95 ピアノの音

 夕食では綾斗あやとの家族も全員揃って、みんなが京子を歓迎してくれた。

 家族で食卓を囲むなんて経験は、京子にとって久しぶりの事だ。中学の時に母親が病に倒れてから、ずっと縁のないものになっている。


 彼の父親は厳格な感じで口数も少なかったが、お酒が入ると地元の色々な話をしてくれた。そんな傍らでニコニコと微笑む母親は、綾斗に良く似ている。中学生の妹たちは父親似だが、一卵性ではなかった。

 広いテーブルに料理がたくさん並んで、京子も少しだけお酒を飲む。ここで醜態しゅうたいを晒す訳にはいかず、渚央なおからの酌も「弱いから」と切り抜けたが、隣で綾斗が笑っていたのは言うまでもない。


 夕食後、暫くして京子は風呂に入った。

 最初は何も気にしていなかったが、広い家のせいで廊下も風呂場も裸足の足音が妙に響く。

 やよいが亡くなったと報告を受けてから、一人になるのは初めてだった。ずっと綾斗が居てくれたお陰でこんな気持ちにはならなかったのに、静寂を怖いと思ってしまう。

 彼女の身に起きたことを自分に重ねて、『死』という言葉が全身を取り巻いた。窓の奥の闇も、部屋の扉も、そんな気持ちを助長させるばかりだ。


「綾斗……」


 ホテルでは脱衣所の向こうに彼が居てテレビの雑音が鳴っていたのに、今はそうじゃない。建物の端にある風呂場は人の気配がまるでなかった。まさかここまでついてきて欲しいという訳にも行かず、意を決して服を脱ぐ。


 湯船に浸かるまではまだ良かったが、一番のハードルは髪を洗う事だ。

 水の音が他の音を遮って感覚を鈍らせる。元々感じ取る能力の弱い自分は、敵に襲われた時すぐに気付くことができるだろうか。

 背中に誰かが居るかもしれない──一度そう思うと恐怖は募るばかりで、京子は目をパチリと開いた。


「誰も居ない。当たり前……か」


 流しきれていない泡が目に入って、「痛っ」と目を細める。なるべくならもう目は開いていたい。

 困ったなと溜息をつくと、耳慣れない音が遠くで鳴っている事に気付いた。


「ピアノの音……?」


 CDか何かをかけているのだろうか。それともこの家のどこかにピアノがあって、誰かが弾いているのかもしれない。

 優しいメロディに恐怖心が和らぐ。曲名は分からないが、どこかで聞いたことのある曲だ。


 音に合わせてハミングを口ずさむと、メロディが旋律を外れて静止した。


「あ、間違えた。やっぱり誰かが弾いてるんだ」


 綾斗の妹が練習しているのかもしれない。

 再び鳴り出す音に耳を澄ましながら、京子はゆったりと湯船に浸かって風呂場を出た。


 まだ半乾きの髪にタオルを当てながら廊下を進むと、階段から降りてきた渚央なおと鉢合わせする。


「渚央さん」

「京子ちゃん、風呂入ってたんだ」

「すみません、こんな格好で」

「いいのいいの、気にしないで」


 昼間ここへ来る前に、大きなショッピングセンターで足りない分の着替えを揃えた。適当に選んだTシャツとハーフパンツ姿に持っていたカーディガンを羽織っている。普段から気合を入れてメイクしているわけではないが、会ったばかりの男子にスッピンはあまり見られたくない。

 恥ずかしいなと俯くと、止まっていたピアノの音がまた鳴り出した。練習しているのか、同じ曲が何度も繰り返されている。


「素敵な曲ですね」

「そう思うなら、本人に言ってあげなよ」


 それがどこか含みのある言葉に聞こえて、京子は首を傾げる。


「誰が、弾いているんですか?」

「綾斗だよ」


 ニコリと笑った渚央の答えに、京子は「えぇ?」と目を見開いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る