42 今は『その時』なんだろうか
夜景が見たいと言って遠回りして貰ったのは、すぐに家へ着きそうな距離で涙の衝動を静めることができないと思ったからだ。
夜になり掛けの青暗い海に、街の明かりが華やかに並んでいる。
──『俺は、京子さんが好きです』
彼の方を向いたら、きっとわんわんと泣いてしまう。
落ち着けと自分に言い聞かせて京子は窓の外へ顔を向けるが、少しずつ零れる涙を止めることはできなかった。込み上げる衝動をピアノの音にそっと潜ませる。
けれど横で声を押し殺している事も、ドライブに誘った訳も綾斗はきっと気付いているだろう。
彼は何も知らないフリをして海沿いの公園に車を停めた。そう広くはない駐車場には何台か先客がいて、暗い海を正面に間隔を置いて並んでいる。
綾斗はエンジンを付けたままシートベルトを外した。
「ちょっとトイレ行ってきます。あと、喉乾いたんでコーヒー買ってきますね」
道の向かいにあるカフェを指差す彼を
「うん」とだけ返事すると、綾斗は扉を開けて外へ下りる。
スゥと冷たい空気が車内に流れ込んできた。
「寒かったら温度上げて構いませんからね。少し時間が掛かると思うんで、変な奴に絡まれても、ついていかないように。海に投げ飛ばしちゃっても構いませんからね? 何かあったら連絡くれればすぐに戻りますから」
白い息を吐きながらそう言い置いて、綾斗が扉を閉める。
その瞬間に涙が溢れた。
桃也と別れると決めてから、ずっと落ち着いていたはずの感情が次から次へと沸き上がる。心のどこかに寂しさをずっと溜め込んでいたらしい。
その全部を空にするように、声を上げて吐き出した。
綾斗がコーヒーを買いに行った理由も、すぐに帰って来ない理由も分かる。
「ごめん、綾斗」
暫く泣き続けて、それでもまだ涙が止まらない。
一人になって15分は過ぎているだろうか。彼の帰りを予感して、京子は窓が白く曇った車内から外へ下りた。
海に面した駐車場との境目には色の違う低いブロックが並んでいる。
波は穏やかだが、一月の海風は想像していたよりも冷たい。ヒートアップした感情は、波の音に合わせて少しずつ引いていった。
ぐっしょりと濡れたハンカチをポケットに突っ込むと、指先が小さな固いものに触れる。
桃也から貰った指輪だ。
「あ……」
──『川に流すとか海に投げるとか……』
そうするのは残酷なようにも聞こえたが、お守りの事を綾斗に指摘されたように、残して置いたら見るたびにきっと彼を思い出してしまう気がする。
一人で居て辛い時間が多かったはずなのに、こうして振り返るのは楽しかった記憶ばかりだ。
「桃也の元に戻るつもり?」
どうしようと悩んだ気持ちを断ち切るように、京子は「違うよね」と首を振る。
──『それ見て俺の事思い出してくれたら、少しは冷静になれるんじゃないかって』
「今がその時なのかな。冷静に……なれてる?」
桃也の想いを乗せた指輪に左手を添えると、海へ向けて腕を伸ばした。
「ありがとう、桃也」
ぎゅっと握り締めた手を解こうとした瞬間、背後に足音がした。反動で手に力が籠る。
「京子さん、外に居たんですか。風邪引きますよ」
「大丈夫。ごめんね、心配かけて。ありがとう」
無意識に指輪をコートのポケットに突っ込んで、京子は何事もなかったように戻って来た綾斗を迎える。
彼もまた普段通りを装った。
「俺はコーヒー買ってきただけですから」
「そんなこと言って。私がホレたらどうするの?」
「そしたら、作戦勝ちって思いますよ」
平然と言う彼に、しかめ面を返す。
綾斗は両手に持ったコーヒーを一つ京子に差し出した。
「……ありがと」
また涙が出そうになるのを堪えて受け取ったコーヒーは、温かくて甘い香りがした。
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