1 * hint
鐘の音とともに、駅の時計が午後5時を知らせた。
日は既に落ち、コートを着ていても凍えるような寒さだった。 にもかかわらず、駅周辺は人で溢れかえっていた。
帰宅ラッシュが始まりつつあるのも原因のひとつだが、今日は手を繋ぐカップルや、プレゼントを片手に歩く女性の姿が多く見られる。
2月14日────日本では、女性が 好きな男性にチョコレートを贈る日だ。けれど、独り身である自分には、関係のないイベントのように思えた。
そこは両脇の壁に大きな鏡と洗面器がいくつも並んでいて、奥が個室トイレとなっていた。 だが今は、スーツを着た男や作業着を着た人で溢れ返っている。全員、永瀬と同じ 警視庁の捜査官だ。
そして、出入り口から最も離れた洗面台の袖壁。その隅に もたれかかるようにして、1人の女性が倒れていた。
永瀬は彼女に歩み寄り、顔を覗き込んだ。 化粧で綺麗に彩られた瞼は、開かれたままだった。 大きな黒眼は、まるで人形のように光を失っている。 左耳から ぶら下がるシルバーのピアスだけが、周りの振動で時折小さく揺れていた。
「また女の子か……」
背後から聞こえた声に反応して振り向くと、上司であり永瀬の相棒でもある
黒木は、遺体の前まで歩み寄り、その場にしゃがみ込んで静かに手を合わせた。
「こういう子を見ると、自分の娘を見ているようで苦しいよ。『なぜ彼女が』『まだ早過ぎる』……ってね」
小さな声で呟く背中は、かつて『鬼の黒木』と恐れられた刑事の背中とは思えないほど弱々しく見えた。
「……状況は?」
黒木に問われ、永瀬はスーツジャケットの胸ポケットから手帳を取り出した。
「15:50頃、
永瀬が聞き込みをした限りでは、駅の交番警察官の対応は、迅速かつ的確なものだったと思う。 だが女性は、既に息絶えていた。
恐らく即死だろう。 それなのに、目立った外傷は一切見当たらない。
「……例の『突然死事件』と見ていいかと」
「これで4件目か……」
2月を迎えた都内では、20代の若者が 文字通り「突然死」する事件が多発していた。
外傷なし。 内臓にも異常なし。 遺体には何の手がかりもないと言っても過言ではなかった。 また、被害者同士の接点や、事件の共通点もなく、捜査は難航を極めた。
「
今回の事件に関しては、既に4人も死者が出ている。 捜査本部ができても不思議ではないが、永瀬はそのタイミングに疑問を感じた。
「なんか急ですね。4人目が発覚したのなんて、ついさっきですよ?」
「2人目と3人目が兄妹だっただろ?
「八重崎刑事部長、ですね」
「別にいいだろ。 あんなペテン師」
「ちょっ、黒木さん…」
永瀬は周囲の捜査官に聞かれる事を心配し、小声で注意をするが、当の本人から反省の色は見られない。
だが、黒木の言う通り、刑事部長の親族が不審死したとなると、いつまでも小規模な捜査を続ける訳にはいかないのだろう。
「身元は出たか?」
「はい。
「仕事帰り……にしては早いな」
「しかも彼女、今日は休みだったそうです。 吉岡さんの同僚が言っていました」
吉岡麻美の自宅アパートは、ここから3駅先にある。 わざわざ休日に職場のある駅まで来るとなると、何か特別な用事か、誰かと会う約束をしていた可能性が高い。
「彼女の死亡前の行動を調べてみよう。 今度こそ手がかりが見つかるかもしれない」
どうやら黒木も、永瀬と同じ考えに至ったようだ。 永瀬は強く頷き、黒木の後に続いて現場を去ろうとした。 だが、再び遺体の方を振り向いた。
ちょうど遺体が運ばれる準備が進められていて、遺体は仰向けにされ、その全身がシートに被せられるところだった。
「ちょっと待ってください」
永瀬は、シートを被せようとした捜査官に声をかけ、遺体に近づいた。 膝をついて前屈みになりながら、先ほど目に留まったピアスを見た。
────何だ? 何か引っかかる……
上手く説明できないが、このピアスに何となく違和感を感じた。
ピアスは、花の蕾のようなものが
そして彼女の左耳には、それとは別にもう1カ所ピアス穴があった。 右耳も確認すると、同様にピアス穴が1つあけられていた。
「────もしかして」
永瀬は、遺体の長い髪を軽くかき分け、耳朶の裏を確認した。 そして、先ほどの違和感の正体が明確なものとなった。
その発見に興奮を覚えながらも、永瀬は至って冷静に そばにいた捜査官に声を掛けた。
「このイヤリングを鑑識に回してください。 あと、耳との接触部分もよく調べるよう監察医に伝えてください」
こんなイヤリングひとつが、まるで事件に関係しているとは思えない。 だが永瀬は、わずかに残された関係ある方の可能性を無視する事ができなかった。
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