長い付き合いのサキュバスと


 俺の人生は、魔女と悪魔に支配されていた。


 集団子供誘拐事件、通称『ハーメルンの笛吹』。

 当時12歳の俺は笛の音色に誘われて、岩の向こうに連れ去られた。子供達の中では最年長だった。……おれはまだ子供だと判定されたのか。あるいは俺自身が幻想の中に捕らわれていたからか……。

 そして俺は、社会を知った。母の語る理想論では到底身動きができない状況を。

 とんでもねー女がいたのだ。

 そう、サティン……。その響きを思い出すだけで、あの微笑みが頭に浮かぶ。


 綺麗で不思議な音色を辿り入った先の、岩の中。そこは幻想の世界。地底の国。ほんのり暗くて温かくて。食べ物は笛の主が持ってきてくれて。岩でできたマンションに、地底で飼われている羊に分けて貰った毛でベッドを拵えて、昼も夜も分からないまま眠る。天井には色とりどりの宝石が星のごとく光を湛えていて、どうしても眠れないときはマンションの屋上でそれを見つめるのだ。


 ああ、あの女に会ったのは、そんな日だった。どうしたって寝付けやしない夜。

「私たち、ここで毎日たくさん遊べるわ。自由にいられるわ。でしょう?」

 彼女はそう言って、俺の隣に座った。

 彼女は子供には見えないほど美しく、大人びていた。声や仕草や、挙動の一つ一つに心を奪われた。

 俺は母の言いつけ通りに、女の子に優しくした。羽織っていたシーツを彼女の肩に掛けてやった。

 だけど彼女はそれをたたき落とした。

「でも、ここには唯一の絶対的なルールがある。『嘘をついてはいけない』」

「…嘘? 誰が?」

「貴男、今自分に嘘をついたでしょう? 寒いくせに粋がっちゃって」

「えっと……」

「だから、やるべきことはこうなの」

 そうして二人で一緒にシーツにくるまる。それがとても暖かったことを、俺は今でも覚えている。

「私サティン。貴男は?」

「僕は、オリバー」

「オリバー。確か、オリーブが由来だっけか。私オリーブ好き」

「……君の名前の由来は?」

 彼女は笑って、それから耳元でそっと囁いた。

「大悪魔サタンと、忌み数サーティーン。酷いセンスでしょ?」

 かなり酷いセンスだ、とその時の俺は深く思った。

 今? 今は、とても似合うと思っている。

「……君の両親って、その、」

「やばい、でしょ?」

「う、うん」

「でももういないわ。ここにいる限りね。貴男もそうでしょう」

「……うん、そうだね」

「それにしても貴男。なんだか、不思議な匂いがするわ」

「えっ、そ、そうかな。お風呂に入ったばかりけど……」

「いいえ、違う。これは……呪いの匂いね。どうりで私が気になるわけだ」

「……?」


 小さいときからもだったが、成長していくとサティンのやばい女さは増していった。

 子供の地底大国が、だんだんティーンエイジャーの地底大国になる頃。

 そこは彼女の為の国になった。

 彼女の一言二言の言葉で誑かされる男達。それに嫉妬する女達。

 女達に殴りかかられるサティン。逆に殴るサティン。血塗れの顔が並んで、奇妙だった。

 そして、それらをただじっと見つめる俺。

 見つめている間、俺は別の女のことを思い出していた。岩の中に来て以来、一切思い出さなかったのに、何故かその時は。

 地底に響くヒステリックな声、暴力の音。そのどれもが、懐かしかった。


 ***


「どうよ~?」

「どうって……何これ?」

 天使の目の前には分厚い量の原稿用紙があった。

 サキュバスは一番上の紙を手にとって、ひらひらと天使に見せびらかす。天使はそのことよりも、彼女の手袋が良い素材のものを使っているなぁなどと思った。完全にこの原稿用紙に、興味がなかった。

「あたしの下僕第一号、渾身の作。なんていったっけ……ああ、自家出版。どっかから本として出そうと思っててね」

「……ふぅん」

「あら、また焼かれるかと思ったのに。やらないの?」

「人間の行いや営みにはあんま関与しない方針なんだよ」

「こないだの坊やにはコーヒーおごってたじゃない」

「……うるさいな」

「きゃーこわいこわい」


 ***


「ね、オリバー」

「何だい」

「私が地底を追い出されるのは納得よ。でも何で貴男まで?」

「僕も同罪だって、笛吹王に言ったからさ」

「……え、どうして?」

「君のおかげで分かったんだ。嘘のある世界も、ない世界も、地獄に変わるときは変わる。だったら、もう少し広い世界に出てみたい」

「ふふ、私と一緒にぃ?」

 したり顔で彼女は俺の顔を覗く。

 俺はちょっと照れつつも、頷いた。


 そのとき俺は、彼女に好奇心を抱いていた。あまりにも罪深い彼女に。

 だから一緒にいたくなったんだ。


 サティンは外に出てからもやばい女だった。

 街の片隅で一人で出歩いている男をひっかけると、人気のない路地裏に連れて行き、男が警戒心を無くしたところを俺に襲わせた。後ろから棍棒で頭を一殴りだ。

 気絶した男から身ぐるみ剥いで金を稼ぐ。これで何人も何年も、色んな街でやってきた。


 だから、警察に捕まりそうになったときもあった。

「あははオリバー、こっちよこっち! あははっ!」

「何で笑ってんだよ!」

「だって面白いんだもん、あんたの汗塗れの顔!」

「う、うるさいなぁ!」


 でも、楽しかったこともあった。

「ほら見て、これ」

「えっと、金だな? 大量の」

「そう。貯めてたの。貴男にプレゼントをあげようと思って」

「え、ええ!? 僕に、サティンが!?」

「何よ、おかしい?」

「だって君、お金を使うときはいつも食べ物とかアクセサリーとか、自分の為じゃないか! どっか頭打ったのか!?」

「失礼ね~。私だってちょっとは人のこと考えれますわよ。それよりも、ねね、何か欲しいのない? 靴とか」

「え、いや、別にいいよ。そんな、僕なんかの為に。お金は君が自由に使えばいい」

「私が貴男に、買ってあげたいの。ダメ?」

「……じゃあ、紙とペンを」


 そういえば、大喧嘩したこともあった。

「サティン! このバカ! なんてヘマしてるんだ!!」

「は~~~~??? そっちのほうがバカよバカオリバー! いっつも私のおかげで無事に稼げてるくせに、なんて言いぐさよ! 今回はダメだったってだけじゃない! また次行くわよ次!」

「いいからじっとしてろバカ! 怪我してるじゃんか!」

「腕に痣がついただけよ! 隠しとけば問題ない!」

「ダメだ!」


 サティンが少しでも怪我をすると、俺は仕事をせずにただ二人でじっとしていた。地底から持ってきていたシーツにくるまって。

 ……たまに、考えることがある。これは、本当の自分なのか、と。


「貴男はいつも優しいわね」

 サティンはよく俺にそう言った。

 シーツの中で俺を抱きしめる。彼女はいつも良い匂いがして、柔らかくて、温かかった。

「ちょっと怪我しただけで大げさよ」

「別に、優しいとかじゃない。……そういう風に教えられたんだよ」

「ふぅん。じゃ、本心じゃそんなつもりないわけ? 嘘つきは笛吹男に怒られるわよ」

「……分からない」

「分からない?」

「そもそも、僕の本心がどこにあるのか、分からなくなってしまった。教えられたことと、僕本来の、本当の自分が、ぐちゃぐちゃになっちゃって、区別がつかない」

「……どういうこと?」

 彼女の痣がついた腕をさすりながら、俺はぽつりぽつりと、かつての日々を話した。

 そう、母からの暴力を。


 母は枕元でよくこんな話をした。

 男として産まれてきた。それだけで女を怖がらせる罪だ。

 だからお前はそれを自覚して生きていかなくてはならない。

 女の子に優しくしなさい。お母さんの言うことをよく聞きなさい。女性から殴られたとしても、耐えなさい。

 そう言って、彼女は俺を叩いた。

 そして俺は言いつけ通り、耐えた。耐え忍んだ。

 痛みが俺の日常だった。母のヒステリックな怒鳴り声が毎日だった。

 余計なことは言わないことしないこと。女性に優しい紳士で居続けること。

 それが、俺だった。


「……ああ、なるほどね。そういえば貴男は最初に会ったときから優しかったわ。献身というよりも、自己犠牲と言ったほうが正しいほど」

 サティンは少し考える素振りを見せる。そして、俺の手を取った。

「オリバー。貴男は自然なのよ」

「自然?」

「世界の半分は男で、もう半分は女。貴男は月の満ち欠けや、春に生まれ秋に死ぬ花と同じ、世界の一部。産まれてきたことを罪だと感じる必要はない。貴男はいて当たり前の存在、自然なんだから」

「……それは、君も?」

 何故か口から出た言葉が、ほんの少し彼女の眉を顰めさせた。

「う~ん。これは言っとくべきことかどうか、悩むわね」

「……何で?」

「じゃあまあ言っちゃいますけど、私、人間じゃないのよね」

「え?」

「悪魔の子なの。具体的に言うとサキュバス」

「……え???」

「父が人間、母がサキュバスってこと」

「ええ????」


 ***


「そういえば君。悪魔に人間の魔法が効く訳ないよね。もしかして、あえて笛の音についていったの?」

「ええ。面白そうだと思ったから」

「ふぅ、やれやれ……」

「だって考えてみてよ! 無垢な子供たちを集めた地底のユートピアなんて、壊しがいがありまくりじゃないの! 段々”人間”になっていく子達と、それに絶望する哀れなピーターパン! それを自らの目で眺められるなんて、幼少期を数年犠牲にしてもお釣りが返ってくるわ!」

「……」

 頭上の輪っかに手を伸ばすべきか否か、ちょっと悩んだ天使だった。


 ***


「ね、何してるの?」

「日記……というか記録を書いてる」

「記録?」

「俺自身の。なんていうか、なんとなく、そうしたくなって。変かな?」

「いいえ。何かをしたいって気持ちはすばらしいものだと思う」

「……ありがとう」

「オリバー。貴男に掛けられた呪いは、いまでも貴男の中に残っていると思う?」

「……分からないな。まだあるのかもしれない」

「そう。幼いときから掛けられたそれを解呪するのはとても難しいことでしょうね。それに、解けたとしてもまた別の呪いが掛かるかもしれない」

「……」

「それでもなお、貴男は生きようとしている。どんな手を使ってでも」

「君も同罪だろ?」

「ふふ、ええそうね。だからあたし、貴男のこと大好き。貴男の歪んだ魂、生き汚い生き様、ぜ~んぶ!」

「ははは。それを言うなら、俺も君が好きだよ。快楽主義で、自分のやりたいことを全力でする。君は君自身を大事にできて、そのついでに俺も大事にしてくれる。そういうところが、すごく好きだ」


 それから俺たちは長い間一緒に生きてきた。

 だけど、彼女は悪魔。俺は人間。寿命の差があったんだ。

 俺はしわくちゃになって、どんどん老いていっている。

 それは仕方のないことで、人間として当たり前のことだ。

 それに、俺がいなくても彼女は一人で生きていける。

 ……きっと、俺が死んだ後も悲しむことなく。いやむしろ、さっぱり忘れてしまうかもしれない。


 だからこの日誌は、彼女への手紙として残しておく。なんだか自分語りが多いけど、愛しいひとへのラブレター。ま、初めて書くんだから拙くて当たり前だ。

 退屈になったら、これを読んで俺のことを少しでも良いから思い出してくれ。それだけが、俺の唯一のわがままだ。



 ***


「……ねぇ」

「ん? 何」

「本当にこれ、本にしていいの?」

「え? 悪いことだった?」

「だって、これは君に当てたものだろ」

「そう、あたしの物よ。だから別に、あたしの好きにしていいでしょ」

「なんていうか、情緒がないっていうか」

「好きに生きることがあたしの座右の名よ。好きに本にするわ」

「そうじゃなくってっ……」

 珍しいことに、天使は怒気を含んだ声を出した。

 けれどすぐに自分でそれに気づき、落ち着くために一旦口をコーヒーカップに付けた。

 つられてサキュバスも自分の飲み物に口を付ける。カップではなくストローに。

 天使は苦いブラックコーヒーが好きで、サキュバスは砂糖を多めに入れたアイスコーヒーが好き。この違いは昔から変わらない。

「ねぇ、これは世界で唯一、君だけの物なんだ。君にだけに与えられたもの。だから、君だけが読めばいい」

「あんねぇ、天使ちゃん。あたしは半分人間よ。だからあんたの前に無防備にも出れる。このお店にも入れる。でしょ?」

「まぁ、そうだね」

「だからあんたとちがって、寿命がある」

「……っ!」

 彼女は手袋を取って、隠された左手を見せた。

 そこだけがやせ細っていた。

 天使は彼女の顔を見る。昔から変わらない、若々しい顔。だが、その残りの時間は……。

「あたし、そろそろお仕舞いみたい。でも本は違う。形があって、命はない。だから永遠。それって、希望があると思わない?」

「……そうだね」

「あたしはね、あたしたちを永遠にしたいの。それがあたしがまだ彼にできること」


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