これは夢か、現実か
梨子から好きだと言われた。嬉しいはずなのにそんなはずはないと思う自分がいて、梨子の言葉がイマイチ信じられない。長年の片想いを拗らせた結果だ。梨子は兄貴が好きなのだと固定観念があるあまりにどうしても好かれているという実感が持てなくて戸惑っていると、梨子からキスされそうになった。あと数センチというところでインターフォンに邪魔をされてしまったけれど、それがなければあのまま唇は重なっていただろう。梨子から、ちゃんと俺のことを雅弥であると認識された上でだ。ああ、心臓が痛い。俺は思わずシャツの胸元を握った。
インターフォンで店員とやり取りをした後、微妙な雰囲気の中俺たちは机の上に零したままになっていた烏龍茶をおしぼりで拭いてからそそくさと退室した。さっさと会計を済ませ、店を出る。
微妙な雰囲気から逃げ出したいような気持ちはあったものの、そのまま解散というわけにもいかず、だからと言ってカフェに行く雰囲気でもなく。結局俺のアパートに行くことになった。そして俺は梨子の手を引いて歩いている。互いに無言のままだ。
手から伝わってくる梨子の熱にどうしようもなくドキドキする。すでにセックスまでしたのに手を繋ぐだけでこれとか拗らせすぎにも程がある。想いが通じてから初めて触れ合うのだから仕方ないと思うことにする。
黙々と連れ立って歩いているうちに俺の住む『メゾン・ド・モマン』(旧名:竹井荘)が見えてきた。アパートの敷地内に入りかけたところで隣家から大家の竹井夫人が出て来る。買い物にでも出かけるのだろう。竹井夫人も俺に気づいたようで視線がぶつかった。俺は梨子に大家さんだと説明してから竹井夫人に黙礼をする。梨子もそれに倣った。
梨子の存在に気がついた竹井夫人はにまっとした笑顔を浮かべた。『うふふ。若いっていいわねぇ』とか思っていそうだ。竹井夫人は俺たちに手を振ると鼻歌を歌いながらスーパー方面へと歩いていった。次会った時に絶対に揶揄われるな……。
俺が竹井夫人の背を見送っていると服の裾を引っ張られた。
「……誰?」
「ここの大家さん」
「おお……雅弥がいつもお世話になってます」
梨子が遠くなっていく竹井夫人の背中に向け、改めてお辞儀する。俺の母さんか、お前は。
「いいから行くぞ」
「うん」
俺は再び梨子の手を引いて自分の居室を目指した。
◆
「どうぞ」
「お、おじゃまします」
俺が玄関の戸を開き入室を促すと、梨子が遠慮がちに言いつつ靴を脱いだ。
俺の部屋はバストイレ別の1Kだ。1Kと言いつつもキッチンは広いし風呂には洗面所も付いている。部屋自体も壁面収納付き12畳という謎の広さでエアコンまでついているのに学生の懐に優しい家賃設定。さらにたまに竹井夫人がお裾分けと称しておかずを恵んでくれる。賃貸契約の前に聞かされていた『ただの趣味で儲ける気はない』というのは事実だったようで、大変助かっている。正直ちょっと手厚すぎでは?も思うけれど。
広めな部屋とは言え、持ち込んだ家具は少ない。必要最低限のベッドやテーブル、二人掛けソファ、棚、テレビくらいか。寝たり課題をしたり食事をしたりするくらいで十分と言える。
梨子をソファに座らせキッチンで飲み物を用意する。飲み物を盆に載せ戻ると、梨子はソファに座ったまま殺風景ともとれる室内をキョロキョロと見回していた。それから目を閉じ、深呼吸をする。
梨子も緊張しているのだろうか?と思いつつテーブルの上に飲み物を置こうとした瞬間だった。
「……雅弥の匂いがする」
「!?」
ガシャン!!!!!
俺は手を滑らせ飲み物を盆ごとテーブルの上にぶちまけてしまった。
「え!?」
音に驚いた梨子が目を開けて、互いの視線がぶつかる。
「ま、雅弥、いまのきい、」
ブワッと梨子の顔が赤くなった。
「…………」
「…………」
二人で無言になり、室内に響くのはぼたぼたとテーブルからカーペットに滴る水音だけだ。
「って、うわ、」
俺は床に転がっていたティッシュ箱からティッシュをシュバババっと引き抜くと、カーペットに溢れた水分を拭い取る。梨子は同じくティッシュを引き抜いてテーブルの方の水分を拭ってくれた。おかげでカーペットは思ったより濡れずに済んだ。喧嘩が多かったとはいえ長年の付き合いがある幼馴染だからこそ為せるコンビプレーである。と、内心ドヤっとして顔を上げたら梨子の顔がむちゃくちゃ近かった。
「……雅弥」
「……何だよ」
平静を装おうとして、思ったよりぶっきらぼうな声が出た。梨子はそれに対し怒ることもなく真剣な眼差しをして俺を見ている。
「やり直しを要求します」
「……何を?」
こいつ、主語が足りなさすぎでは?
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