解答編 14,メティスの娘の名のもとに
「もう少し検討を……ですか。へぇ、それはつまり、僕の推理には瑕疵があり間違っていると、雪乃さんはそう言いたいわけですか」
有馬の表情は笑んでいるが、鋭い言葉だった。二人の視線が交差する。
「間違っているかどうかは分かりません……それでも、説明の付かないことが多くあることは本当です……」
安東としては有馬の完璧とも思える推理を訊いた今、貴島と阿曇の二人の犯行であるという結論を受け入れていた。有馬が説いた『凶器のアリバイ』に関するトリックは、まさにそれ以外考えられない方法だと納得をさせられた。それによって犯行は阿曇にしか成し得なかったのだという思考は、もう既に安東の胸中で事実と相違なかった。加えて、貴島共犯説も同様だ。唯一矢の音を耳に拾ったはずの彼女が、それを議論の最中に言わなかったこと。これに対する言い逃れは、残念ながら出来ないはずだ。彼女と接した一日で、両耳に難聴障害などを持っているようにも全く思えなかった。
それに……これらのことは、沈黙を貫く二人の表情が雄弁に物語っている。阿曇は否定の言葉を零したが、仮に実行犯が別にいるのだとしたら、なぜ二人は黙っているのか。やはり有馬の推理は的を射ているとしか思えない。
「だったら、今すぐ訊かせてもらえますか? そのおかしな点ってやつをね」
サークルで行なう推理ゲームとは訳が違った。聡明な二人は時にライバルのように熱く議論を交わすこともあったが、現状はまるで様相が異なる。今、お互いが持つ言葉の刃には、触れただけで相手に怪我を負わせる鋭さを帯びていた。
雪乃は彼の言葉に小さく頷くと、安東達を見廻した。
「どうしても私見が交じっている可能性がありますので……、違和感があればその都度おっしゃって下さい。……お願いします」
そう言ってから、雪乃は静かに深呼吸を繰り返し、訥々と話し始めた。
「私が感じた疑問点は、……七つありました。
一つ目の疑問点です……。これは貴島さんと阿曇さんが犯人とは思えない理由の一つでもあります。遠山君の行方が知れず、部長さん達が捜索に乗り出すときに、彼のスマホを見つけたと聞きました。しかし、貴島さんと阿曇さんには、遠山君のスマホをアテナ像に立て掛けられたとは考えられないのです……。今朝のことを思い返してみて下さい。ドラクマを置いた人物を探す為、寺田さんが即興の『犯人当て』を行い、容疑者を絞り込みましたが、特定には至りませんでした。けれど貴島さんと阿曇さんにだけは、祭壇に置く機会はなかったことが判明しました。ということはですよ……必然的に、アテナ像にもスマホを置けなかったとも言えませんでしょうか?」
安東は自分の思考にも見落としがないか、慎重に精査しながら問う。
「スマホは、昨夜から置かれていたわけじゃないのか?」
「まさにそこなのです……。寺田さんのドラクマを巡る犯人当ての中で、私がアテナの槍が無いことに気付き、台座の隅々までを探したことは、食堂にいた方なら聞いていたはずです。つまり遠山君のスマホは、一度移動させられているのです。大雨に気付いた犯人が、データが破損する恐れを懸念したのでしょうか……。
あの議論の直後に食堂に来た悠士君には、その事実を知る術はなく、推理に組み込めなかったのも無理はありません……。ですが、そうすると三人目の共犯者がいたことになります。邸宅の主人、弓塚さんがその人物に当たるとも考えられますが、邸内に偽の……厳密には都合のよい手掛かりを残す担当が、姿を隠した三人目の共犯者だというのは、どうもしっくり来ないのです」
言われてみればそうだ。朝食の席で寺田が行なった犯人捜しの結果、貴島と阿曇は中庭に出られなかったと結論づけた。だが、他に共犯者がいるにしても、スマホを立て掛ける役割は二人の内のどちらかがやって然るべきだろう。置くタイミングに制限はないだろうし、運悪く置くところを見つかっても、自分が発見したと言い訳が利くのだから。
「それにお二人が犯人ならば、それこそドラクマを観賞用として初めから祭壇に置いておいても良いはずです……。使用人のお二人が共犯ならば、違和感を持つ人はいません」
「昨日は嵐でしたけどね。祭壇に置いた物は、ことごとく飛ばされてしまいます」
有馬が指摘するが、雪乃は的確に返す。
「台風が接近するとは、昨日の時点では誰も予測出来ません。だからそれを見越して置かなかったというのは本末転倒……。この話も今朝、部長さんが言っていたのだけれど……悠士君はあの場にはいなかったよね……」
「迂闊でしたよ。食堂でそんな楽しい議論をしていたとは」
晴れ晴れと笑う有馬を横目に、雪乃は淡々と言葉を紡ぐ。
「それに、スマホの動画の存在はとても不自然でした。今朝になって再び置かれたのなら、犯人は私達にこの手掛かりを見せたかったことになります……。貴島さんが共犯なら、銀の矢の所在はどうにでも出来たはずです。ただ嫌疑を逃れるのなら、あの動画自体撮らなければよく、鍵も自分しか使えなかったと頑なに主張する理屈が分かりません。……誰にも銀の矢を持ち出すことは不可能だと、まるでミステリ小説のように証明したかったのでしょうか。あの動画を撮り、私達の手に渡るように仕向けた理由は、いったい何だったのでしょう……」
議論の休憩中に、安東も違和感を覚えたことだった。わざわざ別解を潰す為に用意されたような一時間きっかりの動画。そしてアルテミスの間の鍵の証言。容疑者を絞られてでも不可能性を示したかったとは、やはり考えにくい。立件を逃れる為? まさか。では犯人にとって、どんな思惑があったというのだろう。
「二つ目の疑問点です……。犯行後の、犯人の行動にも違和感があります。犯人が異常者ではなく、見立てに正当な理由を見出す悠士君の説を踏襲するなら、見立てたこと自体が不合理だと私は思うのです。犯行現場はポセイドン像の近辺だと悠士君は推理をしました。そして三つ叉の槍で殺してしまったが為に、今回の見立てを計画したと言いました……。しかし実際に、衝動的にそういう犯行をしてしまったとして、……どれほどの人間が見立てを思い付き実行に移すでしょうか? 壺を下ろした荷車で遺体を山小屋まで運んでいく労力……石畳の道も壊れかけており、山小屋までの道程も砂礫が多いと聞きます。二人の共犯とはいえ、現実的とは思えません。銀の矢のアリバイトリックもそうです。矢を射た瞬間、誰かがドアを開ける可能性もありますし、寺田さんのように屋上で涼んでいたというパターンもあり、あの時間帯は、決してリスクは低くないのです……。それなら遺体に損傷を施したうえで、海に投げ入れてしまった方が手っ取り早いと思いませんか……? そして共犯なら、お互いに強固なアリバイでも作れば済む話です。三つ叉の槍を凶器とした悠士君の推理では、全員が平等に容疑者なのですから。……見立てをする理由はありません」
安東は見立ての理由をミステリ的に解くことばかりに拘泥していた。なぜオリオンに見立てたのか。だがそれ以前に、なぜ見立てる必要があったのか、をしっかりと考えるべきだったのかもしれない。
「それに、なぜ遠山君との密談場所は砂浜だったのでしょうか……。この島には邸宅から百メートルほど離れた場所に、四阿という打って付けの場所があります。夜中に他の人が来る可能性は低く、来たとしても、ライトの明かりに気付いて隠れるか、あるいは堂々と話し合っていたと言えばいいはずです。悠士君の推理によれば、衝動的な殺人だったはずなのですから。……つまり、私にとしては砂浜を密談場所に選ぶ理由に得心がいかないのです。もしも強引に理屈を付けるのなら、砂浜には三つ叉の槍があったから……という理由でしょうか」
安東は分からなくなっていた。三つ叉の槍があるから犯行現場は砂浜だった? だとしたら、これは計画的な殺人になるのではないか。
安東が思考をまとめ終える前に、雪乃は淡々と推理を進めていく。
「それから三つ目の疑問です……。悠士君は銀の矢をハンギングバスケットに射て、それを回収し、見立てを行なったと推理しました。でも、変だと思いませんか……? どうして犯人は、銀の矢を回収すると同時に、穴の空いたバスケットも取り下げなかったのでしょうか。悠士君は、貴島さんがそれを回収するときに、部長さんと会ってしまったのではないかと推理していましたよね……。けれど、それは完全に二度手間です。嵩張るような重い物でもないはずです」
確かに、と安東は頷く。むしろバスケットに刺さったままの方が、九本の銀の矢を矢筒の代わりとして運ぶには手軽にさえ思えた。だとしたら、犯人がバスケットの回収を後回しにした理由は何だろうか。
「四つ目の疑問です……。貴島さんと阿曇さんは二人とも、山小屋には足を踏み入れたことがないと言っていました。それでも犯人は、遺体を山小屋に運んで見立てを行ないました。それは結構な労力が強いられ、九本の矢を突き立てるにもそれなりの時間を要したはずです。だとすると、犯人の毛髪や皮膚片が現場に落ちたとしても不思議ではありません。私達には例えそれらを見つけたとしても、判別する手段を持ちません……。しかし鑑識が調べたとき、それらは必ず露見し、犯人と結びつく重大な物証になるのです。
つまりこの犯人は、私達素人の眼を欺くことしか考えておらず、警察の介入があった後のことに対して何の対策もしなかったと言えます……。では、犯人は逃走するつもりなのでしょうか? やはりそれも考え難いです。三日後、幸嵩さんに迎えにきていただいた後、その場で無線を使って警察に連絡をするでしょう。弓塚さんのクルーザーの操舵室や無線を確認したのは貴島さんですから、それが嘘だとして、休憩中にでも逃げ去ることは可能でした。いえ、それ以前に逃亡する手立てがあるのなら、既に逃亡しているはずなのです……」
犯人は警察の初動捜査で、鑑識が山小屋を検めることを念頭に置いていなかった。確かにそれも奇妙な点だ。まるで、クローズド・サークルで完結すれば問題がないとでも言うように。ならば犯人は、全員を皆殺しにする算段を立てていたのか? いや、やはりどうしても安東の中の犯人像と容疑者が一致しない。そんなことを行なう猟奇的な人間など、この中にいるはずがないと思ってしまう。
「私にとって、悠士君の言を借りるならば、この一連の見立て殺人は不完全に……いえ、不自然に思えるのです」
雪乃の疑問の数々は得心がいく。しかし、雪乃が今述べたことは、詰まるところ推理の欠陥の指摘と憶測でしかない。彼女の新たな推理ではない。
さも当然の如く、有馬が言葉を挟む。
「なるほど。僕の推理を否定するわけですね。では、雪乃さんからはどのような驚くべき推理を披露していただけるのか、実に楽しみですね」
笑みの中に僅かな厭いを見せながら、有馬は雪乃を促す。否定するからには、自分よりも納得出来る推理があるんだろうな、といった口調だ。
雪乃は真摯な眼差しを有馬に返し、ゆっくりと話し出す。
「手掛かりは……無いこともないです。それに関する五つ目の疑問点は、酔い止めの瓶です。遠山君はクルーザーの長旅で完全に酔ってしまい、胃液を吐くほどでした。そんな彼に私は酔い止め薬を貸したのですが、邸宅に着いた後もまだヘロヘロの状態でした。それが、シャワーを浴びて仮眠を取ったからでしょうか、夕食時には彼の酔いはすっかり良くなっていたように見えました。ワインをごくごくと飲み、おかわりまで要求するほどでしたから……。けれど遠山君は、私に酔い止めを返す様子は全くありませんでした……」
普段なら根に持つタイプなんだなと誰かが冗談を言う場面なのだろうが、今は一様に皆真剣な面差しで話を聞いていた。雪乃も当然、理由を述べる。
「これはムキになって攻めているわけではなくて……遠山君という人物は、借りた物は出来る限り早く返す人、だと思っているからです」
遠山はそんな性格の人間だった。直近で言えば、クルーザーに乗っているときにわざわざ分厚い『オイディプス症候群』を寺田に返したことだ。
安東は船上の場面を回想する。
『借りていた本です。面白かったですよ』
『もう読んだのか。ってか、大学に戻ってから返してくれりゃあいいのに』
『借りっぱなしは何だか気分が悪いんですよ。すぐに返さないと、もやもやする性分なんです』
――すぐに返さないともやもやする。そういう性分なら尚のこと、体調の良くなった遠山は酔い止め薬を所持し続けることに、躊躇いや負い目を感じていてもおかしくはない。
「人間、忘れることはあります。しかし彼は単純に忘れていただけなのでしょうか。あるいは――何か精神的な気がかりを抱えていたのではないでしょうか。それも、夜が更けて殺されてしまう直前まで……」
「なんとも微妙な手掛かりですね。本当にそれが推理に繋がるんですか?」
揶揄する有馬を無視して、雪乃は話を続けた。
「それから六つ目の疑問点は……この邸宅を訪問して、部屋割りを決めるときのことです……。悠士君がメデューサの逸話を話し終えた後、遠山君が何気なく言った台詞が、ずっと気になっていたのです。一字一句は覚えていませんが、確か……『シャワーを浴びてベッドで休みたい』みたいなことを口にしていました。でも、それって変ですよね。私達はこの島に来るのが初めてで、この邸宅の個室にシャワーやベッドがあるとは知りませんでした。……というよりも、少なくとも私は異国情緒に感化されていて、まさか各部屋に現代的なバスルームやベッドが備えられているとは、失礼ながらも期待していませんでした」
安東は昨日、邸宅を訪れたときの心境を思い返す。安東は果たしてベッドがあるのかと考えていた。それに柱に凭れて座る遠山は、部屋に入る前からベッドもシャワーも完備されていると確信めいたことを、確かに口走っていた。
「つまり、遠山君は邸内に入ったことがあった、あるいは室内の構造を情報として知っていた、ということになります。……なぜ彼は、そのことを私達に黙っていたのでしょうか」
有馬はやや眉を顰めた顔つきで雪乃を見ていた。何か言おうと一瞬口を開けたが、すぐに閉じて黙したままだ。
「そして」
と、雪乃は有馬に向き合った。
「七つ目の疑問点です……。これは、私が悠士君の推理力を信じているからこそ、言えることです。私でさえ気付いたこれらの疑問点を、なぜ指摘しなかったのでしょう。議論は着実に、ときに歪められながら、進んでいきました。失礼ながら、推理で遊びたがる悠士君が、より白熱する手掛かりを議論に投じないのは変でしょう? それに……あのとき悠士君は、『思い付く限りの手掛かりは出揃ってしまいましたね』と言ったことを覚えていますか? 言外に見落とした手掛かりはないと、あなたは断言したのです……。そしてそのまま、これらの手掛かりは組み込まずに、推理を披露しましたよね」
有馬は顎に手を遣って、笑みを一身に雪乃に向けている。
楽しくなってきたと言わんばかりに。
「あのときは暑さにやられていて、遠山先輩の言葉を聞き逃しただけですよ。それに酔い止めの瓶に関しても、まさか、雪乃さんから借りていたなんて! ……と言っても、すんなり通してはくれないでしょうね」
雪乃はそれには答えず、話を続ける。
「返されなかった酔い止めの瓶、遠山君が口を滑らせた台詞。私が思うには、少なくとも悠士君にとって、これらの手掛かりを議論に放り込むメリットがなく、むしろデメリットしかなかったからです。では、どんな不都合があったのでしょうか。実際に手掛かりとして指摘していたらどうなっていたかを考えれば、見えてくると思います……」
手掛かりは取捨選択するものだ。絡み合った糸を解して垣間見える唯一の真相を名探偵は暴く。雪乃には片鱗が見えているらしいが、安東にはその不都合とやらの正体はまるで見えなかった。
雪乃は一息付くと、正念場とばかりに声量を上げて語る。
「余計な手掛かりは、別解を生みます。もし遠山君がこの島に来ていたなら、例えば、彼が弓塚さんと知り合っていたことも考えられます。また、酔い止めの瓶も、何かしらに使用するつもりだったとも考えられます。そして……現に遠山君は何らかの繋がりや思惑を隠したまま殺された、という事実だけが浮かび上がります。この話を議論に落とし込んでしまえば、真相に辿り着かずとも、私達はその手掛かりを追い続けざるを得ない状況になります。なぜならそれは、遠山君が失言やミスをしたことによる『真の手掛かり』なのですから。
悠士君にとっての問題は、この真の手掛かりを元にした説を思考し続け、議論を交わしたとしても、ただ一つの真相に迫ることは難しいという事実です。悠士君は他の説を立てられなくなる状況を避けたかったのでしょう。
つまり――邪魔になる『真の手掛かり』を排して、私達の眼からは唯一無二と思える推理を構築したかったわけです……。そして仮初めの推理によって偽りの名探偵を名乗り、無実の人物を犯人に――状況的に阿曇さん達を指摘したかったのではないでしょうか。
……悠士君は全ての手掛かりを明らかにした後で、唯一無二の解を出すことを信条としています。犯行時刻を雨が降る前だと同意を示したのも、遠山君の衣服が乾いていたことではなく、部長さんの言った壺の雨よけからでした。つまり、真の手掛かりだと判断を付けなければ、推理に結び付けない執拗さを、悠士君は持っています。だから……その妨げとなる手掛かりを隠滅したのです」
一息間を置いた後、雪乃は問う。
「そうではありませんか……?」
雪乃の直向きな双眸が有馬を射貫く。彼は薄く笑んだまま、答えない。
「遺体の発見された山小屋に同行を申し出たことも、今思えば変でした。あのとき、遠山君は何かしらの事故にあった可能性が高く、私はそれを心配していました。まさか遠山君が殺されているとは、思いもしませんでした……。崖を滑り落ちていることの方が、余程考えられましたから……。寺田さんの同行を遮ってまで自分が行くと言い張った悠士君の一連の言動は、やはり確信めいていたように思えるのです」
真相は別にあるのではないか、そういう場の空気が濃くなっている。皆が雪乃の弁を傾聴して、判断を下したのだろう。
けれども、雪乃が明かした数々の疑問の終着点は、何を伝えたいのか判然としないものもある。強いて言えば、有馬の言動の不審さに言及しているが。だとしたら有馬が主犯なのか……? 安堵する暇もなく、結局はこの中に殺人者がいたことに変化はない。安東は俄に信じられない思いだった。
「着目したのは、やはり酔い止めの瓶です。遠山君は体調が戻ったにも関わらず、敢えて酔い止めの瓶を返そうとしなかった。後で返しますなどの言葉の一つさえ無かった。彼の性格としては不自然でした……。なぜでしょうか。突き詰めて考えますと、遠山君はまだその瓶を必要としていたからに他なりません。そしてそれは、今に至るまでに一つの大きな役割を果たしています……」
「大きな役割……?」
綾乃は姉に問い返すが、直接見ていない彼女にはピンとこないかもしれない。しかし安東の脳裏には、未だ写真で撮ったように、山小屋の惨状が克明に刻まれていた。
「酔い止めの瓶が、犯行現場に転がっていたことか」
安東は冷静に指摘した。
「はい。……顔のない遺体が現れれば、入れ替わりトリックを疑うのはミステリの定石です。しかし髪型や服装、痩せた体型、大まかな身長から遠山君だという認識は十分かと思いますが、もしも入れ替わり説を推す人物が現れたときの保険として、念の為にもう一押しの証拠を用意したのでしょう。それが、私が遠山君に貸した瓶だったわけです……。酔い止めの瓶の在処については、ミス研の人達は必ず知っているはずですから」
「ちょっと、……待って! お姉ちゃん。遠山君がわざと瓶を返さなかったってことは、それじゃあまさか、彼は別の誰かの遺体と入れ替わってたって言うの……? 生きていて、彼がこの事件の真犯人だなんて、そんな小説みたいなこと……!」
「ううん。……そうじゃないの」と雪乃は妹にゆるりと首を振ってから、元の真剣な眼差しに戻り、滔々とした語りを続ける。
「この事件には、遠山君以外に不自然な人物がいると私は言いました。それは勿論、悠士君の言動です。部長さん達は遺体を発見したときに、瓶に気付きましたよね。先ほどと同じ理屈を述べると、悠士君はなぜ、瓶を見つけたときに違和感を抱かなかったのでしょうか。そればかりか、偽装の検討もせず、瓶があったから……それが真の手掛かりとばかりに遠山君の遺体だと言い張り、他の可能性を議論の場から排除しました。死体の入れ替わりはミステリの定石です。いくら彼が医大生だとしても、警察の介入なくして断定するのは早計すぎます。つまり彼は、遺体は遠山君であるという前提を、皆に認知してもらう必要があったのではないでしょうか」
誰も口を挟むことは出来ない空気が酒宴部屋を満たしていた。雪乃はあくまで真摯に述べる。
「それから、遺体に関する違和感もあります。部長さん達が遺体を見つけたとき、大量の蠅が飛び交っていたと説明がありました。……しかしそれもおかしな話です。遺体から腐敗臭が発生するのは、夏場だと言ってもせいぜい二日目です。更に昨夜は台風によって気温も下がっていたはずですから、腐敗は尚更遅くなっていないといけません。概算するとその遺体は、三日以上前のものと言えます……。このことも、医学生である悠士君の方が詳しいはずですよね。どうして、気付かぬ振りをしていたのですか……? いえ、言い換えます。――どうして、嘘の検死を私達に伝えたのですか?」
雪乃は射貫くような眼差しで有馬を見ている。対する有馬からは笑みがほとんど消え去っていた。
雪乃の推理は、言うなればパンドラのようなものだ。壺の底にある僅かな希望を示唆して、現に、安東はそれに縋ろうとしている。だが、もしもそれが希望ではなく、災厄だとしたら、……安東達は再び絶望に打ちひしがれ、今度こそ立ち直る切っ掛けを見失うかもしれない。
有馬から反応が返ってこないことに、雪乃は話を続ける。
「遠山君に聞くことは、出来ないのかもしれません。その代わりに悠士君、これら諸々の不合理さについて、私達が納得出来る説明をしてくれませんか……?」
根拠は……あくまで脆弱だ。有馬は神でも作中の名探偵でもない普通の人間なのだから、見間違いや聞き間違い、検死の落ち度、推理の破綻もあり得るだろう。
それでも、安東は雪乃が言った推測が正しい方に傾いていた。有馬は何かを隠していると、自身の直感が告げていた。もし隠していることがあるとすれば、白熱していた議論など遠く及ばない、凄惨な真実が明かされることを、安東は憂いていた。
だから、この先は耳を塞いでしまいたかった。数ヶ月前に遠山が書いたペンションの殺人のように、フィクションだと誰かに言って欲しかった。
そんな夢みたいな出来事は起こるはずも無く……、
只々、有馬の口から、言葉が零れ落ちる。
「あーあ…………もう少しで、貴島さん達を犯人に仕立て上げられたのになぁ」
今まで聞いたこともない低音で、これまで見たこともないほど表情を歪ませ、くつくつと笑う有馬がそこにいた。
やはり壺に残っていたのは、絶望の類いだったのだろう。
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