98 それどころじゃない

 綾斗あやとの後ろに真っ黒なグランドピアノを見つけて、京子は「すごぉい」と歓声を上げた。

 個人宅にあるピアノといえば、壁際に張り付いたコンパクトなタイプしか想像していなかった。がらんどうとした部屋の中央に置かれたそれは、ずっと主を待っていたとは思えぬ程に艶やかな光を放っている。


「さっき下で渚央なおさんに、弾いてるのは綾斗だって聞いて驚いたんだから」

「久しぶりで、なかなか思い通りに指が動いてくれないんですけどね」


 何でもそつなくこなしてしまう綾斗が、照れ顔を見せるのは新鮮だった。

 京子は着替えを包んだバスタオルを胸の前に抱きしめて、重なったままの視線から目を逸らす。昼間からどうしても彼を意識してしまう。


「ううん、とっても素敵な曲だったよ。この所ずっと綾斗と一緒だったでしょ? お風呂場静かだったから、一人になってちょっと怖かったんだ」

「だいぶ怯えたような気配放ってましたからね。流石にあそこへ突撃するのはと思って、それで」


 能力者の気配は個人を特定できるものではないが、強弱や揺れで相手を予測することは可能だ。意図的に撒き散らした覚えはないが、金沢を離れてから少々気が緩んでいる自覚はある。


「もしかして、弾いてくれた?」


 自惚うぬぼれかとも思ったけれど、聞かずにはいられなかった。

 綾斗も「練習がてらに」と否定はしない。

 京子は耳が熱を帯びるのを感じつつ、「ありがと」と笑んだ。


ちなみに、何て言う曲だったの?」

「月の光ですよ、ドビュッシーの。昔コンサートで聞いて、感動した曲なんです。もう引退してるんですけど、憧れのピアニストで。だからこれだけは弾きたいって頑張ったんですよ」


 譜面台に乗った楽譜は、タイトルのないページで広げられている。

 

「ピアノの事、さっきちょっとだけ渚央さんに教えて貰ったの。ずっと弾いてなかったって。けど、私は今日聞けて嬉しかったよ」

「なら良かった。俺が弾かないってみんな分かってるのに、ちゃんと調律されてる。頭が上がりませんよ」

「みんな、綾斗が弾くのを待ってたのかもね。今日は月出てるかな?」


 曲のタイトルにちなんで京子が部屋の奥にある窓を覗き込むと、細い月が雲間から覗いていた。


「あ、見えたよ。ちょっと曇ってるけど綺麗」


 隣に立った綾斗が「ホントだ」と京子の指す指先を追った。

 都会とは違い、空がどこまでも広がっている。


 横に彼が居る事なんて、空気のように当たり前だと思っていた。今まで何とも思わなかった。

 なのに自分の気持ちを認めてしまった途端、それまでのようにはいかない。


「ねぇ、さっきの曲もう一回聞かせて貰っても良い?」

「間違っても笑わないで下さいね」


 いつも通りを装ってアンコールを頼むと、綾斗は「そこどうぞ」と側にある小さな椅子を促した。


「じゃあ終わったら俺風呂入るんで、そしたら飲みなおしますか」

「うん。夕飯の時あんまり飲めなかったしね」


 彼の家族に醜態を晒さない為『飲めない』と嘘をついた京子に付き合って、綾斗もグラス一杯のビールを飲んだだけだ。

 日本人形を理由に寝る前のお酒を約束をしていたが、京子の頭の中は今それどころじゃない。

 折角弾いてくれる綾斗には申し訳ないが、ゆったりと流れるピアノの音は耳を右から左へと素通りしていく。


 京子は悩んでいた。

 好きだと思うこの気持ちを、彼に伝えるかどうかを──



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