冬の終わり、静謐の部屋

あめすきとおる

冬の終わり、静謐の部屋

 私の喉が水分を欲している。私はよたよたとベッドから起き上がり、鞄から財布を引っ張り出してスウェットのまま病棟の休憩スペースの自販機に向かう。床の淡い黄色が遠く伸びていて、その廊下は冬の終わりの清廉な日光が窓からいっぱいに差し込んでくる。病院といっても、方針の都合なのか開放的な作りなので窓が多い。といってもその大半ははめ殺しの、開けることのできない採光窓。この病棟の性質上、飛び降りを懸念しての作りなのだろう。わたしは陽だまりの廊下をひとりでふらふらと歩いていた。覚束ない足取りはしばらく体を動かしていないことをこれでもかと示す。そういえば骨の真ん中が鉛になっちゃったみたいに怠い。頭も重たい。そのはずだ、そう言う薬を処方されているのだから。わたしは窓に映った自分の、ぼさぼさの髪に隠された青白い顔を見た。酷い隈で、頬骨が浮いている。もともと目つきの悪い、あまり可愛らしくない顔をしていたけれど、特別におそろしいゾンビみたいにみじめに映ってしまった。長いため息をつきながら廊下を歩く。ゴムサンダルのぺちぺちと間抜けな音が響く。透き通ったやさしい窓ガラスはもう見たくなかった。

 休憩スペースはよく日の当たる病棟三階のフロアの一角に作られている。壁沿いに幾つかのカウンター席、丸いテーブルを二つか三つの椅子が囲む席、ソファと小さな机のお一人様席。三つの自動販売機はそれぞれカップ入りジュース、紙パックのジュース、お菓子が買える。入院者の中でも病理の軽いものは、1日の大半をここで過ごすことになっている者も少なくない。日当たりの良いフロアの数少ない日陰に置かれた本棚には漫画が沢山詰まっているのでそれを回し読みしたり、数人でテーブルを囲んで談笑したり。持ってきたテーブルゲームで遊んだり。長閑な時間がここには凝縮されている。今、ここは珍しく無人だった。わたし以外の誰もいなかった。冬の終わりの夕暮れ前の、緩いクリーム色の光が弛む休憩スペース。ぼんやりと立ち尽くしてしまう。こんなに甘やかな孤独があるのでしょうか——こんなに穏やかな孤独が。病棟は気味が悪いほど無音で、わたしの衣擦れだけが音らしい音として認識できた。視覚、聴覚、嗅覚、五感の全てが孤独を感じている。孤独という究極の自己愛に耽っている。けれどわたしはその「ひとりぼっち」がほんの少し怖くなって、休憩スペースに置かれたアップライトピアノに近寄った。鍵が開いている時は誰でも好きに演奏してよいピアノ。鍵は開いていて、重たい鍵盤の蓋をカコンと音を立てて開けた。アイスクリームのような滑らかさで黒鍵と白鍵が光っている。わたしはC3のドの鍵盤をひとつ、いちど、ポーンと叩いた。規律正しく「僕がドの音です」という、迷いのない音色が静寂の中に打ち出される。わたしはピアノの前に置かれた、四角くて黒い革張りの椅子に座ってみた。誰も座っていない革の椅子はほんのりと冷たくて気持ちいい。背筋を伸ばして座ったまま、すこし生の実感に欠ける、ぼんやりと不思議な気持ちで八十八鍵を眺めた。わたしはほんの少しだけならピアノが弾けるのだ。たった二曲のレパートリーはどちらもジャズ。わたしはすこし考えてから、ゴムサンダルを履いた右足をペダルに置いて指を開いた。黒鍵と白鍵にそっと触れる。そして叩くと音が出る。じゃーん、と和音が花開いた。その音を聞いて、ああ、わたしまだこの曲を覚えているんだなと実感した。もう一度指をポジションに置く。そして今度は演奏した。指を止めなかった。幾重にも重なった音の粒が空気に溶けてゆく。それは眠たくて柔らかい。頭の中の透明な音符を追う。——「My favorite things」。リズムが心地いいのでずっと覚えていた。もとは父がピアノを弾いている姿を後ろから眺めて、そして父の手を見て弾き方を盗んだのだ。その日々の中で、この曲は父のお気に入りとして奏でられ続けた一曲。すり込みとも言えるほど覚えている——郷愁や失ったもの全てへの悔恨をひっそりと織り込んで父が夜な夜な奏でた音楽。それがこの歌だったなあ、と随分長く覚えている。

 わたしの指は無心で鍵盤を駆け回る。そして最後、響かせるように叩いて動きを止めて、そっと離す。一曲弾き終わった達成感。わたしは背中を丸めて短くため息をついた。音を出さないように丁寧にピアノの重たい蓋を戻す。やっぱりその表面は黒くつややかで冷たくて気持ちいい。学生時代に机にそうしたように、ぺたんと蓋の上にふせてみた。静けさのなかで、意識はまた孤独感に引き戻される。演奏中も終わってからも、誰の足音も聞かなかった。慌ただしく病棟を駆け回る看護師さんたちの姿もない。まるで自分以外みんな眠っているんじゃないかと思うほど不気味に静か。もし本当にみんなが眠っているのだとしたらピアノを弾くなんて悪いことをしただろうか、起こしてしまっていないだろうか。だれも起きてこないのだからきっと大丈夫。わたしは自分の喉がカラカラになっていることに気付いて、なんのために自分がここへやって来たかを思い出した。ピアノを弾くためじゃなくて飲み物を買いに来たのだ。立ち上がった瞬間、ばきばきと膝が鳴ったのがすこしおかしかった。長らく運動という運動をしていないので関節があちこち軋んでいる。およそ十代とは思えない、痩せこけてはりのない骨の浮いた肉体は生地の厚いオーバーサイズのスウェットによって少しだけ健康的に誤魔化されている。けれど血色の失せた爪と骸骨のような手はわたしの頭と顔と同じく、わたしの不健康をこれでもかと表していた。その手で椅子をピアノの下に押し入れて自販機までの十数歩を歩き出す。無人の休憩スペースの中のテーブルの間を縫うようにして移動する。持ってきた財布は演奏中ピアノの端の方に置いていた、今は手の中に握られている。百円玉を一枚選んで投入口に入れ、わたしはレモンティーのパックジュースのボタンを押した。自販機の中でいくつかの機械が動き、がこん、と取り出し口に聞こえるまで少し時間のかかるタイプの自販機。その数秒を、欠伸をしながら待った。しかし突然、欠伸は途切れることになる。後ろから声がかけられて驚いてしまったのだ。

「ねえ、さっきピアノ弾いてたのって君ですか?」

 すっかり無人だと思っていた休憩スペースに、もう一人人がいた。弾き終わってから自販機でジュースを買っている間のどこかで現れたという感じだろうか。同じくらいの年頃の少女。とても髪が短くて、見ていて心配になるほどの痩身。

「ちょっとこのへんフラフラしてたら聞こえてました。君も聞きませんでしたか?ピアノ」

 ちょっとこのへんをフラフラしていた割にはわたしに足音は聞こえなかった——そのはずだ、少女は裸足だった。

「またわたしの勘違いか幻聴かなあ——」

 少女は頭を抱えてうーん、と唸った。幻聴じゃないよ、わたしが弾いてたから、と言葉にすると少女は安心したような顔で「そうだったんだ」と言った。

「上手だね。習ってたの?」

 いいや、お父さんのを見て覚えたの。短く返すと少女は「家にピアノがあったの?」と聞いた。うちにあったのは本物のピアノじゃなくて電子ピアノだけどね。と答える。少女はそっか、と短く返事した。短く話題が途切れたのでわたしは自販機の取り出し口からジュースを取り出した。少女は自販機の順番待ちもしていたようで、小さながま口から小銭を何枚か取り出しはじめた。

「そっか。君はお父さんがピアノを弾くような上品で教養ある人に育てられたんですね——羨ましい限りです。私は本を読んでいると殴られたので。学校に行くとぶたれたので。無知じゃなくなるなら死ねって何度も何度も」

 少女が着ているのはまだ寒いというのに半袖のTシャツとジャージのハーフパンツだった。そして露わになっている腕や足には幾つも痣や傷が見える。小さな火傷や大きな内出血。凄惨な虐待のあと。特に右手の指先は潰れていた。

「お父さんはわたしが永遠に無知で無垢な少女人形だと勘違いした愚かな大人でしたよ。それはそれは愚かでした。お母さんは死にました。わたしを産んだことが罪と言いましたかね、いや、わたしの存在が母のこれまでの行いに対する罰だと言いましたかね、何はともあれ首を吊って死にました。お母さんも愚かですね」

 その口には躊躇いがない。見ず知らずの人に何を語っているんだろう——ここはそういう人たちの集められる病棟で、そういう話が自己紹介の代わりになるかもしれないけれど。

「だから君みたいに教養を許された豊かな人間を見ると恨みがましい。ピアノはお上手でしたがね。あはは」

 ジュースにストローを刺しながら言う。わたしは水滴がついた紙パックを持ったまま話を聞いていた。彼女がこの場で取り乱さないことを祈りながら。

「なんだか嫌な話しちゃいましたね。じゃあマイナスにマイナスかけてプラスにしましょう。君は何があってここにきたんです?知りたいなあ、君のこと」

 スタスタと一番近い二人がけのテーブルに歩み寄り、その椅子の片方に着席して裸足の彼女は言った。どうぞ座ってよ、と。わたしは誘導のままに向かい合わせの椅子に座った。ジュースを紙パックから直に喉に一口分流し入れて、わたしはざっくりかいつまんで自分の話をした。


*****


「はあ。なるほど。君も私と似たり寄ったりなんですね。はあー。虐待っても色々あるんですねえー、ためになります」

 話し終えたすべてを総括するように感想を述べた。なんとも思ってなさそうな顔で。わたしはこの珍妙な裸足がなぜわたしの話を聞きたがったのか疑問だったが、おそらくこの人は「興味本位」とか言いそうだ、と思ってその疑問を口にするのをやめた。二人きりの休憩スペースに差し込む日光はもう夕暮れの色だ。わたしはこれ以上何も言いたくなくてただ黙った。すると少女はそれを察したのか、また話しはじめた。

「不思議です。君のことを満たされた人間だと思ってましたがキミも案外可哀想サイドの人間なんですねえ」

 わたしは自分のことを可哀想だとは思ってないけれど。そうふんわり言い返した。この人はきっと初対面の人との距離の掴み方が分からないタイプの人だ。悪い人ではないんだろうけれど。

 裸足の彼女は空になったジュースのパックを折りたたんでゴミ箱に投げ込んだ。そして立ち上がって、「じゃあ今日はこの辺で。また機会があったなら会おうよ。君が弾けるもう一曲ってやつ聴かせて」とゆっくり言って去っていった。裸足なので足音がしない。私はその背中を見送った。最後に名前を聞きたかったので呼び止めようと思ったけれど、なんだかそれがいけない事のように思われて無言で去っていく小さな背中を見ていた。

 そしてすれ違うように慌ただしい看護師さんが二人、休憩スペースに入ってくる。なんだか久しぶりに音のある人間を見た気がして、安心をおぼえた。看護師さんはこちらに向かってくる。会釈したけどそれどころではなさそうな形相でこちらを見ている——

「あの、君さ、今たつみちゃんとお話ししてたよね?」

「たつみちゃん?」

 真っ向から聞き返してしまう。いけないことのような気がして聞かなかった名前をこんなにあっさり知ってしまった。何かが欠けたような感覚。

「そう、巽ちゃん——あの子、へんなこと言ってなかった?暴れたり泣いたりしなかった?」

 そんなことは何も、と。彼女はただ生い立ちを語って、わたしのことを聞いて、そして今どこかに行っただけでした。そう答えると看護師さんは二人顔を見合わせて、「そうだったの。ごめんね、ありがとうね」と早口に告げて慌ただしく去っていった。そういえばさっきから廊下が騒がしい。巽という裸足のあの子が何をしたのかは知らないけれどもしかしたらわたしは騒動の片棒を担いでしまったのだろうか。わたしは次の日の朝、診察に来た担当医に事の顛末を聞いた。

 巽という少女はここではない閉鎖病棟から脱走してきたのだという。理性的で知的な物言いはときに激しく反転し、狂乱に陥りながら自傷行為を続けるのだと。そして彼女の持つ多くの傷の中で一際目を引いたのがその削れた人差し指だったが、それは想像以上に恐ろしいもので——

「あの子ね、指の皮膚を噛み切って血を出して壁や床に文字を書くんだよ。文字というか物語を。あの子は鉛筆を預けると自傷行為をする可能性があるから書くものを預けられないから、そんなことになっていて僕たちも手を焼いていてね」と語って聞かせてくれた。病院の内部事情?個人情報?をそんな風に聞かせちゃっていいんですかと聞いてみても「このことは内緒」とやさしく口止めされて終わってしまった。そして担当医は続ける。

「巽が昨日脱走したのは飛び降りるためだったらしいんだけど、どうしてかそれをやめて君と話をしていたらしい。とんだきまぐれの幸運だよ。あの子の気紛れに付き合ってくれてありがとう」

 そう言って忙しそうにわたしの個室を出ていった。ここにはわたしが気づかないだけで忙しい人が多いらしい。わたしは年齢だけなら高校生相当なのでそういう忙しさに少し憧れがある。白い天井を見上げたり院内を徘徊して過ごす毎日はそれなりに退屈だ。だから昨日は少し楽しかった。けれどきっと彼女との再会は望めないだろう。

 窓の向こうはしとしとと雨が降っている。雪が雨に変わる季節の暗くて重たい雲の雨。花を潤すにはまだ早い。気の速い梅の蕾がようやく花をつけたばかりだ。曇りの日は蛍光灯の濁った白さが際立ってあまり好きになれない。わたしはベッドに身を投げ出した。鍵盤の鈍い光沢とモノクロが恋しくなった。

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