2 試飲は一杯だけで

 『大晦日おおみそか白雪しらゆき』から、五年が過ぎた。


 昼食を食べて再び車の後部座席に乗り込んでから、もう三十分は過ぎただろうか。

 ぽつりぽつりとあった民家や廃墟はいきょすらなくなって、冬枯ふゆがれの濃い茶色の木々が緞帳どんちょうのように視界をさえぎっている。


 田母神たもがみ京子は灰色の空を仰いで溜息を零した。


「終わるまで降らないでね」


 まだ昼を過ぎたばかりだと言うのに、やたら暗い雲が空を厚くおおっている。


「もうそろそろかもなぁ。予報じゃ昼から雪だったぜ」


 運転席のマサの声が子供のように弾んだことに眉をひそめ、京子は花柄の膝掛ひざかけを胸まで持ち上げた。彼の愛車である旧型のRVは後部座席のシートが固く、のんびりとドライブを楽しめるようなものではない。


「こんなに山奥なら、私もじいみたいにヘリで来れば良かった」

「山奥だなんて分かってた事だろ? 爺さんと一緒にコージも関西に行っちまったんだから仕方ねぇんだよ。それにここじゃ直接下りれないぜ」

「いいよ、パラシュート使えるもん。長時間の車移動に比べたら全然平気だよ」


 ただ座っているだけなのに、砂利道からの振動で疲労はつのるばかりだ。

 マサは伸びかけの無精髭ぶしょうひげをザラリとでて、「文句ばっか言うなよ」と京子をなだめる。


「昼飯うまかっただろ?」

「ご飯は美味しかったけど」

「ほら。爺さんと一緒だと冷めた弁当だぜ、きっと」


 山梨に入ってすぐのさびれたドライブインで、きんかん入りのモツ煮定食を食べた。

 マサは機嫌きげん良く缶コーヒーをすすって、ラジオのスイッチを入れる。流行りのアイドルグループが歌うラブソングが流れ、彼は外れた音で陽気に口ずさんだ。


「酒は買えたんだからいいじゃねぇか」


 長野寄りに移動して蔵元に立ち寄ったのは、地元が近いマサの提案だった。

 袋に入った酒の瓶が京子の足元で揺れている。


「ほら、もう着くぞ。爺さんもお目見えだ」


 エンジン音の奥に荒いプロペラ音が混じり、京子は横の窓を少しだけ開けた。

 白くれたガラスにひたいを押し当てると、前方斜め方向に機体の小さい陰を見つける。京子は助手席に置いてあった双眼鏡そうがんきょうを窓の隙間すきまに差し込んで、高い空を見上げた。


 見慣れた銀色のシコルスキーは、垂直尾翼すいちょくびよくに『05』と記された、航空隊キャプテンのコージの機体だ。


 前方でホバリングするヘリの扉が開き、中から小さな黒い影が一つ飛び出す。

 暗い空にパッと開いた長方形の真っ赤なパラシュートは、ゆらりと左右に揺れながら奥まった木々の向こうへ正確に落ちてきた。

 マサは落下した位置から少し手前で車を停めると、空から来た初老の男に軽く頭を下げる。そして「後は頼むぞ」と肩越しに京子へ言葉を送った。


「分かってる」


 京子は膝掛をいで、後部座席の扉を開ける。

 吹き込んできた冬の空気は、刺すような冷たさだ。

 全身を震わせて車を降りる京子を横目に、マサは男から受け取ったパラシュートを後部座席に投げ入れると、「じゃあな」と二人を残して車を早々に走らせた。

 いつのまにかヘリの姿も消えて、辺りはシンと静まり返る。 


 『爺』と呼ばれる男は、大舎卿だいしゃきょうという異名を持つ男だ。

 京子と同じ紺色の外套がいとうを制服の上に羽織っている。肩に付いた桜を模した刺繍ししゅうは、二人が同格である印だ。


「行くぞ」


 車道を逸れて森へ入り、長い草を踏みつけながら奥へと進んでいく。京子は黙々と歩く大舎卿と肩を並べて、にこやかに尋ねた。


「爺はお昼何食べたの?」

「イカ飯じゃ」

「イカ飯? って、北海道? 爺って今日は大阪から来たんだよね?」


 ふっと表情をゆるませる彼は、おとといから調査で関西に入っていた筈だ。

 まさか予定変更で北海道にでも行ったのかと京子が首をひねらせたところで、大舎卿が得意気に鼻を鳴らす。


「宿の近くにあるデパートで物産展をやっていてな、買って来てもらったんじゃよ」

「そういうことか」


 イカ飯は彼の好物だ。うなぎよりも刺身よりもイカ飯が良いという。


「そうだ、爺にお土産あるよ。さっき途中で日本酒の蔵元に寄ったんだけど、すっごく美味しかったから爺の分も買ってきちゃった」

「美味しかった、って。飲んだのか?」

「試飲しただけだよ。三分で戻れってマサさんがかすから、飲み比べできなかったんだから」


 本当はもっと色々試したかった所をマサに大声で呼ばれ、あっという間に連れ戻された。


 大舎卿は『一杯だけね』と京子が指で表したグラスの大きさに眉をひそめながら、「まぁいい」と呟き、「すまんな」と微笑んだ。



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