13 夜明けのコーヒーの相手は

 最終電車に滑り込み、どうにかマンションへ帰ることができた。

 エレベーターに乗った途端、急に睡魔すいまが下りてきて、暗い部屋に着くとそのままリビングのソファへダイブする。


 次に目を開けた時、部屋にはすっかり朝の光が差し込んでいて、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。

 夜勤明けの颯太そうたが「お帰り」と修司にカップを差し出す。彼が居るということは、もう七時過ぎだ。

 掛けられていたタオルケットをいで、湯気の立つコーヒーを少しずつ口に運ぶと、強めの苦みにゆっくり頭が覚めてきて、昨夜のことがよみがえった。


「もう少しで炊けるから、そしたら飯にしようぜ」


 込み上げてきた欠伸あくびをゆったりと吐き出して、修司はカップを片手にベランダへ出る。

 ゴールデンウィークには有り難い絶好の青空は、今の修司にはやたらまぶしく感じられた。


 古いアパートで過ごした、ほんの数時間の微睡まどろんだ記憶は、夢だったんじゃないかと錯覚さっかくしてしまう。本当に自分はあそこに居たのだろうか。

 りつとのことが現実であった証拠と言えば、ポケットに押し込んだ一枚の紙だ。


 けれど電話しようかと伸びた手は、ポケットの縁をかすめてそのまま下へ落ちる。

 確認することじゃない。あそこに居たのは現実だ。


「夜明けのコーヒーが彼女とじゃなくて残念だったな」


 修司を追ってベランダに出た颯太が、横に並んでコーヒーをすする。


「なに訳の分かんないこと言ってんだよ」


 修司を覗き込んで、ニヤリと笑う颯太。


「いい匂いがすると思ってな。女の部屋にでも居たんだろ」


 コーヒーを吹きそうになるのをこらえて、修司は胸元を拳でトントンと叩いた。

 腕をそっと嗅いでみるが、自分では良く分からない。


「わかりやすっ。まぁ、高三なんだからコソコソするもんでもねぇよ。けど、女は怖いからな? 責任取ってやれる相手だけにしとけよ?」

「責任、って。伯父さんこそ、若い頃はそういうことしてたんじゃないの?」

「俺はそんな華々しい学生生活送っちゃいねぇよ。婆さんの後継ぐのに必死で勉強してたからな」


 颯太の過去を詳しく聞いたことはないが、どうせまた自覚がないのにモテまくっていたというパターンなのだろう。


 ふと脳裏に律の笑顔が浮かんだ。

 「修司くん」と呼ぶ甘い声を思い出すと、記憶を一気に彩るようにあのアパートが蘇ってくる。

 ビルに挟まれた窮屈きゅうくつな窓に、木の壁。六畳一間の小さな間取りに修司は彼女と二人で居たのだ。

 ここから見渡す風景は、そのどれもがあそことは掛け離れている。


「そこのマンションがずっと邪魔だなって思ってたけど、これは広い風景だったんだね」


 道を挟んだ向かい側にどんと建つマンションが風景を阻んでいる。距離がある分窮屈さはそこまで感じなかったが、これがなければ向こうにのぞむスカイツリーが見えるのにと思っていた。

 けれど、世の中には窓の一メートル先に壁がある部屋もあるのだ。


「まぁまぁだろ? ここは」


 疲れ顔の颯太に「うん」とうなずいて、修司は「あのさ」と律の話を切り出した。


「昨日、町で偶然女の人に会ったんだけど、その人バスクだったんだよね」

「また? 前にもキーダーの女に会ったんだよな? 都会はやっぱりあなどれねぇな」


 美弦の時とは明らかに違う反応に、修司は「マズかったかな?」と首を傾げた。

 「いや」と苦笑して、颯太は深く息を吐き出す。


「また女子とは楽しそうな話だけど、そろそろ真面目に身の振り方を考えておいた方がいいかもな。お前はこれからどうしたい? 決めてあるか?」


 フェンスに掛けていた腕を離し、颯太は「分かってるだろ?」と修司に向き合った。


「俺はまだ、このままがいいよ。その人の所に、もう一人バスクがいるって言うんだ」


 何もしない宙ぶらりん状態が二年も過ぎて、自分の気持ちは良く分かっていた。

 バスクとして生きてきた今までを自らくつがえしてまで、キーダーとしての運命を選ぶ覚悟ができない。心のどこかで誰かが無理矢理にでもキーダーにしてくれたらと思っていた。

 先に美弦や平野に声を掛けられていたら、迷わずキーダーを受け入れていただろう。それなのに、自分へ先に手を伸ばしてくれたのが律だった。


 「そうか」とうなずいた颯太がベンチに腰を下ろし、横に座るよう修司を手招く。


「ホルスって知ってるか?」


 そこで彼が口にした言葉が運命を揺るがす脅威になる事を、修司はまだ知る由もなかった。






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