76 抱えた気持ち

 朝、朱羽あげはと電話で話をした。

 マサの見送りに来たらと誘ってみたけれど、即効で断られた。


「あの人がいるのに、行くわけないでしょ?」


 確かに無神経だとは思う。

 五年以上も会っていないのだから、距離が離れた所で状況は変わりないと説教されてしまう始末だ。

 朱羽の本当の気持ちは分からないけれど、通話の最後に「今度飲みに行きましょ」と言った声が震えていたような気がする。



   ☆

 出発の朝は土砂降りの雨だった。

 春の嵐に一日延びるだろうかと淡い期待を抱いたが、アルガスに着く頃にはすっかり雨も上がって太陽が顔を出した。

 移動組は先に向かった平野を除いて長官に呼ばれたまま、ずっと彼の部屋に籠りっきりだ。


 昼前に発ちたいと言っていたパイロットのコージが「長すぎる」と不満を漏らしていたが、京子にとっては都合が良かった。別れを前に桃也とうやと二人きりになったら、ずっと抑えていた涙が零れてしまうと思ったからだ。

 一緒の時間が減るのは淋しいが、彼を笑顔で送り出せればいい──そんな想いを訪ねてきたセナに話すと、アルガス人気ナンバーワンの愛くるしい笑顔が一変した。


「ちょっと! それ本気で言ってるの?」


 愕然がくぜんとするセナを前に、京子は逃げるようにうさぎの抱き枕で顔を隠した。

 この一月ひとつきというもの、キーダーの急な増員や襲撃の事後処理に管理部門はきりきりまいの忙しさで、彼女とは挨拶程度の会話しかしていない。


「行かないで、って泣くわけにはいかないじゃないですか。桃也がキーダーを選んだのは、彼が五年も悩んで出した答えなんですよ? 応援してあげなきゃ」

「だからって、どうぞ行ってきてくださいって平気な顔で送り出すのは冷たすぎるわよ! 悩んだり後悔したりするのは、本音を全部伝えた後の事よ?」


 勢いに圧されつつ、「でも……」とうさぎ耳の隙間から様子を伺うと、セナはいつもに増して整えられたアーチ型の眉をキッと寄せた。


「でもじゃない! 今日出発なのよ? てっきり毎晩桃也くんにベタベタ泣きついてると思ったのに、一ヶ月も何してたのよ」

「い……いつも通り?」


 今までと変わらない日々を過ごしてきたと思う。思いが込み上げることはあったけれど、彼に涙を見せることは一度もなかった。


「昨日、二人でお墓参りに行ったんでしょ? どうだったのよ」

「どう、って。普通に……」

「普通に手を合わせて帰ってきたの……」


 がくりとセナが頭を下げる。透き通るようなほおがぷるぷるっと震えているのがわかり、京子は視線を逸らしてテーブルの上の水筒を手に取った。


「それ、桃也くんが準備してくれたの?」


 「うん」と頷く京子に、セナは深い溜息を漏らす。

 今朝最後に桃也が用意してくれた水筒の中身は、大分前に一番好きだと伝えたメープルシロップの入ったほんのり甘いコーヒーだった。

 一口飲むとホッとする甘さが口いっぱいに広がる。その温かさに決心が鈍ってしまうような気がして、京子は水筒の口を締めた。


「淋しいって泣きついて鬱陶しいと思われたら、別れ話になるかもしれないでしょ? そんなの嫌だよ」

「京子ちゃんが泣くのを面倒に思うようなら、京子ちゃんを好きになんかならないわよ。遠慮ばっかりしてると、心が離れちゃうわよ?」


 「忠告」と添えて、セナは京子を睨んだ。


「桃也くんカッコイイから、一年も向こうに居たら北陸の若い施設員に寝取られるわよ」


 ピンクの唇を尖らせるセナに、京子は「それは嫌ぁ!」と、涙目でうさぎを抱き締めた。


「んもぅ! そんな人形に泣きつかないで、桃也くんの胸で泣きなさい!!」


 京子はきゅっと目を閉じ、ふるふると首を震わせた。


「何ならコージさんに頼んで、一緒に北陸あっちまで送ってくれば?」

「やめてよ。そんなことしたら、余計踏ん切りがつかなくなる。それにマサさんと彰人あきひとくんもいるんだよ? 難易度が高すぎるよ」


 狭いヘリの中でその面子めんつでは桃也に泣きつくどころの話ではない。セナは「それもそうね」と人指し指をビシッと立て、京子に念を押す。


「とにかく素直になって。自分のこと好きな男なんて、心配させてなんぼって言うでしょ?」

「そうなんですか?」

「辛い時に辛いって言えない相手じゃ、もたないんじゃないかしら。ずっと大丈夫なフリしてるつもり?」


 「うん……」と曖昧に返事する。どう送り出していいのかは、さっぱりイメージできなかった。


「桃也君を応援したいって気持ちは分かるけど、そんなにいい子になる必要なんてないのよ?」


 笑顔で送り出すという一ヶ月間築いてきたシミュレーションを駄目出しされ、見送りの言葉さえ思い浮かばなくなってしまう。


「京子ちゃんの気持ちを掻き乱すつもりじゃなかったんだけど」


 ふと目に入ったセナの表情が悲しそうに歪んで見えた。けれどそれはほんの一瞬で、見間違えたかと思うほどだ。


「京子ちゃん、一年は短くなんかないのよ? だから私も……」


 セナが何か言い掛けたところで、ドンドンと部屋の扉が騒々しく叩かれた。


「会議終わったぞ、すぐ出発だ」


 扉越しに急ぐマサの声に、「はい」と京子は返事する。

 別れの時は唐突に訪れる。彼の声に急にその実感が沸いてきて、京子はうさぎを抱く手に力を込めた。


「いよいよ……か。セナさん、さっきのは?」


 途切れた言葉を尋ねるが、


「ううん。京子ちゃんが後悔しないように送ってあげて」


 セナは立ち上がり、「行きましょう」と扉を開けた。




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