Neon Night

あめすきとおる

Neon Night

00

大学に遅くまで残る日々が続くようになってから、毎夜私は不思議な子供とすれ違うようになった。大人も寝静まった時間の、閑静な住宅街で。深い春の淵で。

 すれちがいざま、香水らしき甘い匂いがふわりと漂う。フリルたっぷりのスカートや、襟と袖口がレースで縁取られた光沢のあるブラウス。仰々しいほど「女の子」を模ったその姿を一層完璧にしている、少しヒールの付いたリボン付きのストラップシューズと白いタイツ。街灯の光の下で一度だけ見たその顔は、均整のとれた美しいものだった。そのメトロノームのように一定の歩調で歩く姿をああ、可愛らしいな、と思う一方、纏う雰囲気に不思議な違和感もあった。完璧なまでに少女、綻びない少女。そこから感じ取ったのは執着心と不自然―不自然なまでに「完璧」に執着しているような。完成度に執着しているような異質さ。 

けれどまあ、人様の格好に文句を付けるのは筋違いだとして、その感覚を意識しないように心を保っていた。ただすれ違うだけの子供だと、知らん顔をしていた。こんなに遅い時間におめかしして出かけるなんて何の用事があるんだろうか、もしかしてウリかな、なんて知らない子どもの心配をしたところで、私にできる事なんて何も無いのだから。

私はいつだって無力なのだ、と鈍い自己嫌悪が氷の針のように胸を刺した。


01

 ある日、また同じように深夜の住宅街を歩いていた。茶色く薄汚れたスニーカーで、静かにアスファルトの道をゆく。明日は一限から授業なのにまた終電になってしまった。せめてシャワーだけでも浴びたいと帰路を急ぐその途中。

 またあの子供を見つけた。

ただ、いつもと様子が違う。

 春になると変態は増えると聞く。その類の人間に捕まってしまったか。しかしスーツの男にも理性はあるらしく、寝静まった住宅街の真ん中でその子供を怒鳴るようなことはしなかった。しかし酷く苛ついているようだったし、子どもは怯えているようだった。流石にこれは黙っていられないか?でも私が首を突っ込んだところで、あの子の因縁が拗れるだけなのだ。可哀想だけど、素通りさせてもらおう。そう思って、俯いて足早に通り過ぎようとしたとき。

「おねえちゃん、たすけて!」

 その子供が、私を呼び止めた。芯のあるソプラノボイスは、住宅街に満ちる静寂を割るように響いた。

「この人、わたしに乱暴しようとする!」

「騒ぐなガキ……!」

 男は子供の口を塞ごうと顔に手を伸ばすが、その手を振り払って子供はこちらに駆けてくる。そして私の背後にぴったりとくっついて、震えていた。そして男に聞こえないくらいの小さな声で言った。

「ごめんねお姉さん、話を合わせて」

 訳あり、らしい。私は小さく頷いて、男に向き直った。

「私のひかりになんの御用ですか、警察を呼びますよ」

 妹を守ろうとする姉の毅然とした態度、を演じる。すると男は、

「姉なら兄妹の教育くらいちゃんとしろ!淫売に育てやがってよぉ……」

 そう吐き捨てて、フラフラと歩き去っていった。その姿を見て、子供は

「おねえちゃん、ありがとう」

 と囁いた。甘い香水の匂いを、背中から感じる。私はその子供に、出来る限りのやさしい声で言った。

「とっさに変な名前で呼んじゃってごめんね。でも何があったのか分からないけれど、こんな遅い時間に出歩くなんて、お父さんとお母さんは?」

 すると子供は私に向き直って、「海外出張中です」と答えた。その表情は諦めたような、仄暗い微笑みだった。ビューラーとマスカラで作った長く整った睫毛は、街灯の光を受けて、塗られた薔薇色の頬に影を落としている。出で立ちの人形然とした、どことなくアンニュイさを漂わす姿。私はその姿に、同情と、心配と、あろうことか。

 ほんの少しの劣情を抱いてしまったのだ。

 美しいものを賛美する気持ち、耽美の気持ち、それに近づいて触れてみたいと思う気持ち。

 その気持ちを罪深いと反省している間にも、その子供は口を開いた。綺麗な色のリップを塗った唇だった。

「ところでお姉さん、助けていただきありがとうございました。つきましてはお礼をしたいのですが、私、体しか出せるものが無くて」

 そう、妖艶に笑って囁く。

「好きにしてもらって構いませんよ」

 この子はなんてことを初対面の人間に言ってしまえるのだろう、とたじろぐ。そんなわるいこと、いけないこと、出来ないに決まっているのに。

 でも。

途端に心拍数が上がる。それは自分が真っ当な大人じゃないことを証明しているようだった。私のセクシャルは、性自認と生物学上の区分が一致するタイプだし、異性愛者だ。けれど、こんなに可愛い、およそ中学生くらいの子供を好きにしていい機会なんてこの先二度とないだろう、と思うと。なぜだろう、好奇心と秘めた獣性が一気に感度を上げる。普段そういう関係の人が居ない分なまじその熱は厄介に燃え上がって、触れてみたい。撫でてみたい、と胸が痛くなった。体は正直、というやつだ。

 けれど理性だって働く。そんなの犯罪じゃないか。それにこの子のためにもならない。体でお礼なんて、そんなの幼いうちから、いいや、いくつになっても覚えるべきではないのだ。

「そんなに簡単に自分を捨てちゃだめだよ……」

 私は絞り出すように答えた。消え入りそうな

でも触れてみたい。本人が良いって言っているし。

「おねえさん?」

 好奇と劣情と理性と常識と。その逡巡の果ての私の答えは、およそ最低と呼べる代物だった。

「あー……私、明日早いから今夜はダメ。でも明日の夜、君さえよければ夜八時くらいにここで待っていて。勿論逃げてもいいんだよ」

 最終的な選択は子供に任せるなんて、私、大人としてどうかしている。けれどどうしてもこの子供を放っておけない気がした。なんて言いながら自分の生々しい部分が興味の鎌首をもたげているのだ。いい大人になれない。そもそも私は大人ですらない、まだ学生なのに。

 すると子供は、またその妖艶さでもって、私を誘った。

「優しいんですね。分かりました。お姉さんこそ、逃げないでくださいよ」


02

 結局次の日の夜八時、私達は再び出会うことになった。今日の服装は赤いチェックのスクールスカートにブラウス、赤いリボンにピンクのカーディガン。足元はローファーと黒いタイツだった。典型的な制服姿だ。

「これなら遅くまで遊んでも、生徒と家まで送ってくれる塾の教師だって言い張れるでしょ?」

 子供はそう言って、肩まで伸びた黒髪を弄りながら、昨日とはまた違うあどけない笑顔を見せた。ああ、こういう笑い方もできるんだ、と仄かな安心を覚えた。

「ああ、うん。今日も可愛いね」

「今日『も』ってことはいつも見ていたんですか?」

「ああ……すれ違うときに、ね」

 私はなんだか悪い事をしたようで、しどろもどろに答える。

「ふふ、お姉さんのえっち」

 やさしく高い声。そしてその子は私の手に自分の手をするりと伸ばして、繋いだ。瘦せ型なのだろううか、その手はあまりに小さくて骨の硬さを感じさせた。

「今日はたくさん遊びましょうね。穴場があるんですよ」

 その声に聞きほれてしまう。手を繋いだまま私たちは、繁華街の方へと歩き出した。街はまだまだ眠らない。歩いている途中は、とりとめもない世間話をした。お互いの氏素性にはあえて触れないように、子供は気を使っているようだった。例えばこの前見たテレビがどうだとか、かわいい服がどうだとか。視界が明るくなり、繁華街が近づくにつれて、子供のテンションは高くなってきた。つないだ手の温もりがより強くなるのを感じた。幼さの持つ可愛らしさ、いじらしさ、そういうものを理解してしまったような。心の中にちくりと罪悪の針が刺さった気がした。今は春、桜は満開を迎えている。攻撃的なネオンサインに透かされる桜の花弁は、嘘のように美しかった。

「そ、そのまえに、ちょっとだけ喋らない?おごるから」

 私は思いつきで声を出した。いきなりそんな、と罪悪感が重くのしかかる。それをどうにか払拭したくて、一度カフェに入ることを提案した。正直、あたたかな手を繋げただけで、他人の熱に触れたかった私の心は満足していた。だから今日はもうお喋りだけして、お礼はお終いにしてもらおう。そう思って、私はチェーン店のカフェの看板を指さした。

「お姉さんがそうしたいなら、いいですよ」

 答えて微笑んだ。いつも微笑んでいるのに、目はあまり笑っていない。それがこの子の処世術か、と思うと胸が痛んだ。


 生クリームが盛られシロップがたっぷり混ぜられた、コーヒーとしての原型が留められていない飲み物を注文して、トレイに乗せられたそれを運び、二人掛けの席に着く。橙色の照明の、穏やかなジャズがBGMに流れる店内は閑散としていた。窓際の席の私たちは、忙しなく往来を行き来する人々を横目に、それぞれの飲み物の赤いストローに口を付けた

「わー、美味しいです!お姉さん、ありがとう」

 無邪気さの中に、生存戦略としてのあざとさと強かさを隠したような笑みと声で、子供は喜んだ。手の甲まで届く長袖のカーディガンも可愛らしさに拍車をかける。

「そっか。季節限定のやつでよかった?」

「んー、可愛くて美味しければなんだっていいですよ」

 相変わらず表情一つ変えずニコニコしている。長いスプーンで飲み物を混ぜる指には、桜のようなペールピンクのネイルが施されていた。

「爪、可愛いね」私は思いのままを口にした。

「でしょう?お気に入りの色なんですよ。」

「うん、可憐で、乙女って感じでいいと思う」

 すると子供は、左手の小指だけをすっと差し出して、言った。

「この指だけラメ入りの水色なんですけど、何をモチーフにしたかわかります?」

 にやにやと、試すように、探るように。私は小指を見つめて、「ヒントは?」と聞いた。

「ヒントですか。うーん、『天体』?」

「……彗星?」

「残念、外れです」

 今日で一番楽しそうな顔をした。私は答えと解説を求めると、その子供は飲み物を一口飲んでから、うきうきした声で話し始めた。

「これは『ペイル・ブルー・ドット』です。無人探査機ボイジャーが撮影した地球の写真なんですけど、真っ暗のなかに水色の点があって。それは地球なんです。その写真はとても綺麗で。このネイルはおしゃれじゃなくておまじないです」

「おまじない。何の?」

「私の哲学のおまじないです。孤独に効くおまじない。孤独のまま強くなるためにボイジャーに祈るおまじないなんです」

「孤独」

 予想外の答えに、思わず聞き返す。

「ほら、だってボイジャーってひとりぼっちじゃないですか。たった一人で広い宇宙を軌道に沿って飛んでいる刹那の人間の被造物です。それに自分を重ねてしまって、なんだか同情してしまってですね。ボイジャーが見た宇宙の断片、ボイジャーの目(カメラ)を借りることで何かが癒えていく気がして。それで」

 私はただ、いち個人の切ない哲学に、聞き入っていた。孤独のまま強くなること。その決断をその幼さで強いられること。胸に重たい痛みがぎゅっと伸し掛かる。私には何もしてあげられないのに、何かしてあげたい気持ちが膨れる。苛まれる。

「そっか。凄い事考えているんだね」

 月並みな答え、子供のあらゆる結果と成果を才能という言葉で一絡げにする大人たちと同じ答えしか返すことが出来なかった。私の声は震えて、言葉を無理やりに継ぐ。

「私、君の事放っておけない。なにか私が力になれることがあったら、したいなって思う」

 思いあがった大人だと思われても仕方がない。すると子供は暫く考えてから、言った。

「じゃあ、やっぱり今夜一晩一緒にいてください」

「そういうことじゃなくて」諫めようとする私の口を手で遮って、続けた。

「お願い、巻き込まれてください。私にあなたの清潔な定規を当てないで。私は、ただ」

 その表情はひどく傷ついたような―見開かれた目に、薄く涙を溜めていた。私の口を塞いだ手をどけて、絞り出すような声で、言った。

「私はただ、だれかの体温を肌で感じたいだけです」

 


03

 その勢いに押されてしまって、そこまで言うなら、と結局一晩を共にすることに決めた。でも絶対なにもしない。ただ夜通しお喋りするくらいにしよう、と心に決めた。

「おじさん、二階借りますね」

 そして辿り着いたのは、ネオン街にひしめき合う古いビルの一つ。重い黒塗りの扉を開けた一階はバーだった。薄暗い店内に、お客さんは一人もいない。いろんなお酒の瓶とグラスが並んだカウンターには初老の男が一人、煙草を吹かしながら立っていた。

「あいよ。お前も飽きないね。初めて見るけどそいつも客か?」

「いいえ、サービス」

 慣れた会話だな、と思った。この子にとって売春は日常。それなら決して私一人がこの子を狂わせたわけではないのだと、罪深くも罪の意識が軽くなった。

「さ、行きましょ。ここの二階は僕の仕事部屋になっているんです」

 今、会話に生じた僅かな違和感の正体を突き止められずに、階段に足を踏み入れた。中学生くらいの年齢で既に仕事部屋があるなんて、この子はだいぶ荒んでいるなあ、と、階段を上る音に同調して同情が強くなった。やっぱり二人きりになったら、こんなことやめよう、と諭すべきだろうか。しかしそんな理性もつかの間、子供は私の耳にやさしく、ふうと息を吹きかけた。熱くてくすぐったい。このとき私の中の理性のたがに罅が入った。


04

 蛍光灯が付かない、埃を被ったブラインドの隙間から漏れる隣のビルのネオンの光だけが光源の一室に通された。子供は、安っぽい机の上の、ランタン型の懐中電灯のスイッチを入れ、白く埃の積もったベッドに腰かけた。

「ここ、前はマッサージ屋だったんですけどオーナーがやらかして夜逃げしてしまったんです。どうぞ隣に座ってください。マッサージ屋なのに不自然にベッド大きいでしょ?そういうことですよ」

 笑う子供の表情は、やっぱりどことなく物憂げで艶美だ。私は言われるままに隣に腰かけた。すると子供は私の、ジーンズを履いた太腿を人差し指でなぞりはじめた。

「お姉さん、こういうことは初めてですか……?」

「勿論。この化粧っけの無さを見ればわかるだろ。煙草だけが友達の陰気な大学生だよ、恋人を作る余裕のない」

「ふふふ、タバコ吸うと頭悪くなっちゃいますよ。あと高いし、ね」

 子供はカーディガンを脱ぎながら、胸元のリボンを見せつけるように解きながら、甘い声で言う。

「個人の趣味嗜好は放っておいてほしい」

 そう言うと、クスクスと笑って、

「だって私を心配するのに自分の事は疎かで可笑しいんだもん」

 そう言った。そして、細い指で、白いシャツの上から自分の胸をなぞる。私はなにか目に毒な、いけないものを見ている感じがして思わずくぎ付けになってしまった。

 そして、その時。違和感に気づく。

「触るのと触られるの、どちらがお好みですか?」

 吐息の多い声で誘うように囁かれて、息が、止まる。それは緊張と、もうひとつ―


 子供―女の子というにはあまりに平らな胸板、骨ばんだ細い体。硬そうな骨の肩とくっきりした胸鎖乳突筋と鎖骨―これはまさか。

 私は、息を呑んだ。そして、

「触れてもいい?」

 そう、優しく、静かに聞いた。その子供は「いいですよ」と答える。私はもたつく指で子供のブラウスを脱がせてゆく。密やかに、暴くように、柔く。そうして薄暗い部屋の中、露になったのは。

 平らでやせ細った、少年の、上半身だった。

「君、男の子……」

 可愛い子供は、もとい少年は、とても愉快そうに笑って答えた。

「はい。僕は正真正銘、男の子です」

 そして驚いている私の顔を両手でやさしく挟み、口を塞ぐようにキスをした。


05

「どうですか?驚きましたか?僕、可愛いでしょう」

 性別への驚きと、ファーストキスを奪われた驚きと、背徳感で、動悸が止まらない。そして、すれ違うたびに感じていた違和感の正体にたどり着いて、全てが腑に落ちた。

 あの完璧すぎる少女装は、女装だったのだ。女より完璧な女の装い。本物より本物らしい偽物。独特の違和感、そして健気さは、全てはここから来ていたのだ。

「うん、可愛いと思う……」

 そういうと少年は満足そうに微笑んで、はだけたシャツで両手を広げた。

「さあ!女の子だと思ったら男の子でした!どんな気持ちですか?失望ですか?いらだちですか?めちゃくちゃにしてやりたくなりましたか?それとも可愛いならいいですか?」

 その微笑みは凄惨で自虐的にも取れた。白いシャツの下の肌にはいくつも痣や切り傷がある。そういうやり方でされるのが好きなのか、あるいは自分でしたのか。なによりもその少年の脆さが急に切なくなって、私はほとんど情動的に少年を抱きしめていた。ほんとうに薄い上半身。優しく触れないと折れてしまいそうなほど。体温で香る香水の、甘くて苦いカラメルみたいなフレーバーをダイレクトに感じながら、背中に触れる。背骨の凹凸が分かってしまう悲しさ。花に触れるよりも丁寧にその背中をなぞっていく。腰の薄さ、細さ。浮いたあばら骨。なるほど、君にたくさんのフリルが似合うのはこれを埋めて隠すためだったのか。

 あまりに悲しかった。

 私にしてやれることと言えば何もないのに同情だけは一人前な自分が嫌だった。でも抱きしめて、少年の拍動を感じていると、不思議な気分になってくるのだ。少年の鼓動が、空っぽの私のなかに響く。それはわたしのなかの孤独の深海にピンガーを打つような感覚。何が満たされないのか、空虚の形が浮き彫りになるような。満たされる感覚。小さいときにこうして抱きしめてもらったときに感じたものに近いようで遠い。ちいさいもの、子供をかわいいと思ってしまう女性の本能と呼んでしまえば恰好がつくだろうか。

 でも。こんな醜い情欲、美化せずとも、皆まで言わずとも正体は知れている。

 あんまりにも都合が良すぎる。でも。私は誰かを抱きしめたかったのかもしれない。それをこんな形で満たすことに酷い罪悪感をおぼえる。少年への申し訳なさと、少年への情と、それでも止まない幸福感で胸がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。

 少年は私の突然のハグに混乱したようだが、すぐにこちらの意図を汲んで、抱きしめ返してくれた。そして「柔らかいですね」と囁いた。

「お姉さんは優しいんですね。同情なんてしなくていいのに」

「言ったろ、こんなことは初めてなんだって……」

「僕からのお礼なのに、お姉さんがこんなんじゃ、お礼になりませんね」

 私は少年の、腹の切り傷の跡を撫でていた。きっと痛かったんだろうと思って。少年は一度抱き合う姿勢から離れて、

「ああ、これはずっと昔に自分でやったんですよ。自傷行為です。バカみたいでしょ?誰にも内緒の傷のはずだったのに、今じゃ同情買いに思われて……」

 そう言った。少年の声はすこし震えてくぐもっていた。長い睫毛を伏せていた。

「痛かったね」

 私はそう絞り出すしかなかった。少年は顔を伏せて、掠れて涙ぐんだ声で言った。

「お姉さん、同情するなら触って。優しくして……」

 私は胸に芽生えた罪悪と、少年への劣情のままに、少年の腰にそっと手を伸ばしていた。子の子は無償の温もりを求めていると思うと、答えずにはいられなかった。

「わかった。優しくするね」

 初めてだけど、そのやり方が覚束ないけれど、その肌に触れていた。少年はベッドのわきの机に手を伸ばして、ランタンの光を消した。

06

 ネオンサインの毒々しい光に影を作る少年の肋を、指先で優しくなぞる。紫色の影に包まれた白い肌。きちんとした光のもとなら百合の白にも引けを取らないんじゃないかと思うほど。

「君、外には出てるの?」

「学校はたまに。夜しか出歩かないので」

 スカート姿の少年は、骨ばんだ痣だらけの上半身をあらわにして、ゆるりと凭れている。顎を肩に乗せて、深い息をしていた。たまに耳に息が掛かる。やっぱりくすぐったい。流れのまま、筋の浮いた首筋に軽いキスをすると、すこし肩が跳ねた。少年も私のシャツの胸元を開けて、何度かキスをした。

「ごめんね貧相で」

「いいえ、温かくて柔らかいです。あと、タバコ、吸うんですね」

「嫌だった?」

「いいえ。好きですよ。香水とタバコはお母さんの匂いだったので……」

 今度は少年の方からハグをした。胸元に顔をうずめて、深呼吸している。思わず頭を撫でていた。香水と煙草の匂いが母親の匂いと聞くと、少年のバックボーンの不穏さが浮かび上がる。しかし今は目の前の温もりを愛でることに精一杯だった。少年は、私の、鎖骨まで伸びた髪を手櫛で梳いた。

「お姉さん、ほんとに乱暴しないんですね」

「できないよ、そんなこと」

「お姉さんになら何されてもいい気がするのに」

「だからといって酷いことはできない」

 私は少年の頭を撫でる。少年はそれに答えるように、頬にキスをした。

「しかしこの町の夜はうるさいですね」

 お互いの指を絡ませて意味深に動かしながら、少年は呟いた。確かに春の乱痴気や車のクラクション、客引きの声がたまに会話の邪魔をする。

「静かならよかった?」

 すると少年は静かに首を縦に振った。

「あなたの声がよく聞こえたら良かったのに」

 そう言われて照れくさいのを、ハグで誤魔化した。そしてそのまま、目線が合う。少年は熱を帯びた瞳で私を見つめて離さない。私もその目に引き込まれて、目が離せなかった。

「ねえ、キスしてください」

 その一言をはじまりに、本格的に理性や建前がどうでも良くなりだした。ただ互いに触れる、その熱。どくどくしい都会の騒音をBGMに、それだけを弄る、求める。

「お姉さん、抱いてください」

「それだけはしない。けど、このまま触れていていい?」

 もう犯罪のラインを大幅にオーバーしているが、これは合意なのだと自分に言い聞かせることで、そしてせめてもの罪滅ぼしに触れあいだけに留めている。この努力を無駄には出来ず、しかして少年の希望を無為にすることは出来ず、私はまた少年を抱きしめて、背中をさすって言った。

「寂しくて愛されたい気もち、分かるよ。だから、せめて私は、君を傷つけるようなことはしたくないんだよ」

 私、本当に狡い奴。大人になりきれない、酷い奴。この子の行く末を守ってやることなんてできないのに、自分だけはいい人みたいに振る舞う最低な奴。でも演じたかった。優しい人を。それで互いに救われるなら、この都会の底みたいな紫色の部屋で、いくらでもいい人を演じられると思った。

 いつしか少年は泣き始めた。胸の上で、声を殺してすすり泣く、震える背中を撫でることしか出来なかった。私は「大丈夫だよ」「いいんだよ」と繰り返し答えた。時々「おかあさん」と呟く声が聞こえて、ああ、この子が数々の知らない大人に求めたものは母性だったのかと、ようやく理解した。しゃくりあげる音が寝息に変わったとき、都会の中心にも一瞬の静寂が、絶え間ないヒトの活動の一瞬の隙間が訪れた。

07

 私は目が覚めた。硬いベッドで寝た、少しの気怠さ。隣には少年が、学ラン姿で座っていた。私の乱れたはずの恰好は少年が直していてくれたようで、来たままのときの格好になっていた。

「おはようございます、お姉さん。朝になっちゃいました。僕は女装を夜だけと決めているので着替えました」

 ブラインドは開けられていて、都会のくすんだ朝日が窓から燦燦と降り注いでいた。朝日の下で見た少年はメイクを落としていた。それでもやはり端正な顔をしていて、フリルのない姿はやはり少年だった。

「おはよう……」

「昨日はお楽しみいただけましたか?」

 天使の微笑みで、なんてことを言うのだろうかこの少年は。

「こら、そんなこと言わない」

 二人で顔を見合わせて笑った。そして私は、そろそろ別れ際だろうと思って、少年にどうしても聞きたかったことを聞いてみる。

「ねえ君はさ、どうして女装するの?そのままでも十分魅力的なのに」

 すると少年は少し考えてから、言った。

「僕はもしかしたら、女の子になりたいのかもしれない」

 その言葉は、はじめの一口は奇妙で、でも飲み込むにつれて苦しさを伴う劇薬のように響いた。

「女の子に、母になれば父に愛されると思ったり、可愛さで母にもっと愛されたかったと思ったりすることが多々あるんですよ。僕のこんな行為は、それ由来かもしれない」

 愛情の欠乏を、目の当たりにしたら。ひとは何て声をかけて、どんなふうにするのが正解なのだろう。私は残酷な問いかけに、答えられなかった。

「あなたになら言ってもいいかな」

 少年はベッドサイドの机に腰かけて、私と向かい合った。

「笑わないで聞いてほしいんだけど」

「勿論」

 私はなんとなしに姿勢を正す。少年は恥ずかしそうに下を向いて、言った。

「本物よりも偽物のほうが良いって思ったことある?文学にはよく出てくるテーマだけれど。僕はそんな気持ちで、少女の形をしているかも」

 私は少し考えて言った。

「綺麗はきたない、きたないは綺麗、みたいな……?」

「あはは、マクベスだね。それも分かるかも。でもちょっと違う。汚い本物より綺麗な偽物のほうが、ヒトは好きでしょ。だから僕は完璧な偽物になりたかったの、かも。庇護欲の湧く、愛したくなる、少女の偽物に。でも愛されたくて、そう、体を売っている以上は絶対にバレるんだ。だからバレた時の人の失望、騙されたと思ったひとの暴力って、正しいぶん残酷だなって。僕を見てくれで好んで中身が男の子だった時、大体の人は男女問わず僕を叩いた。あなたが助けてくれたときのサラリーマンだってそうだった」

 足をぶらぶらと動かしながら、滔々と、独白。その響きは今まで聞いたどんな声よりも美しかった。

「偽物を偽物とわかって、なお愛してくれる人に会ってみたかったかも。女装した男の子が趣味の人もいたけれど、そうじゃなくて。性愛じゃなくて、何て言ったらいいかな。そう、たとえば、親みたいに。子供のかわいい嘘を叱って、嘘ごと愛してくれるひと」

 そして、笑った―呆れたように。

「そんなひと、都合が良すぎますよね。結局僕は、あなたを悪い人にしただけでした」

 そしてその美しい独白は―ボーイソプラノのアリアは、沈黙した。そしてつくえから飛び降りると、窓を開けた。途端に朝の世界のあらゆる音響が耳に飛び込んできた。

「ねえ、お姉さん。僕の前でタバコを吸ってみてくれますか。一応副流煙があるとおもうので、窓際でお願いします」

 私はその突然のお願いに首を傾げた。すると少年は、さらに言葉を重ねた。

「母との思い出は、タバコを吸う母の横顔を眺めるくらいのものでした。ねえ、子供にとって親は神様なのですよ。なので、その小さな神話の再演を、最後にお願いしたいのです」

 少年は、なにか愛おしいものを懐かしむ笑みを浮かべている。昨日見た、張り付いた微笑みとは少し違う。清らかで、見惚れるような表情だった。

ふたりの間の沈黙に街の雑踏は容赦なく割り込んでくる。そして風がひとひらの桜の花弁を、淀んだこの部屋に届けた。それは朝の光の澱のように、孤独に清廉に輝いていた。

「いいよ」

 私は鞄をまさぐり、ピースを咥え、火を付けた。吸い込むたびに蠍座の心臓のように、赤く煌煌と脈打つ。吸って、吐く。そして汚れた都会の大気を更に汚す。

「この感じ、懐かしい」

 少年は呟いた。私は微笑んで、煙草を唇に運んだ。

「ありがとうございます」

 少年は何か眩しいものを見るような瞳で私を見つめていた。私は悪い人になってしまったけれど、それは社会にとってで、この子にとってはいい人かもしれない。全く、世界って不可解だな、と、そんな気持ちで私は煙を吐いていた。

 吸い終わる。紫煙の残る部屋の窓を閉めた。それはいけない思い出に蓋をして鍵をかけるような気分だった。そして埃だらけの部屋を、二人で後にした。階段を下りてゆくと、昨日のおじさんが、「遅かったな」と低い声でぽつりと言った。昨日見た灰皿は空だったのに、今は色んな銘柄の煙草でいっぱいだった。

「久しぶりに良かったんだよ」

 少年は臆面もなく言い返す。私は恥ずかしさで顔に血が上るのを感じた。

「誤解です」

「そいつの部屋に入って誤解も何もあるか。全く、純情地味な姉ちゃんかと思ったぜ」

「おじさん、そこまで」

 少年は言った。おじさんの笑い声を後にして、私たちは店を出た。

朝の光は、散り際の桜を健やかに照らしていた。外気は思っているより爽やかで、少年と私の髪をそっと揺らしていた。青空が広がって、夢のように過ぎてゆく都会の朝のワンシーンは白く輝いていた。ドラマチックが過ぎると思うほどの別れは、散る桜の花弁が祝福しているようだった。

「じゃあ、お姉さん、さようなら。また会うかもしれないけどね」

「うん。君も」

 私は一瞬言葉に詰まる。そして、

「できる限り、自分を大切にして。なんて偉そうかな」

「あなたになら言われても仕方がない。あなたもタバコ、やめてね」

 少年は笑った。「じゃ」と、お互いに背を向け合って、さよならをした。なんというか、呆気ない、でも胸を焼くような夜だったなあ、と思いながら。一夜を共にした部屋のあるビルを、背後に、歩きだした。


08

 日焼け止めの匂いと汗の匂いが混じって、清澄な夏は呼び起される。わたしもいつかの百合の白肌に憧れて、今年は特別丁寧に日焼け止めを塗っている。今年の夏はうだるように熱い。細いあの子は倒れていないだろうか、とキャンパスの窓に広がる青い空を懐かしむ。

 少年へ。お元気ですか。 そういえば君の付けていた香水と同じものをゼミの友達が付けていたので、詳細を聞きました。それは薬局でも買える千円としないフレグランスで、本物になれないチープ加減の可愛らしい小さなボトルでした。たしかに本物に寄せて作られた偽物は、不思議な魅力と風情があるものでした。さっそく私も一つ買って、ハンカチに吹いてみました。君の匂いとは少し違う。やっぱり体温のせいでしょうか。今夜も、煙草を吸いながら、君の幸せを願っています。

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