76 僕の嘘と彼女の嘘

 不調だった食堂の空調を修理して久志ひさしがようやく部屋へ戻ると、時間は夜の10時を過ぎていた。

 技術部の隅にある狭い和室は久志の寝床になっていて、半分に折っておいた布団を広げ白衣を脱ぐ。

 静かな夜に窓からの雨音が小さく響いていた。


 何となく気が落ち着かないのは、夕方に済ませておきたかったやよいとの申し合わせができなかったからだ。朝のうちに一声掛けておけば良かったと思うが、今更どうすることもできない。

 このまま寝てしまいたかったが、機械いじりをしていたせいですっかり全身が黒ずんでいる。


「仕方ないな」


 疲労感に肩をグルグルと回して、久志はシャワールームへ向かった。



   ☆

 翌朝、眠い目を擦りながら訓練場へ向かうと、そこにやよいの姿はなかった。

 久志はよく遅刻していたが、毎朝6時からのルーティンを彼女が欠かしたことはない。

 昨日定時で帰った彼女に何かあったのだろうか。まだ小さい娘の発熱で遅れる事はあったが、今日はその連絡も入っていなかった。


「何だろ」


 珍しいとは思いつつも、深刻な状況を疑ったりはしなかった。

 朝のトレーニングをサボる気満々で、久志は事務所へ向かう。けれどそこにもやよいからの連絡は入っていないらしい。どうしたのかと入口で首を傾げていると、助手のキイが勤退カードを手に挨拶して来た。


「おはようございます。こんな時間に久志さんと事務所ここで会うなんて新鮮ですね!」

「おはよう、キイ。やよいがまだ来てなくてさ」

「昨日も早く帰っちゃったんですよね? メイが言ってました」


 メイはポニーテール、キイはツインテールなのが定番だが、今日のキイは髪を下ろしている。それでもちゃんと見分けることが出来た。


「そうなんだよ。キイはやよいと仲良いだろ? 何か聞いてない?」

「昨日は食堂でお昼一緒に食べましたけど、特に何も言ってなかったと思いますよ?」

「そうか」


 久志はうなずいたまま顔を落として黙り込んだ。ここへ来る途中やよいに電話してみたが、コール音が鳴るばかりで応答はなかった。メールも既読にすらならない。

 今日は修司が来る大事な日だというのに、彼女に限って無断欠勤はないだろう。


「とりあえず行こう」


 キイを連れて一度技術部へ戻る。

 今になって嫌な気がしてならなかった。昨日から感じていた一つ一つの違和感がやよいの失踪に通じているのではないかと、胸騒ぎを覚える。


「何かあったんじゃないだろうな……」


 スマホのアドレス帳から今度は彼女の自宅の電話番号を拾って、通話ボタンを押した。

 今までそっちの番号に掛けたことはなかった。やよいはご主人の如月きさらぎと娘の三人暮らしだ。

 少し長めのコールの後、呼び出し音が途切れる。


「やよい!」


 衝動的に呼び掛けるが、返って来た声は彼女のものではなかった。


『如月ですが……妻に何か御用でしょうか?』


 何度か会った事もある、やよいの夫だ。彼女とは対照的な温厚で優しい性格が声に表れている。普段と変わらない様子に戸惑って、久志は「すみません」と挨拶した。


「支部の空閑くがと申します。やよいさんは御在宅でしょうか?」

『あぁ、同期の方ですね。いつも妻がお世話になっています。やよいは……』


 彼は急に声を濁らせる。話が嚙み合わない予感がしたが、彼はおかしなことを口にしたのだ。


『妻は昨日戻っていませんよ? 宿直だとかで。アルガスに居るんじゃないんですか?』

「あ、あぁ──僕、休み明けで勘違いしてるのかも。ちょっと中探してみます。また何かあったら連絡させて下さい」

『いえ、宜しくお願いします』

「失礼します」


 通話を切って、久志は息を詰まらせた。

 久志が休み明けだというのは咄嗟とっさについた嘘だし、やよいが宿直だというのも彼女がついた嘘だ。如月に前もってそれを告げていたという事は、この状況を彼女は予測していたというのか。


「久志さん?」

「ごめん、ちょっと待って」


 キイの心配に平静を装う事ができなかった。

 昨日何か予定外なことが起きたと言えば、食堂の空調が壊れた事くらいしか思い浮かばない。


「夜に何があったんだよ。やよい……」


 日々の挨拶を省くことは多かったが、仕事に関してはお互いに情報共有しているつもりだ。だから、思い当たるものが何もなかった。

 部屋で一番大きな窓を全開にして、朝のまだ涼しい空気に彼女の気配を探る。こんなことをした所で彼女の居場所を特定できない事くらいわかっているが、じっと座ってなどいられなかった。






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