感情ジェットコースター

 

「入って」


 扉を開け、俺が椅子に座るように促すとそれに従い梨子が素直に腰を下ろす。部屋には俺と梨子の二人きりだ。久しぶりの状況に若干の緊張を覚える。そのせいか喉がカラカラになってきた。梨子も緊張しているのか、自分の膝に視線を落としている。


「何か飲むか?」

「……アイスティー」


 俺が訊くとぶっきらぼうな答えが返ってきた。


「了解」

「――――待って」


 俺がコップを手に取り扉へと向かおうとすると、梨子が呼び止めてきた。


「ねぇ、なんで?」


 責めるように問いかけてくる。


「何で移動先がカラオケボックス!?普通どっちかの家とかじゃないの!?」


 そう、話し合いをするべく俺たちが移動した先……それは大学付近のカラオケボックスだった。手にあるのはフリードリンク用のコップだ。室内にはモニタ画面からミュージックビデオの音声が満たされている。


「いや、おまえ絶対叫ぶし。家で叫んだら親とかに丸聞こえだろ」

「ぐぬっ……で、でもここはどうかと思う!」

 

 梨子は激しく不満そうにしている。


「比較的防音だし、音源流してたらある程度掻き消えてちょうどいいだろ」


 俺は理由を説明したがそれは事実半分言い訳半分といったところだ。確かに家で叫ばれるのは少々都合が悪いが、俺のアパートに梨子を連れ込みたくなかった。自室で悲しい報告など聞きたくもないというのが本音だ。毎日部屋に戻るたびにブルーな気分になるのは御免蒙る。梨子は何やら不満そうにぶつぶつ言いつつ口を尖らせているがモニタからの音声でかき消されて俺の耳には届かない。ひとまず俺は部屋を出て飲み物を取りに行くことにした。



「お待たせ」

「……」


 俺がドリンクを手に部屋に戻ると頬を膨らませた梨子が待っていた。梨子にアイスティーを手渡して、俺は少し離れたところに腰をかける。俺のドリンクは烏龍茶だ。緊張しているし喉を潤しやすいので冷えたお茶が最適と判断してのことだ。俺はちびりと烏龍茶を口に含んだ。いい感じに口の中が潤う。もう一口飲もうとしたところで梨子が距離を詰めてきた。


「雅弥」

「……何」


 俺はそっけない返事をしながらコップに口を付け、烏龍茶を口内へ流し込む。


「雅弥って私の事好きなの?」


 ブフゥゥゥ―――――――!!!


 口に流し込んだはずの烏龍茶を盛大に噴いた。おかげでテーブルの上は烏龍茶に塗れた。


「な、何言って」

「答えて」


 梨子が俺の胸倉を掴む。近い近い。そしてお願いだから烏龍茶を拭わせてほしい。俺が視線をテーブル上のおしぼりへ投げると、それを察した梨子が胸倉を掴んだ片手はそのままにおしぼりで俺の口元を拭いてくれた。そして使用済みのおしぼりをテーブルの上に置く。テーブルは未だびしょ濡れだが放置するらしい。


「私の事、好きなの?」


 近い。いい匂いがする。梨子は残酷だ。長年の片想いを今度こそ諦めようと泣く泣く離れて、ようやく梨子がいない時間にも耐えられるようになったきたというのに。俺の手は梨子には届かない、兄貴が好きだから。それなのにどうして。ギリ、と奥歯を噛み締める。


「何でそんなこと訊いてくるんだよ?」

「雅弥?」

「おまえは兄貴が好きなんだし、どうでもいいだろそんなこと」


 泣きたい気持ちを堪えるために、声音は冷たく、言葉は刺々しくなった。


「どうでも良くないから訊いてるんじゃん」


 俺の胸倉を掴む梨子の手に力が籠る。正直に言うまで解放する気は無いのだろう。残酷にも程がある。


「……じゃあ答えてやる。ああ、好きだよ。ガキの頃からおまえが好きだった、おまえだけが好きだった」

「……本当に?」


 梨子が少し惚けた表情になる。


「今更嘘吐くかよ。それで?それを訊いてどうする?わざわざご丁寧に俺を振ってくれるのか?」

「え?まさ、」

「おまえがあの日兄貴に告白してたのは聞いた、無事抱いてもらえたか?想いが遂げられてよかっ……いっっっで!!!」


 俺が最後まで言い切る前に強い衝撃が額を襲った。――――梨子の頭突きである。痛い。めちゃくちゃ痛い。何しやがる、と怒鳴ろうとしたが俺は言葉を飲み込んだ。梨子が、梨子がボロボロと涙をこぼしていたのだ。頭突きされたりどうしようもない想いを無理矢理吐露させられたりして沸いていた怒りはあっけなく霧散した。代わりに動揺する。


「り、」

「私はっ!」

「え?」

「私は篤哉くんに抱かれてなんかないっ!」

「――――え?」


 一瞬、聞き間違いかと思った。あの兄貴が据え膳を食わなかった、だと……。驚きである。流石に婚約者との間に子供がいるから躊躇したのだろうか。ではこの梨子の涙は兄貴への想いを終ぞ遂げられなかったからと言う事か。そして梨子の傷ついた心を抉ったから俺は頭突きされてしまったのだろう。正直な話俺も散々傷ついたのだが、だからと言ってやはり好きな女が泣いているのを放っておくなどできるわけもなく。


「……元気出せよ。ほら、兄貴以外にも男は星の数ほどいるから、な?」


 俺は俯いて涙をこぼす梨子の両肩に優しく手を置いて慰めた。惚れた女が俺ではない他の男に振られた事を慰めてるってどんな状況なんだよ、とは思うものの慰める以外の選択肢は俺にはない。しかし慰めようとした俺の手は、梨子によって乱暴に払われてしまった。


「違うっ!篤哉くんはどうでもいい!」

「え」


 梨子が涙に濡れた瞳で俺を睨む。俺の脳内は疑問符でいっぱいだった。意味が分からない。困惑した表情を浮かべた俺を見て、梨子が俯く。


「アンタの言う通り、確かにあの日私は篤哉くんに告白したよ。でも抱かれなかった……抱かれたくなかった」

「は?だっておまえそれを望んでたはずだろ?思い出に抱いて欲しいって」


 兄貴に抱かれたくて酒の力を借りてまで突撃したと言うのに、珍妙なことを言う。結果的に俺の理性をぶっ飛ばして俺に抱かれる羽目になったが。


「……気持ち悪かったの」


 梨子は自分を抱きしめながら二の腕を擦った。


「ん?」

「好きだと思ってたはずなのに、そういう雰囲気になっていざ触られたら気持ち悪くて殴っちゃったの!」

「はいぃ???」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺は、きっと悪くないと思う。

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