1 見覚えのある風景

 病院を出てヒュウと吹いた風に肌寒さを感じて、京子は羽織っていたコートの前をぎゅっと閉めた。

 少し前までは朝と昼間の寒暖差に戸惑う位だったが、いよいよ季節は冬へ向けて本格的な準備を始めたらしい。


 朝一の診療が思ったより早く済み、その足で『恋歌れんか』へ向かう。

 午前休にかこつけて、朱羽あげはとランチの約束をした。けれど、こちらから一方的に指定したその場所は彼女にとって不服だったらしい。


「どうして私がこんな所まで来なきゃならないのよ。オジサンたちに会ったらどうしてくれるの?」

「別に挨拶すればいいでしょ? ここならギリギリまで話していられると思ったの」


 『恋歌』はアルガスの裏通りにある店で、キーダーや施設員たちの御用達となっている。

 マサの結婚式を終えて恋愛面での気持ちの整理は付いているようだが、事務所勤務の継続を望む彼女にとって、ここはリスクの高い場所のようだ。

 それでも何だかんだ文句を言いながら来てくれた朱羽に、京子は「ありがとう」と礼を言う。


 他の客が退店で鳴らしたドアベルをバックに、店内のBGMはゆったりとした懐かしのラブソングに切り替わった。


「どうぞ、お召し上がり下さい」


 注文の品を運んできた白髪のマスターに「お久しぶりです」と挨拶して、朱羽は壁に張られた絵を見上げた。店内のあちこちに飾られたポストカードサイズの風景画は、旅好きの彼が描いたものだ。


「絵がいっぱい増えてる。いつ見ても素敵だなって思います」

「ありがとうございます」


 マスターは心地良い低音ボイスを響かせた。

 少しずつ増える絵を京子は気にもしていなかったが、数年ぶりに来た朱羽の目には大きな変化に映ったらしい。

 京子はアイスコーヒーにミルクを入れて、熱々のナポリタンを頬張りながら改めてその絵を眺めた。


 函館の夜景に、どこか都会の風景。

 その横に並ぶのは、入り組んだ断崖絶壁の向こうに広がる青い海だった。


「怖そうな崖だね」

「それって東尋坊とうじんぼうじゃないの? 福井の」


 朱羽がカウンターの向こうに答えを求めて視線を投げると、マスターが「はい」とサイフォンを片付けながらこっくりと頷いた。


「そうなんだ。ドラマの最後とかに出て来そうだね」

「殺人事件とかミステリーものよね。綾斗あやとくんって福井出身だから聞いてみれば?」

「確かに──あっ、あれは知ってる。福岡タワー!」


 通路を挟んだ反対側のテーブルの奥に見覚えのある風景を見つけて、京子ははしゃぐ。


「九州支部から見えるんだよ。海の側にあってね、建物が三角なんだ」


 タワーと名は付いているが、東京タワーのようなものとは違う細長いビルだ。空を指すその先端には、細長いアンテナが立っている。


「前に行った時、佳祐けいすけさんに連れてってもらったんだけど、展望台からの眺めが凄く綺麗だったんだよ」

「佳祐さんって殆ど会ったことないけど、寡黙かもくな人よね。久志ひさしさんやマサさんとは対極っていうか。一人であのエリアを統括して、実績もたくさん上がってるんだもの尊敬しちゃうわ」

「凄いよね。けどこっち来るときいつもカステラ持って来てくれるし、私にとっては優しいお兄ちゃんって感じかな」

「お兄ちゃん、ね」


 含んだ物言いをする朱羽に、京子は「お兄ちゃんです」と言い返す。

 佳祐は久志たち同期四人組の一人で、マサややよいと同じ歳だ。能力も高く優しい彼だが、一緒に居るとどこか距離感を感じてしまうところもある。


「けど九州まで行くなんて、京子はちゃんと仕事してるのね」

「一応ね」


 朱羽はテーブルに視線を返して、アイスティーに刺したストローに口を付けた。


「桃也くんも九州に行く事が多いみたいじゃない? もしかしたら彼も今あのタワーを見てるかもしれないわよ」

「……そうだね」


 監察員はその仕事を公にすることは少ないが、九州で佳祐と任務に携わる事が多いと前に桃也から聞いたことがある。

 そんな桃也と京子が最後に会ったのは、マサの結婚式の時だった。


 ──『今度、京子の意見を聞かせて欲しい』


 前に会った時そう言われていたものの、あの日一緒に居たのもほんの数時間で、まともに話をすることはできなかった。桃也のサード行きをOKしたら今度こそ永遠に会えないような気がして、自分からその話題に触れなかったせいかもしれない。


 けれど、答えなんて最初から決まっている気もする。

 こんなに離れてしまった距離を縮める理由も、別れる理由も、『好きだから』以外思い浮かばない。

 ただその気持ちをはっきり彼に伝えることができなかった。

 彼もまた何も言わないまま『今度』を先送りにして、月日だけが過ぎていく。


 ──『やだ』


 初めてサードの話を聞いた時、彼に零したその気持ちは、今もずっと変わらない。


「ねぇ朱羽、どうしたらもっと桃也と一緒に居られるのかな」

「一緒に、って。彼がキーダーになる前みたいにって事?」

「毎日会いたいなんて贅沢を言いたいわけじゃないよ。ただ……恋人だって思うと、期待しちゃうんだもん。桃也の仕事が忙しい事も、一生懸命なのもわかるけど、どうしても声を聞きたい時があるんだ……」

「京子、我慢しすぎよ。今私に言ってくれたことを本人に伝える事が大事なんじゃない?」


 桃也にサードへの声掛けがされているのは朱羽も承知だ。

 一人で悩んでも全く答えの出ない難問に、彼女は「そうね」と顔を起こす。


「今の状況を打破したいと思うなら、強行突破も必要よ。見送りの時に電車とかヘリに一緒に飛び乗れば良いんじゃないかしら」

「えぇ?」


 大胆と言うか、強引と言うか。あまり現実的でないような答えをくれて、朱羽は満足げにナポリタンを頬張った。



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