29 最悪の事態なのか

安藤律あんどうりつですよ」


 その答えに驚く暇もなく、背後で男の太い悲鳴が上がる。

 ゆずるが大男の腕に噛み付き、受け身を取って地面に転げ落ちた。解かれた腕を押さえながら駆け寄ってくる譲に、修司は「駄目だ」と声を上げて男たちに身構える。


「ふざけるなよ、お前ら。そんな冗談で俺を騙そうとしても無駄だからな!」


 男の発言を鵜呑みにしてしまいそうになる自分を否定したかった。同時に、もしここで戦って勝つことが出来れば、それをくつがえすことが出来る気がしてしまう。


 「下がってて」と肩越しに振り返り、困惑する譲に「ごめんな」と頭を下げた。


「律さんが、そっち側の人間なわけない。お前たちホルスなんだろう? 一緒にするなよ」

「ホルス?」


 背後で呟いた譲の声に、動揺が混じる。

 初老の男は含みのある笑みを浮かべた。


「何も分かってないのは貴方じゃないですか」


 いきがったガキだと自嘲じちょうしながら、修司は「この野郎!」と右手に白い力を宿す。

 「修司?」と呟かれた譲の驚愕に続いて、どこか離れた場所に強い力の気配が沸いた。


「なん……だよ、これは……」


 歴然れきぜんとした力の差に委縮して、修司の手から光がポンと弾ける。


 律なのかと思った。

 絶望感に頭を垂れると、初老の男が「どうした?」と眉間のしわを深く刻む。

 ここに居る修司以外の誰もが、この突き刺すような激しい気配に気付いていないらしい。


 スーツ姿の男たちがビクリと全身を震わせた。

 瞬きもできず瞳を見開いたまま、壁にくいで撃ち込まれたように手足の先までピンと硬直こうちょくさせている。

 身に起きた恐怖を吐き出そうとする半開きの口から、ダラリと唾液が流れ落ちた。


 こんなことをできるのは、数知れた人間だけだ。

 律が本当に敵だというのなら、この力は──


彰人あきひと……さん?」


 望みを込めてた小さな声は、急に騒めいた雑踏ざっとうの音にかき消されてしまう。

 周囲の視線が駅の方角へ一斉に向いて、人々が左右へ別れて道が開いた。


「こんな所でアンタが力を使っていいと思ってるの?」


 苛立いらだった少女の声が自分に向けられたものだと理解して、修司は耳を疑った。忘れ掛けそうになっていた音が耳の奥でよみがえり、その主を確信させる。


「けど間に合って良かったよ、ホントに」


 これは男の声。その顔を見て、修司は全身の力が抜けてしまう。ふらついた足に、譲が後ろから腕を掴んで支えてくれた。

 譲の視線は、開かれた道の奥に現れた二人の姿に釘付けだ。


 その状況は今の修司にとって最悪かもしれない。けれど、正直ホッとしてしまった。


「良かった……本当に」


 それが自分の本心かどうかは分からないけれど。

 修司は紺色の制服姿で現れた木崎綾斗きざきあやと楓美弦かえでみつるに「ありがとうございます」と頭を下げた。


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