203 ビールの泡

「そんなことできる奴、俺意外にいねぇんだよ」


 つまり佳祐けいすけ銀環ぎんかんを改造したのは藤田だというのか。

 受け入れ難い事実に、久志ひさしは言葉を失ってしまう。目を見開いたまま硬直する横で、藤田は平然とその真実を吐いた。


「金がなかったんだよ」


 いかにも藤田らしい答えだ。最悪だ。


「……はぁ?」


 絞り出すように、否定するように声を出した。


「金がないから敵に手を貸すなんて、ただのクズじゃないか。アンタ程の人なら、アルガスからたんまりと退職金を貰ったんじゃないの?」

「そんなの、とっくに使っちまったんだよ」

「だったらまだ働けばいいだろ?」


 藤田の退職は年齢によるものだ。嘱託しょくたくへの誘いも断って『のんびりさせてもらう』というのが最後の挨拶だった。


「だから仕事して金を貰ったんだろうがよ」

「ふざけるな! 相手を選べよ! どうせその金だってもうないって言うんだろ?」

「金なんて俺にとっちゃビールの泡みてぇなものなんだよ。置いといても気が抜けちまうだけだ」

「馬鹿言ってるんじゃないよ!」


 悪気もなく淡々と答える藤田に、気持ちを抑えることが出来なかった。

 自分でもハッキリ分かる程の気配が溢れて、気付いた時には彼の腕を掴んでいた。勢いで触れた松葉杖がタンと高い音を立てて床に転がると、弾みで蕎麦の汁も飛び上がる。


 音に反応したギャラリーの視線に、藤田が「やめろ」と松葉杖を拾い上げた。


「輪っか付けた野郎が、人だかりでこんなことするなよ。終わっちまったもんは仕方ねぇだろ」

「アンタが言うセリフかよ。オッサンはそんな事する人だなんて思わなかった」


 藤田は競馬が好きで、趙馬刀ちょうばとうの柄を馬の頭に見立てる程だ。仕事をしょっちゅう抜け出して、久志は彼を連れ戻すために毎度ここへ通っていた。

 いつも競馬新聞片手にラジオを熱心に聞いていたのに、予想が的中するのなんてまれで負けてばかりいたけれど、イカサマを強要してきたことは一度もない。


 佳祐の銀環がいじられているのを知った時、この世には藤田以外にもそんなことが出来る人がいるんだと驚いたけれど、彼を疑う気持ちなんて一ミリも起きなかった。

 まさかの事実に胸が苦しくてたまらない。

 両肘をテーブルに押し付けて、久志は頭を抱え込む。


「あんなの、僕じゃなきゃ気付けないんだよ」

「お前だから気付けたんじゃねぇか。それで十分だろ?」

「まさか狙ってたの? 僕が気付くだろうって……」

「どうだろうな」

「かいかぶらないでよ。僕はまだ全然アンタに近付けていないんだ。今回はたまたま運が良かったんだよ?」


 藤田は蕎麦の汁を豪快に飲み干して、久志の左手首に目を留めた。


「そんな古臭ぇ時計、まだしてんのかよ」

「……僕がこれを手放せる訳ないだろ。ねぇ、アンタは僕の敵なの?」


 佳祐はホルスだった。また味方だと思っていた相手が向こうへ行ってしまうのだろうか。


「敵じゃねぇよ。アチラさんに手を貸したのは一度だけだし、最初はそんな事させられると思ってなかったんだ」

「けど、金に負けたんだ」

「まぁな」


 藤田は「はあっ」と溜息をついて、あさっての方を向きながらぽつりと口を開く。


「お前、昔俺の前で泣きべそかいたことあるよな?」

「いつの事言ってんだよ」

「いつだろうな。やっとけって言った組み立てができなくて、朝起きたら俺の枕元に立っててよ。あの頃は楽しかったな」

「…………」


 何となく覚えている記憶は、恐らく本部に入ってすぐの事だろう。彼との記憶は楽しい事ばかりで、そこだけを拾い上げることはできなかった。


「なぁひさ、俺の残りの人生はお前に使ってやる。あの時に戻って見ねぇか?」

「えっ……?」

「財布が空になっちまったんだよ」


 罪を認めた藤田は謝りもしなかった。

 今日久志は泣き言をいう為にここへ来た。そんな未来が待っているなんて夢にも思わなかったし、GPSの件を言われたら尚更だ。


 けれど、藤田の提案を断ることはできなかった。

 今岐路に立たされているアルガスにとって、神と言われた彼の力は戦いのブーストになる。


「財布って、そんな理由? けどオッサンが罪を悔い改めるって言うなら、働いて返してよ。戦いの準備をしなきゃならないんだ。だから僕の所へ来て欲しい」

「おぅ、任せとけ。全力で働いてやる」


 藤田はニヤリと笑って、久志の背中をズリズリとさすった。

 ホルスがいつ襲ってくるか分からない。

 今から何かを始めて間に合うかも分からない。

 だから、戦いがもう少し先になるようにと祈りながら、久志は「頼むよ」と藤田に頭を下げた。



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