汚濁

汚濁



 僕の彼女は、僕になんでも命令をする。それは実務的なことの場合もあるし、いたずらようにどうでもいいことの場合もある。

「ご飯三合炊いておいて」

 僕の方が仕事の帰りが早いので(と言っても、二十一時は過ぎている)、そういった家のことを命令される。僕は寒い日でも冷水で米を研ぎ、きっちり三合目のメモリに水を張って炊飯器にセットする。炊飯器に釜をセットする時に、釜の外側に水滴が付くのが僕は好きではない。釜をセットする前に必ず外側をペーパータオルで丁寧に拭き取る。思うに、僕は少し几帳面な性格なのだと思う。


 僕が初めて彼女にキスをした時に、「キスをしていい?」と聞いたら、彼女は「そういうこといちいち聞かないで」と少し怒りながら笑っていた。それは僕に対する初めての命令だった。彼女はこのように、僕に対してやや高圧的に命令を下すのだ。

 僕は二十四時間365日、彼女の命令に忠実でいたい。僕の仕事は、基本的には十二時間労働。デザイン会社で、企画職をしている。自分のデスクの正面にはPCがあり、PCにはPhotoshopが映し出される。その横に自分のプライベートのスマートフォンを設置する。それが僕のデスクのスタイルだ。彼女からいつ連絡が来てもいいように待機している。


 実際に仕事がある日中に彼女から連絡が来ることはあまりない。彼女はとても真面目な人なので、仕事中に私用のラインを送ることを罪だと考えている。

 たまに連絡が来ても「ご飯炊いておいて」とか「帰ったら傘ちゃんと干してね」とか、せいぜいそんなレベルのことだ。彼女はたまに、そんな些細なことでもラインを送ってくる。僕に命令をしたい時が、彼女にはある。それは彼女が辛い時だと僕もわかっている。

 傘を干してと言われるが、言われなくてもやっている。僕はやはり少し几帳面なのか、雨の日の傘の手入れは怠らない。どれだけ疲れていても、雨の日は帰ったらまず傘を広げ、錆の原因になりやすい内側の骨組みと持ち手を柔らかいタオルで拭く。そして中性洗剤を含ませたタオルで柔らかく撫でるように、生地を拭き取る。防水スプレーをかけて風通しの良い玄関で置いておく。それで完了だ。

 小さい頃からこの傘の手入れを続けている。自分の持ち物は、綺麗に手入れしておきたい。美しく手入れすることによって、愛着が湧くような気がする。愛でるという言い方が正しいかも知れない。管理しておきたい。


 彼女が帰ってくるまでに夕飯の準備をする。夕飯は僕の担当なので、毎日の献立は常に考えてある。

「ただいま」

 彼女がいつも通り青ざめた顔で帰ってくる。彼女は職場でいじめに遭っている。いじめというのが正しいのかはわからないが、彼女には仕事が回ってこないし、日中やることがない。それなのにも関わらず、僕よりも仕事から帰るのが遅い。彼女は「定時で退勤をするのが怖い」ということを言っていた。会社をさまよって雑用を探して、手伝いをしているうちに帰りが遅くなるのだという。そんな雑用で一日を過ごすことと、残業代をもらうことの方が痛々しいと思うのは僕だけだろうか。


 彼女は帰ってくると、ただいまを言い、僕が玄関に迎えに行くまで部屋に上がってこない。僕が玄関まで出ていくと

「靴」

と言って、僕に靴を脱がすよう命令をする。

 健気だと思う。彼女は僕が靴を脱がすまで靴を脱がない。靴を脱がし終えて廊下に上がると、彼女は僕に抱きつく。そして泣く。一日中辛い目に遭わされている自分を思って泣くのかもしれない。僕の体温や匂いに安心して泣くのかも知れない。どちらとも言えるのかも知れない。

 僕はたまに意地悪をして、おかえりを言ったあとに玄関に向かわないことがある。暫くすると、玄関からスンスンと鼻を鳴らす音が聞こえてくる。泣いているのだ。鼻を鳴らす音は僕に対する命令で、僕を呼んでいるということだ。そうしてやっと僕は玄関まで向かう。

「どうしてすぐ来ないの!」

彼女は泣きながら僕を怒鳴りつける。僕は少し笑ってしまう。

彼女を宥めるように、抱きしめる。そうすると彼女はいっそう泣き、そして顔をグチャグチャにさせる。


 僕が作った夕食を食べさせて、一緒に風呂に入る。僕は彼女の隅々まで洗ってやる。付き合ったばかりの頃、彼女がいたずらで「わたしの身体洗って」と命令してから、僕の日課になっている。彼女は僕の前ではいたずらっぽく笑うこともあれば、時たま虚空を見つめて無表情を見せることもある。

 彼女の身体を洗うことは、気に入っている傘を手入れすることに似ている。四十度のお湯で下半身からシャワーをかけ、彼女の身体が温まった頃合いを見て上半身にもお湯をかけていく。冷えた身体を労わるように、温かいお湯で彼女の身体をほぐしていく。手にボディソープを取り、泡立て、彼女の腕や脚をなぞる。彼女は恍惚とする。目や鼻を赤くすることもある。僕に身体を洗われながら泣いているのだ。シャワーから出るお湯に紛れて涙は見えないけれど、目が潤んでいる。


 今思えば、彼女が僕に身体を洗わせるようになってから、彼女は僕の前でよく泣くようになった。お湯で身体の輪郭が溶けていくことと同時に、心もゆっくり溶けだしていったのだろう。

 彼女は僕と一緒に浴槽に浸かりながら、僕と一つになりたいと言ったことがあった。その時点でもう、彼女は彼女として保てなくなっていたのだろう。二人でお湯に浸かっていると、お互いの体温の違いがわからなくなる。僕と彼女の境目が無くなる。僕と一つになりたいという彼女をいじらしく感じ、その言葉を思いだすと堪らなくなる。


 浴槽に二人で入ると、僕の股の間に彼女の身体はすっぽりと収まる。後ろから手を伸ばして抱きしめる。彼女の胸を撫でる。彼女を愛でる。傘の手入れをする時のように。

 彼女が達して、また泣く。彼女が泣くということは、僕を欲しがるということ。というよりも「寄越せ」と主張する命令だ。僕はそれを拒否しないし、それをすることで彼女をもっと溶かしたい。溶かして跡形もなくふやけさせたい。

 僕は彼女の命令を、忠実に守っていたい。命令することでしか自分を保てない彼女も知っている。彼女に命令されることで僕がいることも自覚している。達した彼女の目が潤んでいる。涙は、シャワーから出るお湯に紛れて見えないけれど。


 明日も彼女は青ざめた顔で帰ってきて、玄関に立ち、僕に抱きしめられて泣くだろう。自分を保てなくなった自分に絶望するだろう。そして僕が作った夕飯を食べ、僕に洗われて泣いて、僕を求めるのだろう。僕に洗われて、自己を損なっていくのだろう。

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汚濁 @McDsUSSR1st

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