問題編 2,ポセイドン像
クルーザーはその島に近づくと反時計回りに旋回した。島の外縁は断崖になっている部分がほとんどで、北側が最も高く聳えているように見えた。
西側に辿り着くと、白波に打ち付けられた大小の岩塊の合間に人工的な砂浜が設けられ、長く腕を伸ばすように造られた桟橋が安東達を出迎えていた。事前に教えてもらっていた通り、その桟橋の係留場にクルーザーを横付けしていく。もう一台止まっている船は、安東達を招待した女主人のそれだろう。荷物を纏めると、順に桟橋に飛び降りる。船酔いでへろへろの遠山は、寺田が手を貸して何とか移動に成功した。
島の俯瞰図(みてみんに投稿)
https://34896.mitemin.net/i580605/
操縦を担当した幸嵩も桟橋に降り立ち、島内を物珍しげに眺めていた。
「幸嵩さん。長時間の送迎、本当にお疲れ様です。ありがとうございました」
安東は本日何度目かのお礼を述べた。実際に彼の存在がなかったら、どうしていただろうか。極端な話、合宿反対派に廻っていた可能性も否めず、礼を尽くしても尽くし切れない。
「構わないぜ。帰りは四日後でいいんだよな?」
「はい。ご足労お掛けします」
「何かあったときにも連絡しろよ。例えば、――連続殺人事件とかな」
「……冗談きついですよ」
安東は苦笑してみせる。話を振った方の幸嵩は笑みを薄めた。
「まぁ冗談はさておき、ある程度の用心はしろよ。ネットで通話をしたといっても、その人物の素顔も知らないんだろう?」
「分かってますよ。でも招待主を盲信して火中に身を投じるわけではないんです。頼れるメンバーもいますし、大丈夫ですよ」
本心では不安の種は残っていたが、今更引き返したいとは口が裂けても言えない。
「そうか。まっ、楽しんでこい」
彼は安東の肩を二度ほど叩くと、軽快な動作で運転席まで行き滑り込む。そして、じゃあな、と手を大きく振ってエンジンを吹かせた。
安東達が桟橋から離れたことを確認した後、重低音のうなりを上げて旋回し、豪快に水飛沫を作りながらクルーザーは大海原に帰り去っていった。それを見届けてから安東は振り返り、言う。
「さて、目的の邸宅とやらを訪問するとしようか」
各々が頷く中、遠山だけは中腰で口元を右手で押さえていた。顔色はまだ青ざめていて、空いた左手には雪乃に借りた酔い止めの瓶を放すまいと握り締めている。この体たらくでは、酔いが抜けるのは時間が掛かりそうだ。
「あれぇ、ここって携帯つながらないよ」
ふと、綾乃が自分のスマホを見ながら呟いた。
自然と皆も確認するが、どのスマホも同じ電波状況だった。
砂浜と陸地の境目から、石畳の道が傾斜の緩やかな地形を厳選するように蛇行している。それは目的地の邸宅があるであろう上方に伸びていた。石畳は所々が風化して脆くなったかのように欠損が見受けられた。まるで何十世紀も時を経ているように。
だが一行は、それ以上の異物に注意を向かわされていた。砂浜から石畳の道に切り替わる直前、守護神のように置かれたモノに、目を奪われざるを得なかった。
それは国内では異質な、男性を模した神像……精巧に再現された彫像と言うべきか。
眼光は鋭く、筋骨隆々であり、躍動感のあるポーズを取っている。顎髭はうねる長髪と混ざり合い区別が付かない。衣服は腰に巻き付けた厚い豪奢な一枚布。そして右手には、三つ叉に分かれた槍を携えていた。
もしやこの像は――。
安東が世界史の知識を掘り起こし終える前に、
「……ポセイドン」
と、有馬が訝しげに眉を潜めながら、ひとりごつように言葉を漏らした。
「ポセイドンだって? ああ、俺も知ってるぞ。漫画やゲームでお馴染みのアレだよな?」
やや不安げに寺田が言った。
「確か、ギリシャ神話ですよね……。ゼウスやアポロンで有名な」と雪乃。
「でもさでもさ、何でこんなところに置いてあるの?」
もっともな疑問を綾乃は零すが、当然答えられる人物はいるはずもない。
表面は海風に晒されているはずだが、綺麗に手入れがされているようにその像は鈍色の光沢さえ放っていた。綾乃は軽いステップでその像に近づき、ぺしぺしと興味深げに表面を叩く。
「凄い頑丈そう! これなら雨風に打たれてもへっちゃらね」
「こら、勝手に触っちゃ……あれ、私達は客人ですし、美術館の展示物でもないのですから、触っても良いのでしょうか?」
と、雪乃は伸ばしかけた手を引っ込めて自己問答に入ってしまった。
「招待主の物なんだから駄目だろう……」と安東が言う間もなく、綾乃は次の行動に出ていた。
「ほら、ぶら下がることも出来そうよ」
ポセイドン像は、米国の警察官が懐中電灯を持つような格好で、三つ叉の槍を振りかざしていた。綾乃は柄の中程に両手を添え、ゆっくりと両足を中に浮かせてみせる。
誰もが不穏な空気を感じた刹那、予想通りのことが起きてしまった。
バキッという不吉な音が聞こえるや否や、「あ」と全員が呆けた顔をする。綾乃の足は地面に戻り、掴み上げた柄の部分が見事に折れていた。あるいは、割れたと表現するべきか。
「……あ…はは、折れちゃった」
さすがの綾乃も引き攣った表情を見せている。
「笑い事ではありません」
と有馬が一喝し、真剣な表情を彼女に向けた。そして滔々と語るには、
「ポセイドンですよ。誰もが知る偉大な海の支配者です。荒神として名高く、非常に短気な性格です。トロイア戦争に勝利したオデュッセウスという英雄は、彼の怒りに触れて仲間と船を失い、十年もの歳月を掛けて妻の元へ帰還する元凶になったんですよ。クルーザーは海底に引き摺り込まれ、さらには嵐でも呼ばれてしまうかもしれませんね!」
後半、有馬はおちゃらけた口調を取り戻し、不適な笑みを浮かべていた。
他愛もない普段の彼の冗談だった。だから綾乃も気軽に言葉を返す。
「うっそだぁ。台風はあのまま北上していくって天気予報で言ってたわ」
安東だけでなく、誰もがそう思っていたことだろう。台風が進路を変え、天候が急変する翌日になるまでは。そしてこのことが、この島で起こる悲劇の序幕になっていたのだと理解するまでは。
少しだけ場の空気が和らいだところに、姉の役割とばかりに雪乃が言う。
「ねぇ綾ちゃん。ポセイドンもゼウスも実在するわけないし、天罰は下らないと思うけど……、招待主さんのイカヅチだけは覚悟しようね」
優しげな口調とは裏腹に、雪乃は真摯な眼を妹に向ける。綾乃は手に持て余した柄の折れた三つ叉の槍を見つめながら「……うん」と涙目を浮かべていた。そしてやや離れた砂浜に向かうと、目立たない場所に槍を横たえ、隠蔽するように砂をかけて覆い尽くした。本当に嘘偽り無く告白し、反省する気はあるのだろうか。安東は考えるのを止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます