その“アイ”は何を視る
押田桧凪
第1話
国立動物愛護センターの管理するオランウータンが失踪した。夜の巡回をしていた観察員が、檻の中にいないことを発見し、様子を見ようと立ち入った際、何者かに激しく殴打され死亡。その時、屋外に設置された監視カメラは修理に出されていた。現在、当局は捜査を進めている。
◇
「教授、都内で相次いで発生している連続猟奇殺人についてですが」
聞き込み調査を任された新人刑事──初瀬
「監視カメラからは犯人と思われる人物は見つかっておらず、奇妙なことに被害者はいずれも不可抗力のような何かによって圧死しています。それから、現場に残された音声データからは獣のような声が──」
テーブルの上に端末を滑らせ、そのディスプレイに表示された再生ボタンを押す。
〈ճ ࣮ʣ ̍ʣιϦϡʔγϣ!〉
「やはり、猟奇殺人は先日のオランウータンと何か関連があるのでしょうか」
生物進化に詳しい専門家、菱川教授は生気のない声で静かに言った。
「犯人は、オランウータンだ」
「ですが、オランウータンは元来、序列や競争に無頓着で平和な動物のはずでは?」
教授はやれやれと聞き流しながら、大袈裟に顔をしかめた。
「ああ。だが、考えてみてほしい。違法伐採、密猟、アブラヤシの栽培。これまで人間様は彼らの棲みかを切り開いてきた。今では絶滅が危惧されている。オランウータンは我々人類に強い敵愾心を持って当然だ」
「実際、過去に東南アジアのジャングルの奥地でこれまで何人もの変死体が発見され、その惨状は今回の事件と符合している。これは、オランウータンの報復だ」
教授は、にかっと八重歯を覗かせて笑い、有無を言わせぬ言葉で押し切った。けれど、その目は笑っていない。ひとつ咳払いを挟んで、続ける。
「でもね、初瀬くん。今問題にしているのはオランウータンが人を殺せるか、ということでも、こうして女性をくん付けで呼ぶことがセクハラにあたるか、ということでもないんだ。何せオランウータンの握力は人間の十倍以上で、ヒトを捻り潰すことなんてお手の物だからね」
教授ははぐらかすように、ははっと笑った。初瀬は入り混じる感情を抑え、自分の責務を思い返し、神妙な面持ちで尋ねた。
「では、どうやって殺したのか、ということですね」
教授はそれに応えるように、手を叩いてわざとらしい音を立てた。
「そう! そして、答えは簡単。──オランウータンは、透明になった」
神話になった、とでも言うように昇天する存在を眺めるように天井を見上げ、そう呟いた。
「──は?」
気の抜けた声が思いがけず、口を突いて出る。とうめい?
「進化だよ。何らかの変異で、透明になるのに適した体になった。詳しくは、解剖してみないと分からないが」
ごく自然の理を説くように言う。教授は余裕をにじませた軽快な口調で、淡々と続けた。
「それから、透明になると一つ欠点があってね」
「はあ」
「オランウータンは、失明しているんだ。透明な物は、それと同じ屈折率の媒質に入れると見えなくなる。体全体が見えない物質に変化するということは、目の屈折率も空気のそれと同じになるということ。だから、網膜まで届いた光をとらえることはできないんだ。まあ、オランウータンは目が見えなくても、野生の感覚を以てすれば、人間を捕らえて殺すことなどお安い御用だがね」
教授はガンジーを思い出すなあ、と言って懐かしむように目を細め、乾いた笑い声を漏らした。
「……というのは?」
「彼は言った。目には目を、という報復は世界を盲目にするだけだ、と。はっ。まさにこれが、視力を失ってまで進化を遂げたオランウータンのふくsyy────」
〈≋ᅈᢿᧈʣιɦ≚≌!〉
それを言い終える前に、みしっと床が軋み、一瞬のうちに視界が歪んだ。
教授の顔からは血の気が失せ、すでに悟りきった表情をうかべている。状況を把握する間もなく、次の瞬間、聞き覚えのある声が音となって響き、背後に大きな影が蠢いた。
闇に吞み込まれ、二人はその暗さに慈悲を見た。
その“アイ”は何を視る 押田桧凪 @proof
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