リリーオブザヴァリー

今際ヨモ

 ──村はずれの森の中には、けして入ってはいけないよ。あそこには悪い魔女が住んでいるからね。

 そんな母の言いつけを破りたくなったのは、ちょっとした喧嘩が原因だった。本当に些細なことで、自分が謝れば円満に片付いたことくらい、ノエルだって理解していたくせに、どうにも素直になりきれなかった。もっと幼い頃ならすぐに言えたごめんなさいも、思春期の少年の口からは憚られるものになっていて。

 魔女なんて出鱈目だ。子供を脅す、大人が作った都合のいい嘘。そう言い聞かせて、薄暗い森を早足に進んでいく。未知の場所に踏み込んでいく高揚感に、ノエルの足取りは軽かった。

 愚直に母の言うことを聞いてきた人生の中で、初めての反発だから、その背徳感とか後ろめたさも相まって、不思議な気持ちだった。でも、心地よい。いい子ちゃんのノエルはもうやめにした。村の子供たちがどんなに悪いことに手を染めても、真似する勇気が出なかったのに、どうして今日ばかりはこんな行動に出たのだろう。それこそ、森の奥の魔女が呼んでいたのかもしれない。

 随分深くまで来たと思ったが、何も見つからない。真っ直ぐに進んできたから帰れないということはないが、これ以上奥に行くのは不安だ。森の冒険は、思ったよりも味気ないものだった。だって、ただ同じような木が並んでいるだけで、何があるという訳でもなかったのだから。大人たちの嘘を信じていたわけじゃないけれど、魔女に出会えるかと思っていたのに。

 期待外れだ、と考えながら空を見上げる。来るときは青空が見えていたのに、いつの間にか雲が庇っていて、それで、木々の隙間から建物の影が見えた。もっと、森の奥の方に。大きな屋敷のようなものがある。本当に魔女が。そう思ったノエルは、恐怖と高揚感の入り混じったふわふわした足取りで森を進んでいく。

 木々を抜けた先に、寂れているけれど立派な門があって、その先に古そうな厳しい屋敷があった。

 門は人が一人通れる程度に空いている。ノエルは足音を忍ばせて、そこを潜り抜けた。

 人気がない。廃墟なのだろうか。確かにこんな森の奥に人が住んでいるわけもない。そう考えながら、屋敷の二階の窓を見上げたとき、ノエルは思わず息を呑んだ。

 銀色の絹糸みたいにサラサラの髪の毛と、緑の大きくて丸い瞳。あまりにもきれいな顔をしているから、人形にすら見える女性が、窓からずっと遠くの景色を眺めている。

 遠くてわかりづらいのに、絵画の中から抜け出してきたみたいに目鼻立ちの整った彼女を視界に入れた途端、ノエルは鼻の奥がツンとする感覚を覚えた。あ、と思ったときには両目から涙が溢れていた。きれい。そう、息を呑むほどに美しいものを見たから、あまりにも感動して、涙が形になって零れたのだ。

 本当にきれいだ。ただ無表情に外を眺めているだけのその人から、目が逸らせなくなった。

 あの人は、何を見ているのだろう。遠くには雲に覆われた空があるだけだというのに。鈍色と木の緑を見て、何が楽しいのだろう。

 本人に、直接それを聞いてみたい。あの人の声を聞いてみたい。実際に話をしてみたい。そう強く思った。

 ずっと見つめていると、ノエルの思いが届いたのか、不意に女性の視線が下に降りてきた。こちらに気付いた。目が合ったのだ。嬉しくなって、ノエルは大きく手を振った。彼女はそれをあまり興味なさそうにしばらく眺めてから、するりと窓辺から離れていってしまった。

 ああ、見えなくなってしまった。行き場を失った手を引っ込めて、地面を見つめる。なんだろう、この胸の高鳴りは。涙で濡れた目元を拭いながら考える。彼女のことを考えるだけで、体が火照った。なんだろうこの感覚は。僕はおかしくなってしまったみたいだ。ノエルは熱い頬に手を当てて、冷やそうとする。

 きれいだった。ずっと見つめていたいほどに。

 そうだ、話がしてみたい。ノエルは屋敷の玄関に駆け寄った。まだ胸が高鳴っている。ドアノブに手を伸ばすのを躊躇って、でも意を決して。そうして触れた瞬間、力を入れていないのに扉が奥に引かれていったので、ノエルはギョッとして小さく悲鳴を上げた。


「何方?」


 凛とした声に顔を上げると、緑と白のドレスに身を包んだ、先程の美しい女性が仏頂面で立っていた。心臓が飛び出るかと思った。この人は、声までこんなにきれいなのか。


「あっ、う、えっと……あのっ……」


 ノエルは言葉に詰まって、一気に顔の体温が上がるのがわかった。

 近くで見たら、肌が陶器みたいに白くて、長い睫毛に縁取られた瞳は翡翠を嵌め込んだみたいに透き通っている。ドレスと相まって、物語の中のお姫様みたいだと思った。


「ぼく、ノエルと申します……っ」


 やっとの思いで出た声は緊張で裏返って、こんなに格好悪いところを見せてしまったと思うと、もっと顔の温度が上がっていく。もうノエルは耳まで真っ赤になっていた。

 女性はそんなノエルの様子を見て肩を竦めながら、肩にかかっていた長い銀糸を払った。


「貴方、村の子供ね。こんなところに来ちゃ駄目でしょう? お母さんにそう言われなかった?」


 母の言いつけ。不意に思い出して、ノエルは彼女の姿をもう一度よく見る。長くて艷やかな銀色の髪と、精緻な顔に、少し時代錯誤なドレス姿。美しい見た目に惑わされて、忘れかけていた母の言葉を思い出す。森の奥には、悪い魔女がいる。でも、彼女の姿は少しも魔女には見えない。そもそも魔女なんてものがいるなど信じてはいないが。それでも、もしかしたら。


「あ、あなたが、魔女……なんですか?」


 ノエルがおずおずと尋ねると、彼女はふっ、と息を吐いて、その拍子になんだかもっとおかしくなってしまったのか、ふふふ、アハハと腹を抱えて笑いだした。

 笑った顔は少し子供っぽくて可愛らしい。ノエルは彼女の一挙一動に魅了された。

 一頻り笑いきると、涙に濡れた目元を拭いながら、彼女はとびきり馬鹿にしたような口調で言う。


「魔女なんているわけ無いでしょう? ふふ、村では私のことそう言われているのね。ふふふっ、おかしい」


 魔女じゃないんだ。じゃあこんな森の奥で一人、彼女は何者なのだろう。


「あなたは、誰なんですか?」


 訊ねられると、彼女は急に表情を失って、少し考えるような素振りを見せてから口を開く。


「ノエルって言ったかしら。丁度これから朝食を食べるところだったから、ご馳走してあげるわ。さあ、上がって頂戴」

「えっ、いいんですか? でも……」

「遠慮しないで。それとも、私が怖い?」


 冷ややかに微笑んで見せる。その氷のような笑みもまた、彫刻の如く美しくて、彼女の言う通り少し怖いくらいだった。でも、もう完全に彼女に引き込まれてしまっていて。ノエルは彼女に招かれて、屋敷の中へと足を踏み入れた。

 広くて立派な屋敷の中には価値の高そうな彫刻や絵画が幾つも飾られていて、天井にはきらびやかなシャンデリアが吊るされている。見惚れてキョロキョロとあたりを見回しながらも、ノエルは彼女の後をついていく。それら全て、物語の中でしか知らなかった物が現実にあることが不思議で、ノエルは本の世界に飛び込んでしまったような錯覚を覚えた。揺れる緑のドレスの裾と銀糸の束も、現実ではない気がしてきて、急に自分は家に帰れるだろうかと不安になって、後ろを振り返る。

 チョコレートの板みたいな大きな扉は確かにそこにあって、今すぐ駆け寄って開け放てば、またあの森が広がっていて、まっすぐ走っていけば村に戻れるはず。


「どうかしたの?」


 鈴を転がしたような声に、弾かれるみたいに彼女の方を見た。何でもないです、と早口に告げると、そう、と興味もなさそうにまた歩き出すので、ノエルは再び彼女の後に続いた。

 通された部屋の中央には、長いテーブルが置かれていて、椅子もいくつもあって、それも何かの物語で見たことのある貴族の食卓という感じで、ノエルは目を輝かせて凄い、と声を漏らした。机に等間隔に配置された燭台や白い花の入った花瓶も、本物を目にすることになるとは思わなかった。


「適当なところに座っていて頂戴。私が作ったスープを用意するから」

「あなたが作るんですか? 使用人とかは……?」


 ノエルが思わず訊ねると、彼女は不敵に笑った。


「基本的に此処には私一人しかいないの。お掃除をしに来る小間使いが何人かいるけれど、今はいないのよ」


 それがどうしてなのか。それを教えてもらう前に、彼女は奥の部屋に行ってしまったので、ノエルは仕方なく、彼女に言われた通りに一番近くの椅子に腰を下ろした。

 目の前には精緻な彫刻の施された花瓶があり、そこに何本かの鈴蘭が生けられている。可憐で儚い印象のある鈴蘭は、なんとなくこの机の上には似合わないような気がした。もっと華やかで鮮やかな色彩の花を生けるのが自然なんじゃないか。そう考え始めると、余計に鈴蘭が不釣り合いな存在に思えてきた。もしかしたら、彼女が特別好きな花なのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、木のトレイにスープの入った木製の皿とスプーンを乗せて、彼女が戻ってきた。コトン、と音を立てて机にトレイを置いてから、ノエルの目の前にスープの皿とスプーンを置く。

 クリーム色の液体に様々な野菜と肉が浮いていて、バジルと胡椒が振りかけられている。美味しそうな匂いのする湯気を吸い込んだ途端に、急にお腹が空いてきた。そうだ、今日は何も食べずに家を飛び出してきたんだっけ。


「どうぞ、召し上がれ」


 ノエルの前の席に腰を下ろした彼女が笑顔で促してくる。いただきます、と手を合わせてから、ノエルはスプーンをスープに浸して、口に運んだ。ろくに冷まさなかったせいでちょっと火傷しそうになる。でもクリーミーな舌触りと丁度いい味付けでとても美味しい。野菜と肉の旨味が溶け込んでいて、良い風味がする。


「美味しい! 凄く美味しいです」


 そう言ってノエルが夢中になって口に運ぶのを、彼女は嬉しそうに見守っていた。


「ふふ。そうでしょう? 私、身の回りのことは自分でやってきたから、料理も得意なの。残さず食べてね?」


 はい、と元気よく答えて、もう一口くちにしたとき、異変が起きた。ノエルが、持っていたスプーンを床に落として無機質な音が響く。


「……?」


 突然、手に力が入らなくなったのだ。なんで、と思って指先を見ると、寒くもないのに震えていた。なんだろう、と考えていると急に酷い吐き気に襲われて、ノエルは口元を抑える。喉が焼けつくような錯覚。耐えきれずに吐き出して、掌を見ると、真っ赤な液体が付着していて急速に背筋が凍りつく。血を吐いたんだ。どうして。縋り付くように彼女の方を見ると、呆れたように溜息を吐く彼女と視線が合う。


「やっぱり、駄目なのね」


 なにが、と聞くより先に不意に呼吸が苦しくなって、ノエルは喉を押さえた。心臓がおかしいくらいの速度で胸を叩いている。体が熱い。息が苦しい。

 なんだこれ。おかしい。死んでしまうかもしれない。このスープを飲んでからこうなった。まさか、まさか彼女が。


「なに……入れ、たの?」

「何も? 何も入れてないのに、こうなっちゃうのよ」

 

 息が苦しくて、視界が回る。ゲホ、と咽るたびに口の中に血の味が滲む。死んじゃう。毒だ。スープに毒が入っていたんだ。

 目元に涙を滲ませて彼女を睨みつける。この人は僕を殺すつもりだったんだ。酷い。声にならない言葉を訴える。それを読み取ったみたいに彼女は微笑んだ。


「大丈夫、貴方は死なないわよ。人間ってね、しぶといの。この程度じゃ死んでくれないわ」


 そう口にしながら、机の上の花瓶の中の鈴蘭を一本手に取ると、それに彼女は息を吹きかけた。瞬間、白い花と茎は朽葉色に色付いて萎れる。


「生まれつき、私の家系には呪われた娘が産まれるの。その呼気にすら毒が含まれていてね、側に居すぎた者はその毒に当てられてやがて命を落とす。だから、私の作った料理すらも毒を持つの」


 彼女は朽ちた花を放って、ノエルが食べていたスープの器を手にとって、口をつけた。


「美味しい。私が私の毒を摂取しても何の問題も無いのに、貴方が口にしたらこうなってしまうなんて、酷い話よね」

「ぐぁ……ひゅ、」

「可哀想に。私に近付いたからこうなるのよ。これに懲りたらもう、この森に近づいちゃ駄目よ」


 言いながら彼女は長い机を迂回して、ノエルの肩と膝の下に手を回して、抱え上げた。酷い吐き気や倦怠感でされるがままのノエルは、思わず彼女の顔を凝視する。密着したことでより側で見ることができる彼女の表情は、憂いを帯びていた。伏せられた長い睫毛の下、潤んだ翡翠がとても美しかった。こんな状況でも漠然と彼女の美に浸る自分は馬鹿だな、と思う。

 でもなんで、そんなに悲しそうな顔をするのだろう。


「空き部屋の寝台に寝かせといてあげるから、具合が良くなったら自分で帰ってね。私は側にいたら、貴方を殺してしまうから、別の部屋にいるけれど。私を探したりはしちゃ駄目よ」


 そう言って、彼女はノエルを連れて食堂を出て、階段を上がって長い廊下の一つの部屋に入った。最低限のものが並んでいる部屋のベッドに寝かせられると、横になったことにより、少し楽になった気がした。

 おやすみなさい。そう声をかけられたから、ノエルは目を閉じる。

 混濁する意識の向こうで、彼女が言葉を零すのが聞こえた。


「ねえ、本当は貴方が来てくれて嬉しかったのよ。毒の娘はこうやって森の奥に隔離しておくしかないって、誰も会いに来てくれないんだもの。お伽噺みたいに、王子様が迎えに来て、私を連れて行ってくれるのをずっと待っているの。ふふ、叶いもしない夢は儚いものね」


 それから暫く寝込んでから、目を覚した。ノエルは体がなんともなくなっていることに安心して、胸を撫で下ろす。そうして、彼女の言い付け通り、屋敷の中の彼女を探すことなく真っ直ぐ出口に向かった。

 空は薄い紫と深い青のコントラストに染まっていて、陽は沈みかけていた。それだけ長いこと自分が眠っていたのだと知る。

 去り際に、来たときと同じように二階の窓を見上げると、思った通り彼女がいた。遠くの空の境界をひたと見つめるその表情には、やはり何処か寂寥感が漂っている。

 空と木ばかりの景色を見据える、その理由。結局聞き逃してしまったな、と思いながらノエルは森の中を進む。

 でもなんとなく、理由を想像することはできた。彼女はきっと、迎えに来る誰かをひたすらに待ち続けているのだ。一人きりの屋敷で、今も寂しく待ち続けている。

 毒がそれを阻もうとも、諦めきれなくて。毎日、誰かが連れ出してくれるのを。

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