問題編 10,凶器のアリバイ

「少し……休憩をしませんか」

 ふと、遠慮がちに雪乃がそう発言した。

「集中力は九十分が限界と言いますからね」

「わたしも喉が渇いちゃった」

 口々に賛成を意味する言葉が上がり、議論は一時中断となる。二十分後に再び集まることを約束し、まばらに立ち上がって部屋を出ていく。

 休戦だからと言って、邸内の飲料には手を付けようとする人物はいなかった。皆、毒物を警戒しているのだろう。安東も例外ではなく、デュオニソスの間に戻って未開封のペットボトルの口を開けた。

 体を休めつつ、しかし思考は常に事件のあれこれを模索し続けていた。

 遠山のスマホに残されていた動画……そう、あれだ。

 あの動画は間違いなく重要な手掛かりだとは思う。

 だが、何だろう。安東は漠然とした違和感を覚えていた。遠山が動画を何の為に撮ったのかは当然の疑問として、消えた矢の物証としても都合が良すぎる気がするのだ。仮にあの動画が無ければ、証言に頼るしかなくなり、何処かのタイミングで犯人は銀の矢を持ち出したのだろうという結論で終わっていた。

 あの動画は、言うなれば、別解を潰している……。

 あれがあることによって、曖昧な証言は確固たるものになり、密室が構築された。矢はいったいどのようにして部屋から消失したのか。そのまるでミステリ小説的に構成された謎が、安東にはどうにも違和感として拭い去れないのだが。

 それでも議論の結果、動画が重要な『真の手掛かり』であることは否めなかった。

 不意に、コンコン、とドアがノックされる。

 顔を向けると、音の主は雪乃だった。安東は用心の為にドアを開けておいたので、その行為は無意味に思えるが、声を出すのが苦手な雪乃にとってはこの方法が楽なのだろう。

「どうした?」

「……あの、調べたいことがあるのですが、……一緒に付いてきてくれませんか?」

 雪乃はよく妹の綾乃と共に行動する。動画にあったお湯の件でも、まずは妹に相談を持ち掛けていた。心配事があると身内の方が安心するのだろう。それがどうこうと言うわけではないが、現状、安東に相談したということは男手が要る内容なのだろうか。

「構わないよ。何処を調べたいんだ?」

「貴島さんの部屋……アルテミスの間の、窓の板張りです……。外から打ち付けてあるそうなので、その板がどのように固定されているのか、見てみたいのです」

 安東は、はたとその訳に気付く。板張りは窓を覆う形で、三枚の長方形の板が打ち付けてある。それはどの部屋の窓も同じであり、頑丈に固定され、剥がせないだろうという先入観があった。

「そうか……迂闊だったな。早速確かめに行こう」

 安東はペットボトルのキャップを閉めると立ち上がり、二人揃って回廊に飛び出る。突如、左手から歩いてきた有馬とぶつかりそうになった。

「おっと、お二人で楽しそうに。デートですか? 僕も混ぜて下さいよ」

「残念だがチケットが余ってないんだ。すまんな」

 言下に雑な断りを入れると、やや戸惑っている雪乃の手を引いて、玄関から邸宅の外に出た。時刻は三時を過ぎているものの、相変わらず日差しが暑い。雨水の引いた大地は白茶けた色を取り戻しつつある。安東達は反時計回りにアルテミスの間の外側に辿り着くと、その窓の板を目を皿のようにして確認した。

 アンティーク感のある頑丈そう板だ。板の上下に二箇所、左右の板には端にも二箇所、漆喰の壁に釘で打ち込んであるようだった。それは一朝一夕で打ち込まれたようには見えない。試しに板を外そうと試みても、一分も動く素振りをみせず、頑固な作りであることが窺えた。

「外された形跡もない。犯人が窓から銀の矢を手に入れた可能性は、有り得ないだろうな」

「では、やはりドアからでしょうか……」

 安東は断言出来ず、ふと気になって両隣の部屋(ヘファイストス、ヘルメス)の板も確認する。だが、アルテミスの間と全く同様に板は固定され、外された形跡もなかった。漆喰の壁を見ても、凹凸の少ない壁面があるだけで不自然な箇所は全くない。部屋と窓の位置が違うという仕掛けが施されているわけでもなさそうだった。

 この結果を雪乃としてはどう思ったのか、顔を向けると、彼女は窓ではなく遠く丘の稜線にある茂みを凝視していた。痩身を小刻みに震わせている。

「どうした。大丈夫か?」

「い、今……あそこに……! 人影のようなものが……」

「人影だって? オラウータンじゃないのか?」

 安東はミステリジョークを飛ばすが、雪乃は表情を変えずに遠くを落ち着かない様子で探していた。

「確かに見たんです……」

 まさか、ここまで議論して外部犯という線は……。いや待て、たった今、板張りを調べたことにより、銀の矢を持ち出せた人物は限られることが分かったではないか。安東の心はより一層内部犯になびいていた。

「とにかく中に戻ろう。体を落ち着かせて考えれば、それが幻だったのか現実だったのか、判断も付くだろう」

 暗に見間違いだという意味を含めて言った。

 雪乃はそれでも遠くを探る視線を止めなかったが、邸内に戻ると、ようやく体の震えは収まったようだ。安東は怖がりな彼女に気のせいだと言い聞かせながら、酒宴部屋に集まる前に一度、それぞれの部屋に戻った。

 再び酒宴部屋に集った面々は、疲れが取れていない顔色をしていた。無理もない。解決の糸口さえ見えておらず、話し合う度に気力を消耗していく。

 それでも、やると決めたからには続けなければいけない。

「休憩中に雪乃に誘われてアルテミスの間の窓を外から見てきた。あの窓の板には最近取り外された形跡はなかったから、銀の矢は窓を通して盗まれたわけではないと言える」

「なるほど! 言い着眼点ですね、雪乃さん。部長さんもお疲れ様でした」

「……悠士君も気付いていたのでしょう。誰かが調べに行かなければ、部長さんを誘ったのは君だったのではないの……?」

 回廊でばったりと出くわしたのは、そういうことだったのだろうか。にへらと笑う有馬の真意は掴めない。

 有馬はその問いには付き合わずに、

「さて、お二人の話も加味して考えると、この動画は『凶器のアリバイ』を担保しています」

「凶器のアリバイ?」と綾乃。

「ええ、そうです。厳密には見立ての道具のアリバイですし、現物は犯行現場にあったんですから、現場不在証明という言葉は適切じゃないですけどね。しかしこのことは、雪乃さん達が窓を確認してくれたことによって、より堅牢なものとなりました」

「アリバイ……不在証明。つまり犯行時刻に犯人が、今回で言えば銀の矢が、その時点では異なる場所にいたってことだな」

「じゃあ、それが解けないうちは、犯人には辿り着けないってこと!?」

「そうとは限りませんけど、このアリバイを解くことが犯人への近道であることは間違いないでしょうね」

 有馬は自分が解けないことは棚に上げて、飄々と理屈を並べている。いや……もしや解けているのか? 犯人が分かっているのではないか? 一瞬疑いの眼で彼を見たが、正直言ってそれも考えにくい。部屋には邸内の武器になりそうな物を掻き集めてきているが、安東でさえ、いざという時に手の届く範囲に盾や鈍器の類いが置いてある。方や有馬はそんなことには頓着などしていないように、悠々と片膝を立てた姿勢で座っていた。唐突に暴かれた犯人が、どんな危険な行動を取るかも分からないというのに。

「休憩中に俺も推理してみたんだが……。銀の矢は、同じ物が他にもあったんじゃあないのか?」

 寺田は、一昨日から島に滞在している貴島と阿曇に目線を遣りながら問う。

「私達が昨日邸内を見た限りでは、アポロンの金の矢も、銀の矢も、一組しか存在しないと思います。それに、銀の矢が姿を消した説明が付きません」

「貴島さんが良いポイントを突きましたね。銀の矢は消失しているんですよ」

「語るに落ちたな。それなら話は早い。アリバイが解けない以上、最も簡潔な手段が答えだ。つまり、貴島さんが犯人ってことだ」

「それは変な話だろう」と、安東は割り込む。

「貴島さんが犯人なら、鍵が盗まれなかったことを主張する意味が全くない。自室の鍵かマスターキーか、どちらかを落としたと言っておけば、誰にでも侵入の機会があったことになるんだからな。自分の首を絞めるようなものだ」

「だったら、阿曇さんか雪乃さんか綾乃のうち、三人の誰かが犯人だろ。何らかのトリックが用いられたとしても、容疑者は変わらないさ」

 寺田は無鉄砲に意見を転がす。

「まってよ、動画に映ってるように私達は銀の矢を持ち去ってないわ」

 それはどうだろうな、と寺田が説を唱える。

「例えば、服に隠すことだって出来るはずだぜ」

「こんなスレンダーな体のどこに隠すって言うのよ」

 スレンダーかはともかく、綾乃はTシャツにデニムパンツといったそこそこタイトな服装で、それは昨夜の動画でも似たような格好だった。銀の矢を九本も隠していたら流石に不自然に映るだろう。

 雪乃に関しても、邸宅に着いてからは動きやすいデニムパンツに履き替えていた。上は薄いブラウスを合わせているが、とても銀の矢を隠し持っているふうには映像からは窺えない。

「仮に二人が共犯だとしても、四、五本の矢を服の裏に隠すのは難しいだろうな。例えばカメラに写らない反対側に装着して歩く……ことも、矢の長さを考えると無理だと言える。それにアルテミスの間を出た後、中庭で相談する姿も映っていて、体の反対側が見えている。不自然な動きも特になかった」

「だったらよ」と、寺田は矛先を変えた。

「……阿曇さんって長身だよな。動画でも分かるように、アルテミスの間のドアは、上部の四分の一が映っていなかった。雪乃と綾乃の身長では、出入りするとき全身が映っていたけどよ、阿曇さんは顎から上が見切れていた。つまり、頭の上に載せていたなんて言いませんけどね、何かしらの細工が出来たんじゃあないっすか?」

 真っ向から疑われた阿曇は、気分を害したように顔を顰める。

「じゃあ、オレが部屋を出た直後に怪しい行動をしたかい? 手を上に添えたり、ジャンプしてみたり、立ち止まったり、……そんな姿は映ってないよね」

 そう言って自らスマホを操作して該当の動画を皆に見せた。

「回廊から出ればすぐにオレの全身が映ってる。既知の通り、カメラがやや斜めっているからね。じゃあ回廊を抜ける前に上から吊り上げたか? それもどうかな」

「――回廊の真上は瓦屋根になってるから無理ね」

 と、出入りした三人の容疑者に連なっている綾乃が、姉妹の潔白を晴らす意味も含めて断言した。

「なら、貴島さんに質問なんっすけど、部屋の施錠は主にどっちの鍵を使ってますか?」

「マスターキーは緊急時という認識が強いので、鹿の絵が彫られたアルテミスの間の鍵を使ってますねぇ」

「ほう?」と寺田は言い、口元を歪める。「だったらこういうのはどうだ」

 寺田の推理は止まらない。休憩中、ずっと思考に耽っていたという言葉は、あながち嘘ではなかったようだ。

「この邸宅の客室の鍵は、番号が振ってあるわけでもなく、動物や植物のデザインで見分けているだけだ。作りも色も同じだから、一目では分からない。つまり、犯人は手練手管で貴島さんの意識を逸らした隙に、自室の鍵とすり替えておいたんだよ。そうして深夜に忍び込んだ犯人は、まんまと銀の矢を持ち出したんだ」

「それも無理よ」

 綾乃が即座に否定をした。

「考えてもみて。貴島さんは、昨夜の動画の後から施錠には注意を払っていたと言ってたわよね。もしも深夜に忍び込むために自室の鍵と交換していたら、貴島さんは寝る前にアルテミスの間の施錠をすることが出来ないじゃない。確実に気が付いて不審に思い、その鍵のデザインをチェックしたはずよ」

 綾乃の反論に、寺田はしてやったりという顔だった。

「甘いな。俺はアルテミスの間の鍵と入れ替えたなんて言ってないぞ。もし、鍵を入れ替えたのがマスターキーだったとしたら、どうだ? アルテミスの間の施錠は、どちらの鍵を使おうが同じだから、わざわざ絵柄を確認する必要はないはずだ。ずっと携えていたマスターキーがまさか別の鍵に変えられてるなど、これぽっちも思わないだろうよ。

 再び入れ替えるには技術が要るだろうけど、ふと思ったんだ。時計回り組と反時計回り組に分かれたとき、鍵を一度預かってから配分したのは……有馬だったよな」

 有馬は心外だという表情をするが、手品の要領で鍵をすり替えられる人物がいるとしたら、彼が筆頭候補になるだろう。それに邸内を捜索するとき、主導権を握っていたのも、間違いなく彼だった。

 しかし、

「それは、難しい推理かと思います」

 貴島が言い、その証拠とばかりに腰に掛けた鍵をローテーブルに置いた。

「マスターキーは確かに鷹の絵が描いてありますが、持ち手のサイズが一回り大きくて、色合いも異なります。なので、例えば朝の着替えのときに気付かないはずがありませんので……」

現物を見ずに、机上だけで推理した皺寄せがここで出てしまった。

「それに」と、追い打ちを掛けるように貴島は証言した。「捜索以前に今朝、遠山君の安否を確かめるとき、ヘファイストスの間でマスターキーは使いましたねぇ」

 寺田は開いた口が塞がらず、この推理も失敗に終わったようだった。

 静寂が室内に満ちる。

 動画と銀の矢に関する意見は、底が尽きたように出なくなっていた。

 結局、犯人がどう持ち出したのか分からず、それ故に容疑者も出入りした三人に絞れるとは断言出来ず、有耶無耶にこの議論は中断する。

 ただ、安東はこれまでの議論を振り返って思う。自明の説だけに誰も声を上げなかったが、銀の矢が本当に持ち出し不可であるならば、犯人は一人に絞られることを。その一人とは、今も消息の掴めない邸宅の主人、弓塚だ。彼女なら鍵の複製は容易であり、深夜を狙って忍び込むことが出来るだろうから。

 ……安東は怯えた雪乃の表情を思い返していた。

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