底辺の泥漿
鈴龍かぶと
底辺の泥漿
溜息が出る。
「……違う」
吐き気もする。頭も痛い。身体がだるい。ひたすらにやる気が起きない。
キーを打つ手を止める。
体調はとても良い。聡明な視界は、1行目、1文字目すら書き出せないままの画面を濁りなく映す。あぁ、目を逸らしたい。締め切りは2時間前。授業は現在進行形でさぼっている。
「気分転換しよう、そうしよう」
パソコンを閉じて、テレビをつけた。昼過ぎ、夕方より少し早いくらい。ドラマの再放送をやっている。面白くもない。
どれだけ放心して見ていても、俺も物書きの端くれ、ストーリーのあらは嫌でも見えてしまう。
「主人公の行動に一貫性がねぇよ。……あー違う、寒いラブシーン入れやがって」
CMに入るのに合わせて、スマホで見ている作品を調べる。評価は俺の感想と概ね同じで、そう高くはなかった。それみたことか、と鼻で笑う。
ふと、スマホの時計を見る。
「……っやべ。バイト遅刻だ」
ダメ脚本家について調べるのに夢中になっていて、気が付いたらバイトの時間になっていた。まぁ、目の前のコンビニがバイト先だし、店長は優しいから別にそこまで焦ることでもないが。
俺はそれなりに急いで準備をして、バイト先へと向かった。
店に入ってレジを見る。すると、そこには女性が立っていた。思わず「げ」と言いそうになる。辛うじて押し戻したが。
「あら?
「――すんません」
遅刻ったって3分くらいだろうが。グダグダうっせぇな。
「君、遅刻多いわよね? 私いつもこの時間に入ってるけど、君が時間通りに来たの数えるほどしか見たことないわよ?」
「――さーせん」
こっちはてめぇの悪口陰口しか聞いたことねぇよ。
「ちょっと? 聞いてるの?」
「――うす、次から気を付けます」
ちらりと時計を見る。もう5分過ぎている。ねちねちと小言を言われている間にどんどん遅くなってくじゃねーか。
「あら? もう5分も遅刻じゃないの! 早く着替えて来なさい!」
「――あっす」
きめぇきめぇきめぇきめぇ。
もし今から5分間だけ誰でも他人を好きなようにしていいなら真っ先にあのババアを殺す。思いっきり顔面ぶん殴って、二度と俺にあんな口きけねぇようにしてやる。
そんなことを思いながら、俺はスタッフルームへ入る。
「あ、山尾君。お疲れ様」
すると、そこでは店長が休憩を取っていた。
「すみません、ホントはもっと早くついてたんすけど。そこで
「あぁ、うん。大丈夫。5分くらい別に。早く準備して下原さんと交代してあげて」
「はい」
店長は凄くいい人だ。穏やかで優しい。当日の2時間前くらいに休みの申請をしても対応してくれた時は最早驚いた。
「執筆はどうだい、山尾君」
「え?」
虚を突かれて、つい素で聞き返してしまった。
「小説、書いてるんじゃないっけ」
「あぁ、はい。まぁ、ぼちぼちです」
以前、学校でどんなことをやっているのか聞かれた時、小説を書いている、と言った。普通の人はそんな話をしても怪訝な顔を返してくるのだが、店長は「すごいね!」と感心してくれた。これで40半ばのおっさんじゃなくて、20代くらいの美人巨乳のお姉さんだったら確実に惚れていた。
「そっかー。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
「はぁ」
溜息ばかりついている気がする。幸せが逃げていくぞ、と
あぁ、誰かが俺に一生遊んで暮らせるほどの財産を譲ってくれないだろうか。
あぁ、空を見ていたら、美少女が降ってこないだろうか。
あぁ、駅前を歩いていたら、突然スカウトされてバラ色の人生が始まらないだろうか。
そうはならないから、俺は今もここにいるのか。
――クソったれ‼
腹の底から叫びそうになる。叫びたい気持ちを無理やり変換して、誰もいない部屋に「ただいま」とつぶやく。
「……クソったれ」
気が付けば朝。昨日はバイトが終わって帰宅するなりベッドにダイブした。スマホで動画を見ていたらいつの間にか寝てしまったらしい。スマホで時間を確認する。
「10時……」
10時。
……じゅうじ?
冷や水を浴びたように目が冴えていく。浴びた冷や水は冷や汗になって全身を濡らす。
「やっっっば、やばやばやばやば」
遅刻寸前である。というかこの時間にここにいるということは、学校に着くころには確実に遅刻だ。とはいえ、着替えやシャワーなど色々とやらなければならない。が、まず何よりやるべきは同じ講義を受けている友人への代理出席の連絡。
「牧野牧野まきのォーッ!」
名前を叫びながら電話をする。しかし、出ない。
「くっそ、なんのためにお前がいると思ってんだ、俺の代理出席の為だろうが!」
やがて電話は、無情にもコールを諦めた。
「うわぁ、肝心な時に頼りにならねーヤツめ……!」
時間を確認する。10時半までに学校に着くことはもう諦めた。が、出席した、という記録だけは諦めてなるものか。一応牧野に代理出席の旨を伝え、俺は必死で次の電話相手を探す。
「くっそ。アイツ以外に同じ授業受けてるヤツがわからねぇ」
すると、着信通知がポップアップした。俺は、反射でその着信に飛びつく。
「牧野! 悪い! 俺寝坊しちまって、2コマ目間に合いそうにないから代理で――」
『は? 今なんて?』
その声を聞いて、俺は改めて通話相手を確認する。
――山尾
「ゲェ」
『ちょっと⁉
俺が反射で通話を繋いだのは、救世主たる友人ではなく。
目下俺の夢の前に立ちふさがる、最大の敵だった。
「母さん。なんの用だよ」
ぬかった。普段なら、母親からの電話など全て無視。あとで適当に授業中だったとか寝てたとか連絡して済ませているのに。
『なんの用じゃないわよ! どういうこと⁉ 寝坊って言ってなかった?』
しかも聞かれた会話の内容も状況も最悪。
ついてねぇ。
「あーもーうるせぇな、なんでもねーよ。用がないなら切るぞ、じゃあな」
このままじゃ一日中説教を食らいそうだ。口うるさい両親から逃げたいがためだけに一人暮らししてまで東京の学校に出てきたというのに。
『待ちなさい! アンタ、まさか学校サボってるんじゃないでしょうね⁉ 小説家になりたいからって東京の学校に行くって言ってたのに!』
「サボってねーよ。昨日の夜遅くまで執筆してて今日の朝たまたま寝坊しちまっただけだって。そう言うわけだから俺急いでんの、じゃあ」
『ちょ――』
電話を切って、スマホをベッドへ投げた。
「いちいち電話してくんなよな」
俺は溜息と共に出席への執着も吐きだす。3コマ目には間に合わせるべく、シャワーを浴びることにした。
実家は、中途半端な片田舎にある。イオンはあるけど、ロフトはない。ツタヤはあるけど、タワレコはない。サイゼはあるけど、バーミヤンはない。そんな中途半端な場所。そしてそのどれも、車がないと微妙に遠い。
俺はその中途半端さが死ぬほど嫌いだった。
不便という意味でも嫌いだ。でもそれ以上に、中途半端に何かになろうともがいている様が哀れで嫌いだった。都会になるには、些か交通の便が悪すぎる。田舎というには、建物自体は不足なく揃っている。街を広げていくにあたって、過去の大人たちの迷走がそのまま表れている様だった。
そんなクソみたいにどっちつかずな街で、我が家は代々文房具屋を営んでいた。
とはいえ、この店も中途半端で俺は心底吐き気がする。文房具屋と言いつつ、子供の希望でお菓子や玩具も取り扱う。しかし、どれもこれもコマーシャルをやっているような有名なものではなく、やっすいパチモン。だから売れないし、在庫に溜まっていくばかり。
指摘したこともある。しかし、脳味噌の代わりにセメントが頭蓋骨の中身になっているクソ親父は、俺のいうことなど微塵も取り合わない。その親父の金魚のフンである母親も、親父のイエスマンに成り下がっている。
とっとと潰れてくれればいいものを、ゴキブリのような生命力で、辛うじて生計を立てられている。
道路を一本広い方へ出れば、車が行き交い、少し行けばコンビニがある。ウチで売っているものよりも、遥かに新しく、きちんとした文房具が売っている。お菓子や玩具も。
我が家は、着々と時代から取り残されている。
俺は、そんな家を継ぎたくなくて。そんな店を後世へ繋げたくない一心で、家を出た。
「プロの小説家になる。そのために必要な勉強をしたいから東京の学校へ行く」
一人暮らしをすれば口うるさい両親からも逃げられる。
俺は祖父母と担任を味方につけ、完璧に外堀を埋めた上で両親へ告げた。もうここまで来たら今更どうこうしようもなく、両親は仕方なく俺の一人暮らしと東京行きを認めた。
「……嫌なことを思い出した」
今朝珍しく両親から電話がかかってきたせいで、俺のテンションは朝からゼロ突っ切ってマイナスだ。俺がこっちへ越してきた時も、母親は頻繁に電話をかけてきた。始めのうちはちゃんと応対していたけれど、段々うっとおしくなって今や出ていなかったというのに。
「牧野に会ったらとりあえずぶん殴ろう」
風呂上りにメッセージを確認したら、牧野も寝坊して結局授業に行ってないという旨の連絡と、「すまんちょ♡」という舐め腐ったスタンプが送られていた。
別に牧野はいい。アイツに小説を書く才能はない。それに何より、本人は課題も出さないし、授業も休むし、単位は落とすしでやる気がない。そりゃ上手くなるわけがないのだ。俺は入学以来一度もアイツに成績で負けたことがない。
だが。俺は違う。俺は基本課題を出すし、授業も基本きちんと出ているし、単位を落としたことはまだない。俺の欠席1回と、アイツの欠席1回では重みが違う。
そんなことを考えながら、電車に揺られる。
周囲にいる、有象無象の歯車を見て、俺はなんだか悲しくなる。日々、誰に感謝されるでもないのに身を粉にして働き。そして歴史にも、誰かの記憶にも名前を残すことなく死んでいく。家族と親戚だけに悼まれ、出棺される。そして、その人のことを覚えている人が減っていくにつれて、誰もその思い出を懐古することが出来なくなる。
俺はそうはならない。
今頭の中で構想を練っている作品は、俺の知る限り今までにない新しい設定と展開の連続だ。これを形にして世に出せば、大ヒットする。そうすれば、俺は一躍有名人となり、バラエティに引っ張りだこ。作品はメディアミックスを繰り返す。俺は、ヒロイン役の美人女性声優と結婚。いや、実写化のヒロイン役の女優さんでもありだな。
ただ、これは
一発屋にならない為にも、この作品はまだ出さない。もっと設定を細かく練って、ゆっくりと熟成させるのだ。それまで、他にもいくつか思いついている作品があるから、それを形にして、少しずつ有名になればいい。
将来設計は完璧だ。
すると、スマホがまた震える。
「ゲェ、また母さんかよ」
今度は電話ではなくメッセージのようだが。やけにしつこい。いつもなら既読することすら憚られるが、これだけしつこいということは何かあるんだろう。
メッセージには、こう書かれていた。
『まひるちゃんが画家さんとしてプロデビューしたって、聞いた?』
一瞬情報の処理に手間取る。
「
根岸まひる。それは、俺の幼馴染の名前。時代に取り残された我が文房具屋のお得意様であり、昔からずっと絵を描き続けていた。今でも画家デビューを目指してずっと絵を描き続けてる、とは聞いていたが。
俺はなんとなく、彼女の名前を検索欄に入力してみた。
すると、もう既にウィキペディアも出来ている。ニュースを見ると、そこには成長してはいるものの、昔の面影をありありと残した幼馴染の顔と、「若干20歳のマルチイラストレーター!」の謳い文句。どうやら、SNSやネットでは既にそこそこ有名だったらしい。
「……幼小よりずっと絵を描き続け、今や場所や画材を選ばず、どんなものでも完璧な仕上がりの絵を描くことが可能に……。……また、題材も制限なく、静物から動物、リアルな風景から幻想的な風景までお手の物……」
インタビュー記事と共に掲載されている絵は、全て同じ人間が描いたとは思えないほど、多種多様な物ばかり。リアルなものを描くことも得意であり、風景や動物は写真と見紛う程のクオリティだ。
「これを、アイツが?」
幼馴染とは言え、俺は彼女のことを良く知らない。というのは、家業が嫌いな俺は店番をしないし、彼女は彼女で基本的に家に籠って絵を描いていたから。学校で会った時も、ずっと自由帳に絵を描いていた。毎日ウチに来て自由帳を買っては、次の日には新しいものになっていた気がする。それくらいずっと絵を描いている変人だった。
『アンタは何してんの? ちゃんと勉強してんの?』
メッセージでまで説教か。
「ちっ。うるせぇな」
思わず小さく声に出る。
『まひるちゃんは夢を叶えたんだし、アンタも頑張らないと』
「……それとこれとは別だろ」
何も知らない素人は、全部一緒くたにしやがる。絵でプロになるのと、小説でプロになるのなら、小説の方が圧倒的に狭き門だ。絵なんて、いくらでも仕事がある。適当にプロを名乗れば、もうそれでいいのだ。しかし、小説はそうもいかない。出版されなくちゃならないのだから。
『ということで。アンタ、来年までに結果残しなさいよ』
「――――…………は?」
『来年までに何の結果も残せなかったら、仕送りは無しになるから。あと、携帯料金、電気ガス水道料金、家賃、学費も全額自分で支払え』
思いきり叫びそうになって、やはり寸止めをする。
は?
バカなのか、コイツは。
仕送りをやめる? いや、それ以上に。結果を残せ? それはつまり賞を取れ、とかそういうことか。来年まで?
「は?」
俺は母親に抗議のメッセージを入れる。
「来年までに賞を取るなんて不可能だ。そう簡単に取れるもんじゃないし、第一、長編小説一本書ききるのだって時間が必要なんだ。そんな思いつきでどうこうなるものじゃない。」
すると、返信は間髪入れずに返ってきた。
『知らん。これはお父さんと決めた決定事項』
「はぁあああああ⁉」
口元を手で覆う。周りを見たら色んな人と視線が合いそうだから、それはやめておこう。
俺が今まで適当な生活をできたのは、親からの仕送りがあったから。それが突然なくなるということは。というか、俺の生活の全てが立ち行かなくなる。
「……終わった」
「あはははははははははっ‼」
軽快な笑い声が講義室の喧騒に混ざる。
「おい笑いすぎだ。ぶっ飛ばすぞ」
「いやぁ、すまんすまん。面白すぎてついな」
その話をしたら、牧野は腹を抱えて笑った。
「で? どうすんの、お前」
「どうするったって……」
「まさかそのままってことはないだろうけど……。説得すればなんとかなる感じなん?」
「いや……。親父はクソみたいに頭固いから、一度言ったことは曲げねぇ。どんだけ説得しても、だ」
「ほーん。じゃあ、マジでデビュー目指すの?」
「――……」
元々そのつもりでここにいるんだろ、と言おうとして辞める。牧野は入学してすぐくらいの時に、芸大なら遊べそうだし、この学科は一番楽そうだから、と言っていた。小説なんてほとんど読んだことない、とも。
「それにしても、今すぐどうにかなる話じゃない」
「だよなぁ。今のお前の実力じゃ、1年どころか2万年かかっても難しいと思うぜ」
「は?」
「いや、お前の作品ってさ、なんつーか、どれを読んでも同じというか。もちろん内容は違うんだけど。作者がやりたいことをそのまま詰め込みました、っていう感じがするんだよな。悪く言えばオナニー。まぁ、逆に主人公のキャラクターは徹頭徹尾ブレないからそこはいいと思うんだけど……」
俺よりも遥かに成績が悪くて、やる気もないやつに、知った風な口を利かれることがここまでイライラすることなのか。憶えておこう。プロになったらこんなやつを相手にしていかなきゃいけないってことだ。改めて世の中のプロ作家たちを心の底から尊敬する。
すると、教授が講義室に入ってきた。
そして粛々と授業が始まる。
「なぁなぁ。教授に個別指導してもらってデビューを目指すっていうのは?」
牧野が耳打ちをして来る。
「それももちろん考えたけど。でも、教授ってただでさえ色々な作品読んでて忙しいだろ? それでいて人によって作品の得意不得意もある。時間がないんだから、得策ではないだろ」
「まー、そうかぁ」
とはいえ。他にやりようがない気もするのだが。
すると、教授が学生の名前を呼んでいた。
「あー。この間の作品の投票結果か」
「あれか」
俺の在籍する学科では、定期的に小説を書いて、それをクラス内で投票、順位付けをすることをやる。俺はその投票で、毎回微妙な票数を獲得するものの、トップスリーに入ることは一度も叶わない。
「1位はやっぱ
「まぁ、だろうな」
孤高の天才、林部
「すげーよなーあの人も」
「……まぁ」
今回の投票も、適当に目についた人に投票した。林部さんにも投票したが、それは安牌だったからだ。作品を読んだわけじゃない。
「前読んだけど、いまいち乗り切れないんだよなぁ」
その原因が何なのかは、所詮学生の原稿だから分析するまではない、と分析していないが。
「あの人の作品は、お前とは真逆だからなぁ」
「え?」
「林部さんの作品って、それぞれ違うテーマで違うことを描こうとしてるせいなのか、主人公がブレたりするんだよ。途中で目的が変わったり、手段と目的がひっくり返ったり。まぁ、本人が一番わかってるだろうけど。その証拠に少しずつ改善されつつはあるし」
「お前、ちゃんと読んでんのか」
「まぁ。そりゃ。それにほら、あんな感じで、1位とっても釈然としない表情してるだろ?」
指摘されて林部さんの顔を注視してみると、確かにしかめっ面をしている。
「そうだ、林部さんにアドバイスをもらうのは?」
「は?」
「さっき言ってただろ? 1年で賞を取るって。俺前から思ってたんだよ。お前と林部さんが組めば最強だなって」
無責任な。それに、何もしていないヤツがそれを言ったところで微塵も説得力はない。
「林部さんだって色々忙しいだろ。俺なんかにかまってる暇ないよ」
「まぁそれはわかってるけどさ、とりあえず、1回聞くだけ聞いてみようぜ?」
「おい、話を聞けよ」
講義が終わり、休みになるが早いか、牧野は席を立った。
普通、女子はこういう時間に何人かでまとまって色々と話をしているから近づきがたいのだが。林部さんは、いつも1人だった。誰かと一緒にいるのを見たことがない。曰く、望んでそうしているとか。とにかく、だからこそ「孤高の」天才と呼ばれるわけだ。
「林部さん、ちょっといい?」
おい、牧野の野郎マジで声をかけやがった。
「なに?」
俺は遠巻きのその様子を窺う。林部さんの態度は、明らかに敵意を向けられているものだ。もしおかしなことになりそうなら、その場からすぐ逃げられるようにしないと。
「林部さんさ、今回も1位だったじゃん? 流石だね」
「別に」
死ぬほどぶっきらぼうだ。なんであんなに他人に敵意を放てるのか、俺にはわからない。俺が他人に敵意を持たないということでは断じてなく、それを直接人にぶつけられるのがおかしいという話。
「でさ、俺の友達……、山尾にさ、小説の書き方を教えて欲しいんだよ」
「誰?」
誰、と来たか。一応同じ教室でずっと勉強してきたはずだが。
「アイツアイツ」
牧野が俺を指さす。林部さんは、俺をちらりと横目で流し見して、すぐまた興味なさげに視線を戻した。
「ちょっとやんごとなき事情で、来年までになんでもいいから賞を取らなくちゃいけないんだよ。だから、その手伝いを――」
「イヤ」
そりゃそうだ。ものの見事に一刀両断。さて、ここから牧野はどう出るか……。
「そう言わずにさぁ。そりゃ林部さんも忙しいだろうけど、そこを何とか」
「イヤ」
林部さんは荷物を片付けて、立ち上がった。
「じゃ、私あなたたちみたいに時間を無駄にする趣味はないから」
くるりと振り返って、講義室の出入り口へ歩き出す。すれ違いざま、一瞬目が合ったような気がしたが。
「……俺なんかしたっけ」
目が合ったというか、一方的に睨みつけられた、という方が正しい。
すると、牧野は講義室の外へ行った林部さんを追いかけて行く。
「なんでそこまで……」
俺も一応追いかける。
扉のすぐそばで、2人は話をしていた。
「林部さんに足りないモノを、アイツは持ってるんだよ」
「どういうこと?」
そんなの俺が聞きたい。
「林部さん、自分でわかってるよね。自分の作品の欠点」
「……」
さっき言ってた主人公のキャラがどうとかいう話か。
「それが何?」
「アイツの作品、読んだことある?」
「ない。そんな無駄な時間はないから」
「アイツの書く主人公は、どれだけ長い文量の作品になっても最後までブレない」
「――!」
「あとは、言わなくてもわかるでしょ?」
「要するに、私にもメリットがあるって話でしょ?」
「そう」
「あっそ。でも別に関係ない。じゃ」
「え?」
これは上手く口説けた流れだと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。林部さんは目もくれずにすたすたと歩いて行ってしまう。
さっきから応対をしているのは牧野だが、俺の話をしていてこうもぞんざいに扱われると、流石に腹が立ってくる。
「おい!」
俺は思わず、林部さんを呼び止めた。
「……何? まだなんかあるの?」
その目は、敵意を超えて殺気すら感じる。
「なぁ、俺が何したって言うんだよ。教えてくれよ」
申し訳ないが、今まで林部さんとまともに会話をした記憶などない。だというのに、知らないところで知らない間に株が下がっているのは些か不快だ。これで、顔が生理的に受け付けないとか言われたらどうしようもないが。
「なぁ?」
すると、林部さんはより一層眼光を鋭くさせた。
「何もしてない」
「はぁ?」
それだけ言い残して帰ろうとするその姿に俺はいい加減気分が悪くなって、林部さんの左腕を勢いよく掴んだ。
「――っ!」
「おい! 何なんだよ、何もしてないって!」
「離して」
「確かに林部さんは天才だから、俺の気持ちなんてわからないだろうけど――」
すると、林部さんは振り返るなり過去最高に怖い目をしながら振り返る。そして、右手を振りかぶった。反射的にビンタされる、と回避を試みるが。
ドスッ。
「う”っ」
――は、腹パンだと……⁉
「この――ッ! 離せ!」
勢いよく腕を振りほどき、そしてその勢いのまま繰り出された左ストレートが、俺の顎を撃ち抜いた。
あまりに突然の二連撃に、俺は思わずその場に倒れ伏す。
「……いっ……てぇ……」
そのまま、林部さんを見上げる。彼女もまた、肩で息をしていた。
「舐めんなよ!」
びりびりと鼓膜が震える。俺は急な怒号に思わず固まってしまう。
「何もしてないヤツが偉そうにペラペラペラペラペラペラと! キモいんだよ! あんたの気持ちなんて考えたくもないし、知りたくもない!」
大声を上げたことで、講義室や他の階から人が集まってきてしまう。
「来年までに賞を取るだ? どんな事情があるのか知らないけど、何もしてないヤツが今から間に合わせで何かしたところで何にもならないんだよ! 命がかかってるっていうならそのまま死ね!」
この状況はまずい。男子大学生が同じクラスの女子学生にワンツーで沈められた挙句、大説教を食らっているように見えてしまう。
「あんたと関わることで失う時間と、それに見合った対価があるとしても、私はその倍の時間をかけてでもあんたと関わらずに同じ対価を得られる道を選ぶね!」
あまりの剣幕に、俺も、見物しに来た野次馬も、何も言えない。
「才能だ、なんだって他人の努力をまとめて推し量るんじゃねぇよ! 世の天才と呼ばれる人間の努力以上のことをあんたはしたのかよ⁉ あんたが批判する作家以上の努力をしたのか⁉ 何もしてないくせに偉そうに語ってんなよ‼」
そう言うと、林部さんは階段を下り始めた。
「才能っていうのがあるんだとしたら、今のあんたに物書きの才能はねぇよ」
そして、そう吐き捨てると、さっさと帰って行ってしまった。
激しく、後悔した。そして、恨んだ。
無責任にこんなことを進めてきた牧野も。急にぶん殴ってきた林部さんも。そこら辺でずっと見ていたやつらも。
「ふざけんなよ」
とっくに身体は正常だったけど、俺はしばらくそのまま階段に倒れ伏していた。コンクリの地面に、弱々しく吐きだすくらいしか、俺に出来ることはなかった。
何もやる気が起きないな、と思えば、じゃあ今まで何かにやる気が起きたことあった? と聞き返してきやがる俺の心。
あれからバイトも学校も行かずに、3日が経過した。
というか、学校であんなことがあった後じゃ、行けない。牧野とも、あれ以降連絡を取っていない。3日の間に締切の課題もいくつかあったが、全部出していない。
なんだかもう、どうでも良くなってきた。
俺は、特別になりたいと思っていた。
両親の有様を見て、世の中が便利になって行き、やがて人々から忘れ去られる存在の愚かしさを感じた。同時に、その恐怖を覚えた。俺はそうはならない。なりたくない。そう思った。小説というものを選んだのは、一番楽そうだったから。別にそれ以上の理由なんてない。
何となく進み始めた道。
何となくやり始めたこと。
何となく学んできたところ。
そう考えると、俺がどうでも良くなって全部諦めたところで、失うものなんてない気がしてきた。なら、今ここにいることに何かメリットがあるだろうか。
「……帰るか」
いつも、長期休みになっても帰省していなかった。なんでもないタイミングで、家を出たっきり帰ってこなかった息子が帰ってきたら、どんな反応をするだろうか。
そんな風に考えながらも、駅から自宅までの道をゆっくりと歩いていた。
「駿斗君?」
すると、突然誰かに声をかけられた気がした。声の方を向くと、ついこの間、ネットニュースで見た顔がそこにいた。
「根岸」
根岸まひる。顔を合わせて話をするのは、中学校卒業以来か。それ以降も、彼女はウチへ買い物に来ていたが、俺は数えるほどしか会っていないし、会っても大した会話もしていなかった。
「久しぶりだね!」
「あぁ、うん」
俺は、彼女をバカにしていた。頻繁に来ては、毎度違うものを買っていく。手を変え品を変え、色々な絵を描いて自分に合っているものを探しているんだと思っていた。そしてそんなことをしても、デビュー出来るヤツは出来るし、出来ないヤツは一生かけても出来ない、と。それが結果、どんな画材でも、どんなものでも描けるから仕事の幅が広がるところへつながっていたらしい。
昔までと変わらない面影を残しながら、昔までとは違って、成功者になった彼女を、俺は直視できなかった。
「帰って来てたの? 東京の大学に行ったって聞いてたけど」
「あぁ、まぁ」
彼女はずっと地元の美大に通っている。俺はそれもバカにしていた。本気でクリエイターを目指すなら、東京へ出るべきだ、と。だが蓋を開けてみれば、出て行った俺は埋もれ、この街にいた彼女はデビューした。
「あ、そうだ。ねぇ、聞いてよ。私さ、イラストレーターとしてデビューしたんだよ。なんと本の表紙を描かせてもらうことになって。これはまだオフレコな話だけど、画集の話も出ててさ――」
「そうか」
楽しそうに話をする彼女が、俺は酷く性悪に思えてならなかった。
「駿斗君は? どう? 東京」
「まぁ、それなりだよ」
「えー? そんなことないでしょー。いいなー、東京。私も行きたいなぁ」
「こことそんなに変わらないよ」
彼女の言いようが、かつての自分のようで、しかし決定的に違うことを同時に突き付けられて、苦しい。
東京へ憧れ、そこへ行けば、どうにかなると思っていた。何かになれる、と。でも、実際住む場所が変わっても俺は俺のまま。逆に、彼女はここで夢を掴んだ。
「……何が違うんだろう」
「え?」
「あ」
しまった、口に出してしまった。
「いや。なんでもない」
「ふーん。ねぇ、今時間ある?」
時間など無限にある。両親への言い訳が思いつかない以上、実家に帰ることすら憚られるのだから。問題は、コイツが何を企んでいるか、だが。
「ちょっとついてきてよ」
根岸に連れられて、俺は駅の中にある展覧会を見に来ていた。
「ここに私の作品が飾ってあるんだよね」
自慢か。
平日の昼間だというのに彼女が駅前にいた理由もわかった。
「何なんだよ」
そもそもコイツは何で俺に構っているのか。コイツと俺の両親は確かに仲が良かった。でも、俺とコイツはそんなに良く話すわけでも、お互いのことを知っているわけでもない。小中と同じ学校だったが、会話もそんなにしていない。
「駿斗君に見てほしいものがあるんだよね」
「はぁ?」
やがて根岸は、一枚の大きな絵の前で立ち止まった。それは、色あせた建物の絵。
「これって」
その大きな絵に描かれていたのは、忘れるはずもない、忌々しき我が家。
「なんでこんなモン」
見せたんだ、と描いたんだ、が同時に去来して、言葉に詰まった。すると、根岸は「やっぱり知らないんだ」と言う。
「何が」
「山尾文具さん、経営難で閉店に追い込まれてるんだよ」
根岸の口調は、別に俺に説教をするわけでも、教え諭すでもなく、ただ淡々と事実を告げるようなものだった。
「まぁ今時文房具を買うために文房具屋に行くことはあんまりないしな」
「うん、そうだね」
そう語る彼女の目は、なんだかどこか懐かしむような、そんな目だった。
「この絵、あの文房具屋さんで売っているものだけで作ったんだ」
「……へぇ」
その絵は、絵の具で描かれているところもあれば、シャープペンや鉛筆で描かれているところ、マジックペンや筆ペンで描かれているところもあった。他にも張り紙や切り紙、玩具のパッケージのモザイクアートのような箇所もある。
「お店がなくなるのは悲しいけど、私に出来ることはないし。だから、こうやって私に出来ることで、私の残したいものを残そうって。その為に絵を描き続けようって」
「残したいもの」
「今日これを駿斗君に見せたのは、別に家を継がなかったから、とか親御さんの苦労を知れ、とかそんなお説教がしたいわけじゃないんだ。こういうものがあったんだなっていう記憶を、君の中に残したかったから」
「……」
俺は思わず、思ったことをそのまま口に出す。
「そんなことをしてなんの意味があるんだよ」
根岸は、笑うでも、悲しむでも、驚くでもない。当たり前のことのように、こう返す。
「意味なんてないよ」
「え?」
「意味なんてない。でも、意味がないから、意味を創るために、創作ってあるんじゃないの?」
「どういうことだよ」
「私の目から見えた世界。私の想像した世界。そういうものを、自分の手で形にして、世に出す。後世に残す。その為に、私は絵を描き続ける。その行為自体に意味はないよ。誰でも出来ることだし。でも、私が、私のためにやるから、それは私にとって意味のあること。私がやり続けることそのものに意味があるの」
「自己満足ってことか?」
「まぁ、そうだね。私は自分が楽しいから続けてこられた。続けてこられたから、今こうして色んな人に見てもらえる。自分が楽しくないことなんて続かない。続けられなくちゃ意味がないって思うんだ」
そう言われて、また俺は俺を否定された気がした。
「そんなことないだろ。踏み出す一歩が大切だって言うし」
「歩幅は才能なんだよ。一歩でゴールまで行ける人は、才能のある人。でも、普通の人はそうじゃない。最初の一歩だけじゃ、ゴールまでなんてたどり着けない。歩き続けなくちゃ、歩き始めた意味もない」
チクチクと、東京での出来事がフラッシュバックする。
「聞いたよ。プロの小説家になるって言って東京に行ったって」
「――‼」
「おじいちゃんおばあちゃんを味方につけて、担任の先生にも言って。駿斗君のご両親は、そこまでしたってことは、それなりの覚悟があってそうしたんだろうって」
「嘘だろ?」
「反対したのは、自分たちの稼ぎで4年間通わせきれる気がしないから。公立の大学なら学費も安いからと思ってたのに、って」
そんなこと、一度も聞いていない。
「なんでここにいるのか、私は分からないけどさ。やることあるんじゃないの?」
一体彼女は、どこまで知っていたのだろうか。単なる偶然なんだろうか。
分からないけど。
俺の中の我が家の思い出は、いつも色あせていた。彼女の絵を見て、きっとその記憶に間違いはないんだろう、と確信した。
色あせていくものは、やがて朽ち果てるものだと思っていた。
今、俺に出来ることがあるとすれば。否、やるべきことがあるのだ。
泥の中から這い出す。そして、その足跡を続けていく。曲がっても、寄れても、途切れないように。そうすることが、自分にとって意味のあること。
どうして、小説を選んだのか。
書くことが好きだったわけでも、読むことが好きだったわけでもない。
ただ、妄想が好きだっただけ。それだけ。オナニー上等。
足跡は、確かに続く。
底辺の泥漿 鈴龍かぶと @suzukiryu
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