10 呼び方、呼ばれ方
「まだ自己紹介してなかったわね」
彼女と二人きりになった途端、『変なことしたら許さない』という
勿論、そんなことをする気はないけれど。
部屋も空気も匂いも、いつも感じているものとは全く違う。
狭い部屋で二人きりというシチュエーションに心が乱れそうになるのを、怒り顔の美弦を思い出して必死に抑えつけた。
彼女の名前は
キーダーはアルガスに居るものだと思っていたが、彼女はここで一人で資料整理を中心とした事務仕事をしているらしい。
棚にはファイルがびっしりと入っていて、パソコンもノート以外にやたら古そうなデスクトップが部屋の隅に鎮座している。
「そういえば、仕事は辞めちゃったの? あのお金はバイト代だったんでしょ?」
「はい。あの日が最後のバイトだったんです」
「そうなの」と言った朱羽は、それが喫茶店のバイトだと聞いて驚いた顔をした。
「仕事、全然違うけど大丈夫?」
「はい、何でもします! けど俺、仕事内容とかちゃんと読んでなくて。ここでは何をすればいいんですか? キーダーやアルガスのことも詳しくは知らないんです」
龍之介は頭を下げて、朱羽の淹れた不思議な味の紅茶を何度も口に運んだ。
「そうなの? じゃあもしかして、履歴書もないのかしら」
朱羽は細い眉を上げて、可笑しそうに笑いだす。
「履歴書……あぁそうか」
そんな基本的なことも抜けていた自分が急に恥ずかしくなって、龍之介は立ち上がる。
「やっぱり俺、出直してきます!」
けれどソファを離れようとした龍之介を、「待って」と朱羽が引き止めた。
「そんなの後ででいいわ。とりあえず名前と携帯の番号を書いて貰ってもいい?」
「それでいいんですか?」
「えぇ」
花柄のティカップを置いて朱羽は立ち上がる。コピー機の横から引き抜いた紙と、ペン立てにあったボールペンを龍之介の前に並べた。
申し訳ない気持ちで龍之介はソファへ腰を落とし、言われるままにペンを滑らせる。
「へぇ、龍之介って言うんだ。カッコいい名前。あ、けど一応仕事だから、苗字で呼ばなきゃね。相葉くんでいいかしら?」
「下の名前でお願いします! それで、俺にも名前で呼ばせて下さい!」
耳まで火照らせて、龍之介は衝動的に願望を叫ぶ。朱羽はその勢いにびっくりした顔をした。
「じゃあ、龍之介……じゃなくて、龍之介くん?」
「龍之介で!」
「分かったわ。じゃあ、龍之介ね。私の事も朱羽でいいわよ。みんなそう呼んでくれるし」
「やった! 朱羽さん、ありがとうございます!」
彼女にとって、そこに大した差はないようだ。
龍之介は破顔して、彼女が口にした音の響きを堪能した。そして興奮を抑えようと、残り少ない紅茶を飲み干す。
「この部屋はアルガスの一部ってことになるんですか?」
「一応そういうことになるのかしら。けど私の自宅も兼ねてるし、下請けくらいに考えてくれて構わないわよ」
「へぇ……」
龍之介は大きく頷いて、その部屋を見渡した。
今座っている応接セット以外に机や本棚があって、トイレか何かの扉が出入り口とは別に三つあった。
朱羽が「そこは私の部屋だから、入っちゃ駄目よ」と木の扉を指差すと、今度は仕事について説明を始める。
大まかに言えば、ここで朱羽の補佐をして欲しいとのことだった。書類整理からお茶出し、掃除、言い方を変えれば雑用係だ。夏休みは平日午後で、学校が始まったら放課後の勤務。バイト代はカフェの時より少し高く、龍之介には申し分のない内容だった。
それに対して面接で龍之介が話したことと言えば、家がピアノ教室だということや、好きな食べ物は甘いものだとか、仕事とはあまり関係のないようなことばかりだった。ここから本題かと思ったところで、朱羽は「じゃあ、明日から来てくれる?」とあっさり採用を決めてしまう。
「俺の事
「えぇ。今日は日曜日だし、明日からって思ったんだけど。都合悪いなら、別の日からでもいいのよ?」
「いえ、俺暇なんで! 明日から来ます!」
嬉しさに立ち上がろうと腰を浮かせたところで、龍之介は視界の端にチラつくさすまたに再び目を止めて、そのままのおかしな姿勢で固まってしまう。
「あの、朱羽さんはキーダーなのに、どうしてここに居るんですか?」
漠然と気になった疑問を口にすると、朱羽は苦笑して立ち上がった。
「確かに、何でって思うわよね」
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