56 会いたい人

 マグカップに入ったコーヒーをクルクルと波打たせながら、りつは彼女自身の過去をゆっくりと話した。


「これでもトールになろうと思ったこともあるのよ? けど、あの門をどうしてもくぐれなくて」

「俺も東京に出てきた時、アルガスに行きました。大分手前で引き返しましたけど」


 二年前、美弦みつるに会ったあの日のターニングポイントを、修司しゅうじは進む事が出来なかった。


「敵の侵入しんにゅうを防ぐ為なんだろうけど、入口があんなんじゃ近付こうにも近付けないわよね」


 目を細めて微笑む律がホルスだと言われても、まだ信じられなかった。

 『先入観せんにゅうかんを持たないこと』と言った桃也とうやの言葉を必死に頭で繰り返していると、律がカップを両手で握りながら遠い目を漂わせた。


「特殊な能力なんて不気味だと思った頃もあったけど、高橋に会って前向きになれた。自分の力には価値があるんだって納得できたの」


 力を怖がる律に近付き、凄いと褒め称えた高橋が彼女に求めたのは『感じる力』だったという。

 律によってホルスになったバスクが何人もいると聞いて、修司は身構えた。


「けどそれって国の指示に従うキーダーと変わりないんじゃないですか?」

「全然違うわ。ホルスは、バスクもノーマルも各々が最前線で仕事するの。アルガスのように傍から見てるだけの人間ノーマルなんていないわ」


 けれど、能力者が組織にくみすることに変わりはない。バスクは国に使われること、銀環をすることを不自由だと言って、それを理由に身を潜めているわけではないのだろうか。

 結局、どちらも同じなのかもしれない。ホルスもアルガスも、互いを相容あいいれないだけなのではないか。これではどこかの宗教戦争のようだ。


「高橋もノーマルだけど前線に居たのよ。バスクとの戦闘で死んでしまったけれど」


 律はもの悲しさを含んだ目を修司に向けて、「私はね」とその話をした。


「彼が死んで、暴走しそうになったの」

「暴走って、力の暴走ですか? 律さんが?」


 銀環をしない能力者バスクが起こすという力の暴走を、止めることなんてできるのだろうか。

 ふと沸いた不安に、修司は声を震わせる。


「もしかして大晦日の白雪は、律さんが……?」

「私じゃないわ!」


 七年前の大晦日に起きた悲劇も、バスクの暴走が起こしたものだと平野や颯太そうたは言っている。


「あれはホルスとは関係のない話。私は目の前で高橋が殺されて、我を忘れてしまったの。気付いたら高橋を殺した男に助けられてた」


 律は背を丸め、両手で自分の顔を覆った。

 何度も顔を左右に振って、今度は両膝を抱える。


「敵なのよ? 逃げる選択肢だってあったはずなのに、私を庇って暴走を止めたせいで、その男も死んでしまった。私だけ助かっても仕方ないのに」

「だったら余計に、律さんは銀環を付けた方がいいと思います」


 高橋を失った衝動で暴走しかけたという律。計り知れないこの能力において、「大丈夫」の根拠はゼロに近い。

 だからノーマルは銀環ぎんかんを作り出した――律の話を聞くと、ノーマルが感じた能力者への恐怖に納得してしまう。


「暴走が絡んだ事件って、結構あるんですか?」


 『大晦日の白雪』は有名だけれど、他に思い当たるものはなかった。例えあったとしても、災害レベルの被害でない限り、一般人にまで情報は流れてこないのかもしれない。


「被害の規模は様々なんだろうけど、私が日本に来るより前に何かあった気がする──人づてに聞いた話だから、詳しくは分からないけど。他で耳にした事もないから、大したことはないんじゃないかしら」

「それなりの規模じゃないと広まらないって事ですかね。けど律さん……」

「何?」

「今の俺には、暴走を止められる力なんてないですからね」


 前に律から正気を失ったら止めてくれるかと聞かれたことがある。


「あれは私をかばって死ねって意味じゃないのよ。もし暴走しそうになったら、修司くん私を殺してくれる?」

「殺して、って。そんなのできませんよ! 律さんはそんな覚悟でホルスで居ようとするんですか?」

「私は高橋が好きだから。忘れることができないの。私がホルスに協力するって言ったら、あの人も「愛してる」って言ってくれたのよ? 「自由になれたら一緒になろう」ってのが、あの人の口癖だった。私は単純だから、アルガスの機能を停止させたら結婚できるんだって思ってたのよ。いまだに一緒になろうあの言葉の意味は分からないけど」


「言葉のままなんだと思いますよ」

「修司くん、今からでもこっちに来ない?」


 甘く聞こえる律の誘いに、修司は反射的に左手首をかばった。


「――ごめんなさい。俺には無理です」


 修司は深く頭を下げる。

 自分が貴女の敵になるという宣告だ。その意味を改めて理解すると、急に胸が苦しくなる。

 この選択が最善さいぜんかどうかは分からないけれど、後悔こうかいはしない筈だ。


「俺、帰ります」


 そうすべきだと判断して立ち上がると、壁の写真が目についた。

 若い頃の律と高橋だ。二人の笑顔からは、国を相手に戦おうなんて志は微塵みじんも感じ取ることはできない。


彰人あきひとに会いたいな」


 そんな事を呟いて、律は戸口で修司を見送った。

 また彰人に会うことはできるのだろうか。彼だったら律をホルスから脱却だっきゃくさせることができるかもしれないと思うのに、連絡先すら知らず修司にはどうすることもできなかった。


「もう、来ちゃ駄目よ」


 彼女の忠告に「はい」と答えると、「じゃあ」と余韻よいんを残して律が戸を閉める。りガラスの奥はすぐに暗転あんてんした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る