75 隔離壁の崩壊

 後ろ手に律が光を構えた。線を繋ぐ彼女特有の技ではなく、能力者の誰もが操る光の玉だ。

 ひと呼吸で巨大化した閃光に突然視界が白くなり、京子が慌てて間合いを広げる。


「やめろ、律さん!」


 無我夢中に叫んで、修司は渾身こんしんの力を込めた。

 修司の構えた趙馬刀ちょうばとうつかから白い光が勢い良く伸びて、けれど破裂した風船のように呆気あっけなく霧散むさんしてしまう。


「ええっ……と」


 短い思考停止の後、意識が大パニックで戻ってくる。


「来ちゃ駄目、修司!」


 けれど、律の気を反らすには十分な効果があった。彼女の攻撃目標が修司へと移ったのだ。

 彼女の手を放れて飛んでくる光は、修司に次の行動を考える暇も与えてはくれない。

 修司は「うわぁっ」と叫ぶことしかできず、もう駄目だと目をつぶった。

 けれど、全身で受けた衝撃は想像していた痛みとは違う。


 柔らかいものが重くぶつかって来て、身体ごと床に叩き付けられる。

 衝突の痛みはあったが、それだけだった。漠然と無事を理解した途端、甘い香りが鼻先をかすめて、修司は胸騒ぎを覚える。

 駆け寄ってくる足音に目を剥いて、そこにある現実に愕然がくぜんとした。


「京子!」


 桃也とうやだ。彼の声に「嫌ぁあ」と律の悲鳴が重なる。

 何が起きたのかは分からない。

 空気を含んだようなふわりとした耳鳴りを感じ、モニターからの音が急に大きくなった。

 その理由が隔離壁かくりへきの崩壊だと理解できたのは、溶けていく薄い光の断片が視界の隅に見えたからだ。


 地面に転がる律は、桃也の攻撃で致命傷を負ったらしい。床を染める血液の量がさっきの比ではなかった。

 そのダメージが彼女の命をも奪いかねない予想はついた。けれど、今修司にとって助ける相手は彼女じゃない。


「桃也さん! 京子さんが」


 「いったぁい」と痛みに顔をゆがませる京子の顔が、修司の視界のすぐ側にあった。

 彼女が身を挺して律の攻撃から修司をかばった。彼女の脇腹に触れた修司の手が、生暖かい感触をつかむ。


 京子の怪我も相当だ。

 逃避したくなる気持ちを抑えて目を向けると、ザックリと開いた紺色の制服から赤く染まる白いシャツが見える。


 駆け寄ってきた桃也は京子の上半身をそっと片腕に抱き寄せ、逆の手を傷口に当てがった。白い光がうっすらと接触面ににじむ。


「完全には治せないけど、これでも応急処置よりゃマシだ。最近覚えた技なんだぜ?」

「流石、桃也だね。けどちゃんと受け身とったから。このくらいかすり傷だよ」

「強がっていられるなら問題ねぇな」


 狼狽うろたえる修司を振り返り、桃也は「心配するな」となだめる。


「桃也さんが来てくれて、良かったです。俺……」

「空間隔離は中からの衝撃には強いが、外からの攻撃には貧弱だからな。間に合ってよかったよ」

「くっそぉ、あの女……ごめんね、桃也」

「喋るなよ。修司が心配するだろ? 少し痛いだろうけど、落ち着くまで我慢しとけよ」


 時折襲ってくる痛みに京子はきゅっと目を閉じる。けれど不安気な彼女の表情が安堵に変わったことにホッとして、修司は頭を下げた。


「俺が出しゃばったから、京子さんがこんな……すみません」

「違うよ、修司。修司が居なかったら、さっきのアレ……直接撃ち込まれてたもん。これで済んだのは修司のお陰だよ。ありがとね」


 修司は何度も頭を横に振る。これで済んだとは言うが、軽傷には見えなかった。


「大丈夫。桃也の力は、こう見えても凄いんだから」


 「どういう意味だよ」と眉間を寄せる桃也は、京子の手元を見て小さな笑顔を見せる。彼が彼女に昔送ったという指輪だ。

 治癒ちゆが出来るキーダーなど聞いたこともないが、彼女の状態が落ち着いていくのを目の当たりにして、修司はホッと胸を撫で下ろした。


「あと少し掛かるから、修司はあの女を追って欲しい」


 京子に治癒をほどこしながらホールの奥をうながす桃也。

 隔離壁の消失したホールから、いつしか律の姿が消えていた。廊下の奥まで続く血の跡を目で追うと、京子の手がそっと修司の手に触れる。


「修司、さっきあの女に言ったこと本気で思ってる?」


 振り向くと彼女はほおに乾いた血の跡を付けて、弱々しく笑う。


「私はね、自分の事、国の犬だなって思うことあるよ。バスクやノーマルがそう言うのにも納得してる」


 キーダーは犬じゃないと律に吠えた自分が恥ずかしくなって、修司は「それは」と顔を反らした。首を傾げる桃也に、京子は「凄かったんだよ」と嬉しそうに伝える。


「けど、飼い主に忠実じゃないんだな、これが。キーダーなんてみんなそうだよね、桃也」

「確かに、そうだな」

「ね。だから、修司も自分らしくしてればいいんだからね」


 京子は修司から手を放し、静かに目を閉じた。

 「少しだけ休ませて」と桃也の胸へ顔を預ける。


 キーダーを選んだことは、きっと間違っていなかったと噛み締めて、修司はモニターへと顔を上げた。

 既にライブは終わっていて、明るくなったホールにインストゥルメンタルが流れている。

 観客が動き始めていた。


「向こうにもキーダーが居るから心配するな。お前は奥の会議室へ行ってくれ。近藤と、彰人あきひとのヤロウが居るからな」


 ここでその名前が出るのか――。

 修司は「はい」と頭を下げ、くるりときびすを返した。

 彰人との再会に不安を抱きながら、床に落ちた血の跡を辿たどっていく。予感はしていたが、その瞬間が訪れるのはあまりにも唐突とうとつだ。


 それはきっと、律にとっても同じ事で――。



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