残り火
郷田冬樹
勿忘草のクロッキー
1
父の、節くれだった優しい手を覚えている。 ずうっと絵筆を握る指には、いくつも筆だこをこさえていたことも。
幼かった私にとって、その手は誇りだった。
父の仕事は、幾つもの幸せをその手で彩ることであった。
郊外の海辺に建つアトリエが父の仕事場で、幼い私の思い出の全て。普段朝ぼらけのさざ波みたいに穏やかな眼差しは、キャンバスに注がれた途端どんな刃より鋭く、真剣になった。
幼い私はその傍らで、じっと父の絵が出来上がる過程を眺めていたのである。
キャンバスにいくつもの色が乗って形になり、ひとつの完成された絵になるのは、パズルピースが嵌っていくようで。
私も見様見真似で絵を描いては父に見せていたのだっけ。何を描いたんだか見当もつかない色と線の集まりであっても、彼が私の絵を馬鹿にすることはなかった。
おやお嬢さん、今度は何をお描きなすったの……そう言って、ちょっと先生ぶっていた。
……そういえば、彼がデッサンに使っていたスケッチブックがどこかに仕舞ってあるんではなかったか。
取り留めのない考えごとをしながら、私は今日もバスに揺られて海辺のアトリエに向かう。
凭れかかった窓の四角い景色は、変わらず青い、思い出の色。
バスを降りて、家が立ち並ぶ合間の長い階段を下っていく。
途中で階段が途切れて道が拓けると、石垣のすぐ下には黄味がかった砂浜が広がっていた。
浜辺へ降りる階段はまた下にあるけれど、目的地はこの道の右。潮風の匂いが染み付いた木造家屋の間を抜け、この区画の一番隅の建物へ。
平屋建てに陶器瓦を葺いた、漆喰壁の建物。いかにも古めかしい外面のこの建物こそ、私が父から譲り受けたアトリエである。
壁面には蔦が這い、瓦もやや色褪せているが、まだこれは趣と言える範疇……と、思いたい。
「不在」と書かれたドアのプレートを裏返してドアを開ければ、少し埃の積もったカウンターに出迎えられた。
埃をさっと手で軽く払って荷物を下ろし、椅子にかけてあったエプロンを着け、作業部屋も掃除しておくべきかなと思い立つ。
しかし、奥に向かおうとした丁度そのときにインターホンが鳴って、慌ててスリッパを靴に履き替えた。
「はい、何か……」
ドアを開けた途端、ムスクの甘い香りが鼻孔を抜けた。そして、次の瞬間には息を呑むことになる。
目の前にいたのは、今まで見た事もないような華やかな美貌の、とんでもなく綺麗な女だったのである。
思わず呆けてドアを開けた姿勢のまま固まっていると、女性はきょとんと小首を傾げた。
「久持川です。
清流のせせらぐが如く閑かな声でハッと我に返り急いでカウンターのメモ帳を捲る。
「くじ……くじがわれんげ……あ、はい!確かに承っております。お待ちしておりました」
そこには確かに「久持川蓮華さま 五月二十二日 十時~」と私の筆跡で書いてある。
とにかく上がって頂かなくてはとスリッパを出し、どうぞこちらへ、と奥の作業部屋に案内する。あぁしまった。恐らくそれなりに散らかっている筈だ……
結局、部屋に入る前に少し待ってもらって掃除をした。蓮華さんは笑って許してくれたが、これは長期間アトリエを空ける際の教訓にせねばなるまい。
キャンバスへ向き直り、じっと目の前の対象を見据える。
腰まで伸びた黒檀の髪は、極楽鳥の羽みたいにきらきらと光を振りまいている。同じ色をした
それに反して、肌はあまりに透き通って白い。陽の光と純水のみを糧にせねば、ここまで白い女にはならないだろうと思った。名の通り、れんげの花の精だと言われても驚くまい。
唇は血より鮮やかに、花より
デッサンをせねばならないからジッと蓮華さんの顔を見ていたけれど、彼女も負けじとこちらを見つめ返してきた。そんな悪夢みたいなうつくしいかんばせを見つけられてしまっては、こちらが気恥ずかしくなってしまうのだが。
「しかしまぁ、こんなに若くて可愛い画家さんだとは思わなかったわね。電話で聞いたときはお孫さんかアルバイトの子だと思った」
蓮華さんは、最初のままぴくりとも体勢を変えず、表情だけはかわゆい笑みを形作った。器用な事だ。
目線はキャンバスに集中したまま、よく言われますと苦笑すると、「いくつ?」と尋ねられた。
「七月で十九に」
「あら、ほんとに若いのね。こんなオトナばっかり相手してて退屈にならない?」
揶揄うように小首を傾げて言われたが、会話の間を埋めるための冗談だとは分かっていたのでこちらも笑って答えた。
「なりません。楽しいです。こうして色んなお話も出来ますから。」
蓮華さんはそう、と返事をしたきり黙ってしまったので思わず目線を向けると、彼女の白い肌が更に透けて青白く見える。
「……大丈夫ですか?一度休憩を挟みましょうか。もう二時間は経ってますし」
飲み物でも取ってこようと立ち上がると、微かに蓮華さんが何事か呟くのが聞こえた。
「だめねぇ、もうずいぶんと体力が続かないようになってしまって」
しみじみと口にして俯いた顔に髪が一筋掛かって翳ると、彼女のエキゾチックな美貌は更に艶な色を増すようである。
鋭いブラックのスラックスに包まれた長い脚をおもむろに組み替えると、蓮華さんは顔にかかった髪を払って長く息をついた。
「……がんなのよ。再発してね。進行が速すぎて、もう一ヶ月、生きられはしないかなってとこ。抗がん剤も全部断ったの」
ふ、とこちらに微笑みかける顔は、確かに彼女の玉の緒が風前の灯であることを悟らせた。
そうですか、と平坦に相槌を打つことしか、私にはできない。
私の職業は、画家。
遺影のみを描く、画家である。
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