「おじさんがいなくても仕事は進んでるから、大丈夫。持つべきは優秀な部下だねぇ」

 軽く笑うカラスは、頬杖をついたまま本を読んでいる。

「ねえ、カラス」

「ん?」

 ミケは空を見上げたまま、足をぶらつかせる。カラスが手を止めて、顔をあげた気配がした。

「『自分がこの世界にいてもいなくても変わらない』って、思ったことない?」

 ただ遠くを見つめるミケに、カラスは本を閉じた。

「どうして、そう思ったんだい?」

 静かな問いに、ミケはいつもの調子で答えた。

「別に。クラス会議とか授業とか、私が発言しなくても話が進む。毎日、家と学校の往復。両親がいなくても、何とかなるんだなって」

「ご両親、いないんだ?」

 うん、とミケは事もなげにうなずく。

「一年くらい前かな。私に何にも言わずに突然いなくなってさ。そのあとは音沙汰なし」

 初めて顔を見た親戚や、中学時代の担任などの計らいで何事もなく高校に通うことはできているが、両親はいまだに行方知れず。

「私がいてもいなくても、世界は変わらないのだから、私はいなくてもいい。そのほうが、みんなにとってもプラスだろうし」

 淡々と話すミケに、カラスは「そっか」とうなずくだけだった。

 ミケはひとつ、またたきをした。

「怒らないんだね」

「なんで怒らなきゃいけないの?」

 きょとんとしているカラスに、ミケは続ける。

「こんなこと言ったら、だいたいの大人は怒るもんだよ」

 両親がいなくなった直後、親戚の伯父と叔母、中学の担任が同席しているときにぽつりと言ってしまったことがある。そのときは全員から、滅多なことを言うな、と怒られた。

 それ以来、この考えはミケの胸の中だけで堂々巡りをしている。

「生きてるなら別にいいじゃんって、おじさんは思うけどね」

「生きてるなら、か」

 ミケはつぶやきながら、カラスを見た。

「だから、もう飛び降りなんて考えないでね?」

「どんだけ根に持ってるの、それ」

 くすくすと笑みがこみ上げてきた。

 ふと気づくと、カラスがにこにこしている。

「何よ、にやにやして」

「いやぁ、ミケが悩みを話してくれるとは思わなくってさぁ」

 ゆるみきったカラスの笑みをミケは「気味悪っ」と一蹴し、視線を空に戻した。

 

「……今日もいるかな、カラス」

 無意識につぶやいた言葉にはっとしたミケは、キッチンに立つ叔母の背を盗み見た。

 叔母はこちらに気づいていないようだ。そっと息をつく。

 特徴的なイメージソングのあと、黒い髪をきっちりと後ろに撫でつけた男性がまなじりを下げて微笑み、スーツを着たアメリカ人と握手をしているコマーシャルが流れ、テレビの画面が天気予報に変わった。

「そういえばね。神奈川にいる親戚の方が、あなたを引き取ってくださることになったのよ」

 色々と世話をしてくれている叔母が、週間予報を背に、話してくれた。

「私、何も聞いてないんだけど」

 ミケのいささか刺々しい言葉に、叔母は申し訳なさそうな顔をしながら「昨日、話がまとまったのよ」と言った。

「まあ、まだ時間もあるし、ゆっくり考えてね」

 そう言うと、叔母はテレビを消して、そそくさと帰っていった。

「なんて言えばいいの……?」

 ミケは教科書をつめこんだリュックを背負って、つぶやいた。

 脳裏に、目を細めて笑うカラスが浮かんだ。


「今日も学校お疲れさん」

 いつもの東屋で、カラスがいつものように待っていた。

 ミケはぎゅっとスカートの裾をにぎり、意を決したように顔をあげる。

「私、引っ越すことになった」

「えっ、どこに?」

「神奈川の親戚のところ」

 額に手をあてながら、カラスは「神奈川か」とつぶやいた。

「私が高校二年になったら、引っ越すって」

 ミケはあえて淡々と言葉を口にする。

「そっか」

 平坦な声音で返事をしながら、カラスはじっと屋根の一点を見つめていた。

「うん」

 ミケは言葉少なにうなずく。これ以上言葉にすると、延々とカラスを引き留めて話しこんでしまいたくなる。

 たった数分の沈黙。救急車のサイレンが遠く響いた。

「実はおじさんもね、海外出張が決まっててさ」

 静けさを破ったのは何気なく発せられたカラスの言葉。

「えっ、どこに?」

 次はミケが驚く番だった。

「アメリカ」

「私よりも遠いところじゃん」

 思わず普通につっこんでしまったミケに、カラスがからからと笑った。

「というか、それを先に言ってよ!」

「いやぁ、ミケが珍しく真面目な顔してたからさ。言い出せなくて」

 珍しくって何よ、と思いながらミケはふと尋ねた。

「出発はいつ?」

「三時間後かな」

 さらりと告げられた言葉にミケは目を剝いた。

「三時間後!?」

「うん。そろそろ迎えが来るはずなんだよね」

 二つ折りの携帯の画面を眺めながら、カラスはミケの反応を楽しんでいるようだった。

 すると、車の音が近づいてくるのが聞こえた。

「お、来た来た」

 カラスがにわかに立ち上がり、さっさと車のほうへ歩き出す。

「あ、そうだ。海外出張先の住所、教えておくね」

 思い出したようにそう言ったカラスが、銀色のケースから名刺を取り出して、ほい、と無造作にミケに渡してきた。慌てて名刺を受け取るのを見ると、カラスはさっさと歩きだしてしまう。

「ま、待って!」

 気づいたときには、ミケはカラスのジャケットの裾をつかんでいた。

「三池寧子。私の、名前」

 まっすぐにカラスの目を見つめる。

「みいけ……ああ、だから『ミケ』か」

 肩越しに振り返ったカラスは、どこか納得したように笑った。その背後から、スーツを着た女性がまっすぐに歩いてきていた。

 カラスは、その女性に軽く手をあげて挨拶をすると、さりげなくミケの手を払った。

「じゃ、お別れだね」

 言葉が出ないミケの肩をぽんと叩いたあと、女性を伴って公園の入り口に停めてある車へ歩いていってしまう。

 その後ろ姿に、ミケは思い切り声をかけた。

「カラス!」

 振り返ったカラスに、ミケは力強く言った。

「私、生きてみる」

 ミケの瞳がきらりと輝く。

「この世界に私はいなくてもいいかもしれない。けど、とりあえずは、大人になってみるよ」

 その言葉にカラスは笑みを深くした。

「そうかい」

 答えながらもカラスは女性に急かされ、なかば詰め込まれるように車に乗り込んだ。

 思わず駆け寄ったミケは問う。

「また、会える?」

「会えるさ。君が生きてさえいれば」

 茶化すような声音。だが、どことなく嬉しそうだった。

 窓が閉められ、車が走り出す。

 ミケは改めて手の中でくしゃくしゃになった名刺を見た。

 そこには、羽を広げた烏のマークと副社長という肩書と長いアメリカの住所と連絡先。そして「烏間寛明 KARASUMA HIROAKI」という名前があった。

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