雨が止むまで

雲咲ましろ

雨が止むまで



ある雨の日。その日は休みで僕は晩酌を買いに外へ出ていた。傘を差し川沿いを歩く。アスファルトはこの雨にで落ちた桜によって淡いピンク色に染まっていた。今週末の会社の花見はどうするのだろうか。

  ポタ ポタ

 どこからか不自然な水の滴る音がした。辺りを見回すと一本の桜の木の下にこれまた不自然な雨の流れがある。よく見ると雨が人の形をなぞっていた。まるでそこに人がいるかのように。恐ろしさに好奇心が勝った僕はその影の方へ向かう。影の横に立ち傘を傾ける。

「あの」

影の場所からか細い声がした。

「なんでしょう」

知らないふりをして僕は尋ねる。

「私の事見えてるんですか?」

声からして女だろう。足元を見ると彼女が立っているであろう場所の花びらが潰れている。

「見えてないですよ」

「え…」

思っていた回答と違ったのだろう。彼女は驚いた声を出しピチャッという足音と共に後ずさった。

「じゃあ、どうして…」

「雨です」

「あめ?」

ビチャッと濡れた髪が動いた音がした。意味が分からず小首をかしげたのかもしれない。見えない彼女を想像し、少し笑った。

「あの」

「あぁ、すいません。あなたのところだけ雨が弾いてるように見えて気になったので」

僕はそう言って彼女にハンカチを差し出す。音もなくハンカチは浮き上がり僕の肩より少し上くらいで円形に動く。そこが頭だろうか。

「なるほど。傘にハンカチまでわざわざありがとうございます」

声がすると前から水滴が飛んできた。

「今、お辞儀しましたか?」

「えっええ。…っそういうことでしたか。本当にすいません」

「いえいえ」と笑い僕は顔についた水滴を袖で拭う。その後しばらくハンカチが上下し布が擦れる音がすると、綺麗に折りたたまれ僕の前に差し出された。

「ありがとうございました」

声色から微笑んだのが伺える。僕はハンカチを受け取るために手を伸ばした。その時だった。滑らかで細く、氷のように冷たい指が平に触れた。

「すっすいません」

僕は勢い良く手を引っ込める。その拍子にハンカチが手に引っ掛かり、ボタッという音とともに地面に落ちた。

「すいません」

スルッとハンカチが持ち上げられる。互いに謝り続けるとゴツンと鈍い音がして頭がぶつかる。顔を上げると見えない彼女と顔を合わせて笑った。

「このままでは謝り終わらないですね」

「本当に」

その後は他愛もない話をし再び笑いあった。

「こんなに楽しいの初めてです」

「僕もです」

「見つけてくれてありがとうございます。」

「それは雨に言ってください」

むず痒いような感覚が全身を走る。

 僕は彼女に二番目に聞きたいこと聞いてみることにした。

「触れてもいいですか」

二人の世界が静まり、雨だけがシトシトと音を立てる。しばらくしてピチャピチャという音が近づいてきた。何かと思うと突然、冷たい手のひらが僕の頬に触れた。

「どうぞ。」

僕はその手を取った。ちゃんと指が五本ある。人間の手。腕をたどると布に触れた。ハンカチで拭いているときも思ったがどうやら服は着ているようだ。そのまま上へあがり、輪郭をなぞる。僕の手が冷たいのか、時より「んっ」と色っぽい声を上げる。

 彼女は人間だった。


  ―透明なこと以外—


「ありがとう」と言いながら顔から手を離す。彼女の顔から離れてもまだひんやりとした感覚が残る。

「気持ち悪くないんですか」

彼女は聞いてきた。そこには多くの意味が含まれているだろう。

「全く。普通の人間だよ」

再び沈黙が訪れる。しばらくすると彼女が鼻をすすっている音がした。今まで彼女にどんなことがあったのか。言われなくてもなんとなく想像がついた。もっと早く見つけてあげられたら。心の底からそう思った。

 ふと腕時計に目を落とすと家を出てから二時間が経っていた。雨模様で分かりにくいが日が落ちかけているのが分かる。

「暗くなってきましたね」

僕が空を見てることに気付いたのか彼女はそう言った。僕が帰ったら彼女はどこへ帰るのだろう。

「すいません。そろそろ帰らないと」

彼女を連れて帰ることは出来ない。胸が申し訳なさと悔しさでいっぱいになる。

「謝らないでください。あなたは何も悪くないんです」

彼女の声はどこか寂しそうだった。

「今度は晴れの日に会いましょう。ゆっくりあなたと散歩がしたいです」

姿が見えない彼女が黙ると、いなくなってしまったのではと錯覚してしまう。少しして彼女は口を開いた。

「嬉しいです。嬉しいんです。でも…雨でないと、きっとあなたは私を見つけられない…」

「見つけます。必ず。だからこの木の下で待っていてください」

僕は枝が特徴的に曲がったすぐそばの桜の木を指した。

「…わかりました。必ず、見つけてください。私、待ってますから」

「もちろんです。次の晴れの日に」

彼女の前に手を差し出す。その上に冷たい手が重なる。その手を握り「必ず」と念を押す。彼女が握り返してくれたのを感じながら僕は微笑んで手を放す。するりと指が抜ける。

「では」

「はい。待ってます」

僕はその木に背を向け、家に向かって歩き出した。

 その後三日間、雨は続いた。会社の花見は中止。その間、僕は仕事に身が入らず、ずっと見えない彼女におもいをはせていた。こんなにも一人の女性を忘れられないことがあっただろうか。


五日ぶりの陽の光を浴びながら出勤をする。今日だ。ついに彼女に会える。昨日までと打って変わり、仕事に精を出し定時に会社を出る。駅に着くとそのまま電車に駆け込む。ジャケットを腕にかけ外を見る。まだ空は明るい。

最寄り駅で降り、階段速降り選手権があれば優勝できるのではというペースで駆け降りる。家に帰らずまっすぐ河原に着くと四日前とは違う景色が広がっていた。あろうことか桜の木の枝が切り落とされていた。思えばマンションの掲示板に剪定作業を行うと書かれていたポスターが貼ってあった。目印もなく延々と続く河原に僕は目先が真っ暗になった。目印もない、姿も見えない。肩を下ろしたとき一つの考えが浮かんだ。名前を呼ぼう。手を口の横に置き、息を吸う。しかしそこで気が付いた。知らないのだ。彼女の名前を。僕は彼女が存在していることしか知らない。息を止めていたことを思い出し、むせてしまう。

「雨でないときっと、あなたは私を見つけられない」

彼女は最初から分かっていたんだ。あれが別れだと。影もない彼女を見つけることはできない。僕は落胆し空を見上げる。理不尽にも空はよく晴れ渡っていた。

「どうして透明なんですか」

僕は彼女に一番聞きたかった言葉を口にした。

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