第一話

 ピピピ…


 冷えた空気の部屋に響き渡る、無機質なアラームの音で私は目が覚めた。

 ほぼ反射的にアラームを止めて、まだ夢の中にいるような寝起き特有の感覚に、しばらく動けずベッドの上で先ほどまで見ていた夢のことを考える。


 またこの夢か……。


 この夢を見始めたのはいつからだっただろう。さすがに毎日見るわけではないけれど、定期的にこの夢を見ているため、内容を覚えてしまっているほどだ。夢自体に問題はないのだけれど、困るのはこの夢を見た後は必ず、何かに駆られるような、大切なことを忘れているような、そんな焦燥感がありモヤモヤした気持ちで目が覚めるということ。もちろん今日の朝も例外ではなく、私の気持ちはモヤモヤしていた。


「ただでさえ疲れてるんだから、夢の中でくらいいい思いさせてよね」


 独り言を呟きながら、リビングのテレビをつける。テレビからは寝起きの頭には重すぎる殺人、事故、下世話なゴシップニュースが流れている。一連のニュースが終わり、次のコーナーに入った途端に溢れるアナウンサーたちの笑い声が不協和音のようだ。


 それらを横目に、私はお気に入りのマグカップに淹れた珈琲を飲みながら軽い朝食を済ませ、化粧をして家を出る。社会人になってから何年も繰り返している朝の作業は何も考えなくても出来てしまうほどに、私の体に染みついている。一体あと何回この作業を繰り返さなくてはいけないのだろう。きっと歳を取って働けなくなるまで、あと何十年も続けるのだろうと思うと、朝から気が重くなる。


「いってきます」


 静まり返った部屋に呟いた言葉が、誰に聞かれるわけでもなく、空気に溶けて消えていく。

 外に出ると、仕事をするには勿体ないくらいに晴れ渡る空が広がっていて、このままどこかへ行ってしまいたい衝動に駆られる。もちろん私は大人なのでそんなことは出来ないけれど。

 

 私の今までの人生は、とても平凡なものだと思う。大した浮き沈みもなく、まるでなんの波風もなく波紋さえも立たない水面のような、そんな日々だった。それが一番いいじゃないかと人は言うけれど、悲しいことがない代わりに、心が弾むような嬉しい出来事もない。毎日同じことを繰り返すだけの日々に何の意味があるというのか。そんな人生が一番いいだなんて私には思えなかった。そんな重い足取りで、慣れた職場への道を進んでいく。


 平日の朝は、学校へ行く人や通勤する人で溢れかえっている。無表情で行き交う人々を見ていると、日々の繰り返しをしているのは自分だけではないのだと、どこか安心する。

 同じ方向に歩みを進める人たちは、進んでいる方向は同じだけれど、目指している場所は違う。まるでそのようにプログラミングされているかのように、それぞれの目的地に入っていく人の流れは、見ていて面白いような、なんだか少し不気味なような気もする。

 

 私もその群衆に紛れて会社への道を歩いていると、歩行者信号が赤になり、無意識に足を止める。その時、あるビルが目に留まった。特に変わった所はなく、なぜその瞬間にそのビルを見たのか、私にも分からなかった。ぼんやりとそのビルを見ていると、窓に朝日がキラリと反射して、私の視界は一瞬にして真っ白になった。



「えっ……」



 閃光のようなあまりの眩しさに目を細めたその瞬間、見えた気がした。


 ……人だ。


 見てしまった。ビルの上から地面へと吸い込まれるように落ちていく人影を。一瞬で全身の血が凍ったかのように寒気がして、思考が混乱する。心臓がバクバクと音を立てている。

一度、深く息を吸い、頭を落ち着かせるために、そして私の嫌な憶測を掻き消すために、必死に思考を巡らせる。


 いや、そんなわけがない。だってこんなに人が溢れている時間に、上から人が落ちてきたら、悲鳴の一つや二つ聞こえてきそうなものだけれど、何も聞こえないじゃないか。

 ほかに見た人がいないかと周りを見渡したけれど、周囲にいる人々は何も変わらずに信号を待っている。こんなに人がたくさんいる中で、自分一人しか見ていないなんてことは考えにくいし、見間違いか……光の反射で鳥か何かが人影に見えただけなのだろう。

もしくはまだ寝ぼけているのかもしれない。



 そう思考を回しているうちに、歩行者信号が青に変わり、一斉に同じ方向へと歩き始める人々の流れで、少し落ち着きを取り戻しつつあった私の頭も現実に引き戻される。


 

 あれはきっと見間違いだ。仕事に遅れてしまう。急がないと。


 そう無理やり自分に言い聞かせ、私は足早に職場へと向かった。

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