125 帰らなかったヤス

 天気予報で昼から晴れると言っていたのに、朝に降り出した雨は昼飯を食べた後も止む気配がないどころか勢いを増してくる。

 仕方なく駅の売店で買った傘を手に、颯太そうた修司しゅうじから聞き出した住所の地図をスマホに広げながら、彼女の事務所を目指した。


 駅から数百メートル離れた雑居ビルの一階は、どう見てもアルガスに関連した事務所とは思えない外観だ。そして中から現れた彼女も、場所とは不釣り合いな飛びきりの美女だった。


「珍しいお客様」


 颯太を見るなり、朱羽あげははそんな第一声を零す。京子と同期だという彼女とは、まだきちんと挨拶をしたことはなかった。


「俺の事分かる?」

保科ほしな颯太さんですよね?」

「当たり」


 今日は白衣も脱いでいるが、彼女は疑う事もなくそう答えて本棚の前で警戒心をあらわにする龍之介を振り向いた。彼の側には、護身用らしきさすまたが立て掛けられている。


「大丈夫よ、龍之介。彼は修司しゅうじくんの伯父さん。アルガスの医務室で働いてるの」

「あぁ、銀次ぎんじの?」

「そう。それで、悪いけどちょっと席外して貰っても良い?」

「なら丸熊まるくまさんトコ行くついでに、消耗品の買い出ししてきますね」


 ここにはアポなしで来た。だから目的は言っていないつもりだが、突然の来訪の意味を彼女なりに汲み取ったらしい。

 朱羽は覗き込むような仕草で、颯太を見上げる。


「そういう話……ですよね?」

「すぐ済む事だし、別に居て貰っても構わないけどな」

「私、先読みしすぎちゃったかしら」

「じゃあ、二人っきりって事でまったりいきますか」


 促されるままソファに座ると、龍之介が不満気な顔を張りつけながら紅茶の入ったカップをテーブルに並べた。

 この部屋に入った時から、ふんわりと良い匂いが漂っているのには気付いている。


「調度れてた所だったんで、どうぞ」

「ありがとう。突然にすまないな」

「いえ……」


 どうやら彼にとって颯太は邪魔者らしい。

 けれど龍之介はそれを言葉にしないまま事務所を出て行った。


 二人きりの空間に沈黙が起きて、朱羽が落ち着きなく瞳を動かしている事に気付く。


「二人きりになって良かったの? 彼の事怒らせちゃったんじゃない?」

「仕事……ですから」

「俺の方こそ急で悪かった。ちょっと君に聞きたいことがあってな」


 「いただきます」とカップ持ち上げ、颯太は早速本題に入る。


「私の所に来たって事は、アルガスに関する事ですよね? 資料庫に行けば良いんじゃないですか?」

「そういう事なんだけど、生憎あいにく俺には閲覧許可が下りてないんだよ。それに資料庫で引き出せる情報でもなさそうだから、君に直接聞こうと思ってな」

「そんな事、私でも話せませんよ?」


 戸惑う朱羽を「待って」と繋ぎ止める。


「君に迷惑掛けようなんて思っちゃいねぇよ。尋ねるのは一つだけにするから。加賀泰尚かがやすたか──ヤスさんの事を教えて欲しい」

「ヤスさん……」


 明らかに知っている顔をして、彼女は話したくない意思を示すように唇を噛んだ。

 銀環ぎんかんの付いた手でカップを強く押さえて、息をするように紅茶をすする。

 名前を出しただけでこの反応は、上から緘口令かんこうれいでも敷かれているのかと勘繰かんぐってしまう程だ。


 最近昔の記憶に触れる機会が増えて、ふとヤスの事を思い出した。

 浩一郎の件も含めて、アルガス解放前後のゴタゴタはまだ過去として清算されてはいないのかもしれない。

 如月きさらぎやよいの死が能力死だと聞いて、ヤスの死の真相に疑問ばかり浮かんでしまう。


 20年経って本名も忘れかけた彼の真実を、今なら聞いても許される気がした。


「俺がアルガスに居た頃、ヤスさんは仕事だと言われて門の外へ行った。そのまま死んだって聞いたが、誰かが死体を見たわけじゃねぇ。もしまだ生きてるんならと思ってな」


 もし生きてたら、会いたいと思う。ただそれだけの気持ちでここに来た。

 あの閉鎖された門の奥で、勘爾かんじや浩一郎といった先輩組ではなく歳の近い彼とは良く話をしたものだ。


「優しい人だったんだ。生死だけで良いから」

「私以外で聞ける人は居ないんですか?」

「アルガスん中で嗅ぎ回ってるなんて噂されたら困るんだよ。なんなら交換条件出して貰っても良いんだぜ?」

「交換……」


 朱羽はパッと目を開いて、満更でもない顔をする。

 そんな取引を嫌がられるかとも思ったが、案外シークレットの壁は薄いのかもしれない。


「けど、さっき貴方は彼を死んだと言ったわ。それが全てなんじゃないんですか?」

「アルガスの情報は信用できねぇんだよ。俺は、正確な事実が知りたいんだ」

「それは……」


 朱羽は何か言い掛けた唇を一度結んで顔を起こした。


「いいわ。それ以上聞かないって約束してくれるなら、本郷庵ほんごうあん鰻重うなじゅう二人前──私と龍之介の夕ご飯で手を打ちます」

「お安い御用だ。松でも何でもとってくれりゃあいいよ」

「いいんですか?」

「あぁ、勿論だ」


 脳みそに絡まった混濁こんだくした闇を取り除けるなら、安いものだ。


「遠慮するなよ。それで、ヤッさんは生きてるのか?」

「NOです」


 大昔、ヤスは死んだと告げられた。だから初めからそれを知っていた筈なのに、きっぱりと告げた彼女の答えがショックだった。


「俺は心のどこかで、あの人が生きてると思ってたんだな」


 空の棺桶かんおけに掛けた望みは、一瞬で砕かれたのだ。






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