極夜に沈まないように

QUILL

極夜に沈まないように

 風端直斗は磯の香りを吸い込みながら、江ノ島の海を見下ろす。壁に掛けられた、赤と黄色のユニフォームを見て、今日もまた、暗い海に誰かが溺れることの無いように祈った。




 ——あれは、13歳の秋のことだった。


通学路の銀杏並木が葉を散らし、アスファルトが何かを危惧するような黄色を纏い始めた頃、両親はいなくなっていた。


曲がり角を抜けた先に見えた家は、窓が不自然に開け放たれていて、その近くを黒いバンが通り過ぎて行った。僕はもう犯人が分かっていて、その犯人に怯えていた。いつうちには来るのだろうかと、震えながら夜を過ごしているうちに不眠症になっていた。目の下に濃いクマができた僕は、周りから見れば自殺志願者のようにでも見えていたに違いない。


それからしばらくして、僕は早々に母方の祖母と祖父に引き取られた。環境がまた変化してしまう恐怖から、また眠れない夜が訪れ、目の下のクマはまるで恐怖のしるしのようだった。祖母は僕の顔を見た途端、泣きながら僕のことを抱きしめてくれた。その抱擁には温もりがあったような気もするが、氷点下のように何も感じなくなった僕には、それを感じ取ることすらできていなかったように思う。


それから祖母は、僕の食べたいというものを一日三食、全部作ってくれた。テーブルには老夫婦が自ら進んで食べることは絶対に無いであろう油っこいものばかりが並んだ。それでも僕は笑うことができなかったし、ずっと蝋人形のような表情をしていたと思う。


それからしばらくして、僕が親の名前をテレビで目にしたのは、中学卒業間際のことだった。腰まで届く長さのウィッグを被った不審な女が、中学生を誘拐しようとしているところを現行犯逮捕されたというニュースを発端に、新聞紙の一面や、週刊誌の目玉記事として、河村恵子の悪事はどんどん暴かれていったのだ。僕の両親は、刺殺された後に案山子にされていた。それを知った僕の生活は、暗い海に沈んでいくように荒んでいったのだった。






 まず、高校には進学しなかった。勉強なんかする気にならなくて、2階にあった部屋(元々、母親の部屋だった)に引きこもって、ご飯もほぼ食べなかった。



春、祖父母に花見へ誘われても部屋から出なかった。



夏、海へ誘おうとした祖父母は、僕が風呂に入ってないのを思い出して、階段を降りていった。



秋、銀杏並木を見に行こうと言った祖父母に怒号を浴びせた。



冬、除雪をしていた祖父が雪に埋もれて死んでしまい、それから祖母は僕を気にかけなくなった。



そんなこんなで僕は心の闇を深くしていき、生ける屍と化した。死にたいとは思うけれど、空腹をそのままにすることもできず、夜中に部屋から這い出ていくと、こそこそと冷蔵庫の食べ物を貪った。いよいよ体臭が気になってきた頃には、身体の周りに蝿が飛び回っていた。けれど、なんとか迎えた十八の夏休み、僕は夜を共に生き抜く仲間を見つけたんだ。






 僕がいつものように部屋に籠城していると、木の扉をノックされた。面倒臭い親戚が来たんだなと思いながら、無視してベッドに寝転がっていると、もう一度、次は強めに扉をノックされた。少し苛立ってきたので、スマートフォンをヘッドフォンと繋いで耳を塞ぐと、次はストーカーのように狂気的な強さで、数回叩かれた。


さすがに頭にきて、鍵を外した扉を思い切り開くと、そこには母親と似た顔の男が立っていた。きっと母親の兄弟であろう。彼は、僕の姿を見ると、なぜか肩を震わせて泣き始めた。

いやなんで? 泣きたいのこっちだよ?

そう言いたくなったが、彼は服の袖で涙を強引に拭うと言った。


「ねぇ、こっちの世界に戻ってきなよ」


彼の言う世界の概念が自分には分からなかった。でも、自分がほぼほぼ世界に位置できていないことはなんとなく分かっていた。


「無理だよ」


僕が答えると、彼は言った。


「俺だってお姉ちゃんがいなくなって悲しいよ? でも、大人だから受け入れたんだよ。君だってもう大人だろ?」


彼は、僕の叔父に当たる人だった。


「でも、僕は幸せになんかなっちゃいけないんだ。その証拠に、大切な人はすぐにいなくなる」



僕が涙を流すと、叔父は僕の手を引いて駆け出した。目の前に階段が迫ってきて、焦りながらもしっかりと階段を踏み外さぬよう一段一段を蹴って1階へと降りていった。


洗面所に連れて来られていた。


「直斗、俺は勘違いをしてたみたいだ。直斗はもうそろそろ自殺でもするんだろうって思ってた。でも、直斗は一段一段をしっかりと蹴って、ここまで降りてきた。君はまだ生きたいんだよ。ほら見て、さっきまで濁ってた目には光が宿ってる。」


叔父は息を切らしながら、そんなことを言った。昔は朝から洗顔をして、化粧水をつけていた洗面台の前に立って、久々に鏡を覗き込むと、心の中に潤いが戻ってきた気がした。


「まだ生きていけるのかな」


感動しながら、輝いている瞳を見つめると、視界に波が押し寄せていた。


「いけるよ。君はもっと、守りたいくらい大切な人を見つけた方がいい」


僕は静かに頷いた。






 風呂場で2年分の絶望をお湯で流すには、時間がかかったが、清々しい気持ちになった。


風呂を出て、2年前の化粧水をつけると、肌が少しピリッとした。久々にちょっと良い服を着て、家を出た。


家の前には、スバルのフォレスターが停まっていた。僕が後部座席に乗ると、叔父は助手席に乗るように促した。




こうして、僕の夏休みの旅は始まった。






 叔父がアクセルを踏み込んで、景色がどんどん後ろへ流れていった。高速道路に乗って、叔父は「どこに行きたい?」と聞いてきた。僕が青森に行きたいと言うと、叔父は顔色を変えて、一度サービスエリアに止まった。


「ごめん、東京だと思ったから」


想像もしなかった目的地を示され、叔父は驚いていたようだった。一度車を停めて、叔父はトイレへ行った。そして、サービスエリアのちょっと高いアイスクリームを2人で食べると、再び車に乗った。


「じゃあ青森、行こうか」


叔父は車を旋回させると、出口を出て、さっき来た道を辿るようにして走り出した。



長い旅になると思った。



叔父が言う「守りたいくらい大切な人」を僕は見つけることができるだろうか。最近はあまり眠れないでいたが、難しいことを考えていると、なんだか眠くなってきていた。


高速道路の先の見えない長さと、車の変わらない速度も相まって、僕は眠りに落ちていた。それから数時間経って、ふと目を覚ますと、西の空に陽が沈もうとしていた。夕日はいつ沈むのかと空を眺めていたら、ラジオから夏らしい曲が流れてきた。


Sudarenの『セミシグレ』という曲だ。

バンド名は、漢字で書くと簾恋。

メンバー全員が大学で歴史学を専攻しており、全会一致で好きな時代は平安時代だったことから名付けられたという。簾越しに恋をしていた平安時代のように、外見ばかりに囚われない美しい心を楽曲に描き出すのが、バンドとしてのモットーらしい。


そんな彼らの生みだした『セミシグレ』という曲は、主人公がまるで大切な人を失うことを予期しているような歌詞が、数年前、話題を呼んだ。「例えば君の手に握られた線香花火が君の寿命だとして 燃え尽きるまでに僕は好きと言えるかな」という歌詞から始まるその楽曲は、今じゃ夏の定番ソングになっている。ラジオから流れるその曲が終わりに差し掛かった頃、車は青森に入っていた。






 青森に入ってからは、津軽の方へと向かった。津軽にある斜陽館に行きたかったからだ。


斜陽館は太宰治の生家で、斜陽という太宰治の小説から名前が取られている。太宰治の父親が建てたその家は、ただただ広かった。議員だった太宰治の父親が、その身分を自慢するようなな建築だと思った。


僕がそこを訪れたのはに太宰治と自分が似ていると思っていたからだ。太宰治は議員の親の元に生まれ、僕は医者の親の元に生まれた。彼がどれほどまで愛に飢えていたかは分からないが、僕も中学1年生の時、両親を失ってから心にぽっかり穴が空いてしまったような感覚があった。そんな太宰治の半生を紐解く手掛かりをその館で回収していくと、太陽は西に傾いていた。眩しく照らされた煉瓦の建物を見ると、僕を生き急がせているような気がした。太宰治の小説をもっと読んでみたいななんて思いながら、急に現実感のある道を歩き出した。






 眠たい目を擦りながらフォレスターを降りると、太鼓の音が夜に響いていた。


「ラッセラー、ラッセラー」と掛け声のする方へと歩を進めると、そこには群衆の姿があり、視線は車道を練り歩く大きな人形灯籠へと注がれていた。色々なモチーフの人形灯籠が、次々に目の前を通っては、遠くの方へ消えていった。賑やかな雰囲気に紛れているだけでも心地良いと思った。そして、両手の指では数え切れないくらい人形灯籠を見送った頃、遠くに見えていた光の連なりにもとうとう末尾が見えた。その光を、目の前、そして見えないところに消えていくまで目で追い続けた。見えなくなった途端、朝や昼から席を取っていた人々は、そそくさと帰り始めていた。空っぽになった観覧席の真ん中に立って、夜空の月を眺めた。今日は三日月だった。こんな美しい景色を見ると、自分の欠損部が逆に気になってしまうのは僕だけなのだろうか……?

寂しげな祭りの後の空気を、僕はしばらく味わっていた。






 パーキングに停まったフォレスターに乗り込むと、叔父は煙草を蒸かしていた。


「おかえり、どうだった?」


「大したこと無かったよ」


「そっか」


叔父は煙草を灰皿に擦り付けると、シートベルトを締めた。どうやら僕のついた嘘は見抜かれていないようだった。車のサイドミラーを見ても、もう涙の跡は見えなかった。


「次どこ行きたい?」


そう言われると、よく考えてはいなかった。だが、北の方に来ていたので、思いつくままを言った。


「北海道がいいな」


「分かった」


車はまた、僕の進むべき道を探すように走り始めた。






 今日は寝てばかりいて、叔父に申し訳なかったと思ったので、車が本州最北端の街に着くまで寝ないでいた。車の中では、叔父がラジオをちょくちょく他局に変えていたが、目的地に着くまでに3回くらいSudarenの『セミシグレ』が流れて、好きな曲なのにさすがにウザいと思った。


日付が変わった頃くらいに、車は目的地に着いた。函館行きのフェリーが出るのは、まだ6時間後だった。車中泊をしても良かったのかもしれないが、その日は地味に寒かったので、近くのビジネスホテルに泊まることにした。


そのホテルは、必要最低限のものしか揃っていなかったが、客室から見えるオーシャンビューは絵画のようだった。夜に集まる蛍のような漁火を眺めながら、今はもう会うことのできない両親の顔を思い出そうとした。大切な人だった。けれど、もうその顔を思い出すことができなくなるくらいの年月は経っていた。僕は叔父の言う通り、大切な人を見つけるべきなのかもしれない。叔父は自動販売機に行くと言って革財布を掴むと、部屋から出ていってくれた。






 朝が来て、大の字に寝ていた僕と叔父は、ベッドから起き上がった。寝ぼけ眼を擦って、ホテルのこぢんまりとしたレストランに入ると、2人はメニューに目を通した。美味しそうなマグロ丼があったので、悪そうに叔父の目を覗くと、言ってもいないのに察した様子で「良いよ」と笑ってくれた。2人は急いで朝飯を掻き込むと、レストランを駆け足で出ていった。身支度を10分程度で済ませ、チェックアウトした。函館行きのフェリーに車で乗船し、青森とは別れを告げた。






 たったの1時間半の船旅は、あっという間だった。また寝なければいけないほど睡眠不足だったわけではないので、海をただ眺めて到着を待っていた。気が遠ざかってくるくらいに海を眺めていると、船内アナウンスで下船案内が流れた。2人は車で船から降りて、夏の北海道を走り出した。綺麗な色をしたトウモロコシ畑の間の畦道を抜け、窓を開けると涼しい風が吹き込んできた。そこからの移動は、長距離ばかりだった。そもそも、僕らは全く計画を立てていなかったためにあっちに行ったりこっちに行ったりという旅になってしまった。






 まず訪れたのは、ラベンダー畑だ。ここに着くまでに、5時間ほど掛かった。風が吹く度に鼻がくすぐられて、なぜか腹が減ってしまった。すると、さっきまで化粧室に行っていたはずの叔父が、両手に1つずつ紫色のアイスクリームを持って戻ってきた。僕は喜んで、それを頬張った。




 次は、青の洞窟に訪れた。ここには、3時間ほどで到着することができた。ボートで中に入ると、ブルーハワイソーダのように濁りのない、綺麗な青色の水面が光っていた。ガイドの人に小石を渡され、願いを込めて沈めるように言われた。僕は「大切な人に出会えますように」と願った。




 徐々に日が沈んできて、僕らは宿へ向かっていた。今夜泊まるのは、トマムだ。ここには、2時間半ほどで着くことができた。僕らは運良く、キャンセルの出た「雲スイートルーム」なるものに泊まれることになった。部屋の至る所に雲があしらわれていて、可愛いと思った。夕飯は、せっかく北海道に来たのだからと、2人で味噌ラーメンを啜った。その後は、敷地内でできるアクティビティをいくつかやって、あっという間に夜が訪れた。暗くなった窓の外を眺めて布団に入ると、急激に眠気が押し寄せてきた。色々なことがあって、良い1日だったなと思った。






 雲海テラスに出ると、朝早いにも関わらず、人集りができていた。もくもくとした霧のような雲が流れてきて、人々は息を呑んだ。雲海が薄くなり始めると、そこから人は徐々に減っていった。けれど、テラスの端の方に、一人だけ呆然と雲海を眺め続けるおばさんがいた。僕はそのおばさんとどこか似ている気がして、声を掛けた。


「今、何を思っているんですか?」


おばさんは答えた。


「私が雲の上に行けるのはいつかしらって」


おばさんは瞳に涙を浮かべながら、昔のことを振り返った。


「あの人はいつも笑ってて、死なんて考えてもいなそうだったの。私だってそう思ってた。でも……」


おばさんは言葉を詰まらせながらも頑張って話してくれた。


「あの人は突然死んでしまったの。私たちの出逢いは、未明町みめいちょうだった。私の父親は、会社の社長をやってたの。でも会社は、悪い取引に乗ってしまって騙された挙句、お金を持ち逃げされてしまったの。会社は業務停止命令を受けて、倒産した。うちの経済状況は簡単に揺らいだ。私はその時、高校卒業間近だったから、私が稼ぐと父親の肩を叩いた。それから、私は水商売をすることにしたの。酷いことを沢山されたわ。男の人って身勝手だから。私を性欲処理器のように使ったわ。けれど、あの人は違ったの」


「どう違ったんですか?」


「あの人はお店の副オーナーだったんだけどね、私を助けてくれたの。酷い客に私が妊娠させられた時、私は恐怖で動けなかった。けれど、あの人は私の妊娠を見抜いてくれて、病院に連れていってくれたの。それから私は、その無責任な客の子供をあの人と育てた。客は裁判で提訴して、賠償金を払ってもらった。そうして、彼と私の生活は始まったの」


「なるほど……。それで、どうして旦那さんは亡くなられてしまったのですか?」


「あの人は、私と付き合い始める数年前にドラッグをやってたの。でも、私と付き合う時にはもうやめてたし、治療も受けていたからもう大丈夫だと思ったの。でも、彼は私と二人だった時、突然自分の倍以上ある蜘蛛が天井から何匹も湧いてきて、自分を襲いに来るなんて言って、自分の身体に油をかけて火をつけたの。彼は、もう帰ってこなかったわ……」


「辛い話をさせてしまって、すいませんでした。でも、話してくれてありがとうございます」


「良いのよ」


黄泉に続いているような雲海を数秒間見つめると、僕らはそこを立ち去った。






 トマムをチェックアウトした僕らは、車で2時間弱の距離にある青い池に来た。有名な観光地ではあるが、朝ということもあって、そこまで人は多くなかった。立ち枯れの唐松が水面に写っていて、それはまるで自分の心をそのまま写した鏡のように思えた。青い池と聞いた時は、昨日訪れたばかりの青の洞窟のようなブルーハワイソーダのような色をイメージしていたが、目の前に広がっている色はライトブルーだった。北海道は、神秘的な力を感じるスポットが沢山隠れた秘境なのかもしれない。まだ、この地のことを知り尽くしていないことは肌で感じていた。けれど、今朝聞いたおばさんの話が頭から離れそうになかった。




——僕には行かなければいけない場所がある。




誰に渡すかも分からないお土産を買って、北海道を出ることにした。






 車で2時間半を掛けて、白い恋人パークにやって来た。


その道中には、牧場があって、乳搾りができるようだったのでやってみたが、全くコツが掴めず、牛乳は全然搾れなかった。コツを掴もうとしてお乳を強く握ったら、とうとう牛にも声を荒げられてしまって、逃げるように牧場を飛び出してきた。


そして、今ここに来ているのは、もう予約をしてしまっていて、行かざるを得なかったからだ。オリジナルの白い恋人が作れるらしく、ハート型のクッキーに何を書けばいいのか、しばらく考えていた。ひとまず直感でチョコペンを動かしてみることにした僕は、ハート型クッキーの半分をミルクチョコで黒く塗りつぶした。これは、自分の心の状態を表していた。その横には、羽を散らした天使の絵を描き入れた。そうして、傷と傷を舐め合うような関係でも、大切な人を見つけたいという願いからだった。迎えに行かなきゃいけない人が、いるような気がした。






 そこに着いたのは、日付が変わった頃だった。煙草の煙が視界を悪くする一方で、それが流れてしまうと悪いところが至る所に目につく、『日が沈んだら朝が来る街』とも呼ばれる未明町にやって来ていた。そこを通る人々は自分の中身まで丸裸で、歌舞くように生きているように見えた。色んな人がいた。威圧的な店員に高額の会計を迫られ、逃げ回る髪が伸び放題のサラリーマン。お腹を膨らませて、それでも何もできず道端に倒れる女性。チャラい男に馬乗りになって、ひたすらに殴り続ける女。そこには、悲しくて壮絶な背景が隠されていて、きっと僕はそれに親近感を覚えてしまうだろう。情欲に溺れて、果てた瞬間に生を感じる人と、死だけを常に考えて、自身を傷付けることをやめれない人。そんな正反対の人間が交わっているこの街は、どうしようもない寂しさに包み込まれているようだった。血と酒と薬の匂いが染み付いたアスファルトを歩いていると、ジメジメした夏の夜に雨が降った。

叔父は言った。


「ねぇ、本当にこの街に用があるの?」


下心丸出しで相合い傘をする男女に舌打ちをしていると、近くで不良同士の乱闘が始まった。叔父はなぜか、そこに止めに入った。それに呆気を取られているうち、背の低い女子が隣に来ていた。


「あの……?」


捨て猫のような上目遣いでこちらを覗き込む彼女は、同い歳のように見えた。


「今から、私の働いている店に来ませんか?」


僕は丁重に断ったが、彼女の悲しげな表情を見ると、何だか意思が揺らいでしまいそうになるのだった。


救いたくなった。事情は分からないが、自分よりも悲しい境遇にいるであろう彼女は、まだ諦めているようではなかった。


「店には行きたくないですけど、あなたが普段、どんな気持ちで毎日を暮らしているのか、お話を聞かせてほしいです」


近くの喫茶店に行くことを提案した。そして、それと同時に僕は大事なことに気がついた。さっきまでいた叔父がいない。






 心臓が激しく脈打つのを感じながら、僕と彼女は街中を走り続けた。もちろん、不用意に大人の店に入ることはできない。叔父は、あの醜い争いに巻き込まれたに違いないと、冷たい汗が身体を這っていた。長いこと走り続けると、街角のホテルの前で、叔父は倒れていた。叔父の頭部からは血が流れていて、そこにピンクのネオンが眩しく反射していた。僕の気が動転しそうになっていると、一緒に街中を駆け抜けた彼女は察してくれた。


「救急車呼ぶから」


激しく殴られたような叔父を見て、涙が溢れて止まらなかった。叔父は、正義感のある人だった。昔から、僕がやらなきゃいけないと、率先して行動する人だった。それ故にトラブルに巻き込まれることも時にはあったけれど、今回ほど酷いものはなかった。僕がここに来たいなんて言わなければ……。切ない後悔は、雨にも流れてくれなかった。30分後に救急車は来て、叔父はすぐに担ぎ込まれた。僕はさっきから一緒にいる彼女と一緒に、救急車に乗り込んだ。






 病院までの時間は、異常なほど長く感じた。何も言葉を交わすことはなく、ただただ雨が屋根を叩く音だけが聞こえていた。救急隊員は懸命に胸骨圧迫をしていた。病院に着いて、僕と彼女はベンチに腰掛けた。叔父は、緊急手術が行われた。それは、長い手術になると思われた。でも、僕が思っていたよりもすぐに医者は病室から出てきた。そして、重苦しい表情で言った。


「すみません、助けられませんでした」


何も感情を湛えないような顔を見て、医者らしいと思った。


「ありがとうございました」


お礼を言って頭を下げると、医者は長い廊下を奥の方へと歩いていった。祖母が来るのはもうすぐだったので、一緒に叔父を探してくれた彼女にお礼を言った。そして、SNSを交換した。


「今度ゆっくりお話でもさせてください」


僕は彼女の瞳をしっかり見据えながら頷いた。手を振って彼女と別れ、すれ違いで祖母が来た。

「おばあちゃん、いつもありがとう」

はち切れそうな心で普段の感謝を告げると、祖母は泣きながら僕を抱きしめてくれた。

僕はまた一人、大切な人を失ってしまった。






 日付が変わった頃、SNSに例の子からメッセージが届いた。


「咲夜は大丈夫でしたか……? 今度、未明町の喫茶店でお話をしたいと思っています」


僕も、大切な人をどんどん失ってしまう寂しさを早く埋めたくて、そんな人を探していた。僕は彼女と会うことを、二つ返事で了承した。






 僕が出掛けることを、祖母はそこまで深くは追及しなかった。僕が出掛けると言うと、祖母は「叔父ちゃんみたいにならないでね」と悲しげな顔で言った。僕は頷いて、家を出た。


電車に揺られながら、彼女の顔を思い浮かべていた。


これまでの絶望を刻んだような二重幅、それでもまだ生きていきたいと望むような瞳孔、そして、妙に胸元を強調したような服。それらは全て、彼女の壮絶な人生を物語っていた。


吐き出されるように電車を降りると、大切な人を失った街に戻ってきた。もう戻る必要もなかったのかもしれない。そもそも自分とこの街の人々は、全く生きる世界が違うのだ。けれど、あの日出会った彼女の姿を、僕は脳裏から消すことができなかった。


改札を出て、大きな交差点にぶつかると、そこを渡ってメインストリートから逸れた。小さな通りをいくつも曲がっていくと、その喫茶店は姿を現した。喫茶店「揺籃」だ。揺籃に揺られるように心地の良い時間を提供するという気合と、人生に失敗した人もまたゼロからやり直せるようにという願いが込められているという。雀荘も入っているコンクリート造の建物の2階に揺籃はあった。


エレベーターを降りると、赤いカーブテントの下に洋風のドアがあり、開くと共にドアベルの音色が涼しげに響いた。ジャズが流れていて、珈琲の香りが漂う店内の奥の方に彼女はいた。けれど、この日の彼女は雰囲気が違った。前と同じように、胸元が強調された服を着ているのだろうと、電車の中で僕は考えていた。しかし、窓際のボックス席でお冷に口をつける彼女は、花柄のワンピースを身に纏っていたのだ。出会った日の彼女とは、まるで様子が違った。対面の席に腰掛けた僕は、彼女の服をチラチラと見た。


「気になりますか?」


彼女は笑みを浮かべて言った。


「はい、すいません。てっきりあの日のような服装でいらっしゃるのかと思っていて」


僕は苦笑いをした。


「これ、頑張って貯金で買ってみたんです」


彼女は嬉しそうに話した。でも、それと同時に、「本当はファッション誌みたいなコーデをしたかったんですけど、これくらいしか買えなくて」と謙遜もしていた。


でも、自分のために服装を考えてきてくれていたこと自体が僕には嬉しかった。


「いや、服を買うのが難しい状況でも、お洒落をしようとする心掛けが、まず素敵ですよ」


「いや、そんな……」


彼女は顔を赤くして照れていた。そんな姿を愛しく思ったと同時に、この娘を調子の良い男に穢させたくないと思った。


「あ、何か頼みましょうよ!」


必死になって話題を変えようとする彼女を僕が笑うと、彼女もまた笑い出した。


波が去ると、僕らはメニューに目を通した。彼女が、モーニングセットのページとデザートのページを交互に見比べるので、もしかしたらモーニングセットを買うのを気兼ねしているようだった。

僕は彼女に声を掛けた。


「良いよ奢るから、好きなの頼んでよ」


「いや、そんなわけにいかないですよ……」


「良いから!」


彼女は数分後、申し訳なさそうにメニューに指を指した。


「じゃあ、揺籃モーニングセットで……」


「良いよ」


僕は彼女に微笑んで見せ、自分のサンドウィッチセットと共に注文した。ウェイターが注文を受けた後、去っていくのを見届け、僕はずっと気になっていたことを聞き出すことにした。


「あの、前会った時から聞きたいことがあって……」


「私の生い立ちですか?」


図星で聞きたかったことを当てられ、僕は黙り込んでしまった。


「私がこの街に捨てられたのは小学生の頃でした」


彼女は僕のことを特に気にする様子もなく、遠い空を眺めながら話し始めた。






 私の父は、浮気癖がある人でした。そのことは、母も実は気づいていて、我慢をしているようでした。


でも、父が泥酔して帰ってきた夜、母は父のスマホを覗き見たんです。そして、驚くべきことが発覚しました。


父は1人や2人ではなく、5人もの若い女の子を引っ掛けていたのです。きっとその子達は、お金目的の交際だったと思います。


でも母は、このままでは夫はダメになってしまうと、明け方目覚めてきた父を責めたのです。父は涙を流して謝りました。もうこんなことはしない、と誓いました。


それからの日々は、絵に描いたように幸せなものでした。父も母もお互いを求め合っていましたし、それは昼間だけではありませんでした。


ある夜、私を寝かしつけた母は、父の寝室に忍び足で入っていきました。それから愛の呼吸は一晩中、私が眠れないことも気にせずに聞こえていました。それから数ヶ月して、母はお腹に新たな命を宿しました。


けれど、いざ出産となった時に事件は起こったのです。


産婦人科で、心が弱る瞬間こそ手を握っていてほしい父が、電話もメッセージアプリも一向に反応する気配が無かったのです。苛立ちを隠せない産婦人科医に励まされながら、なんとか母は第2子を産み落としました。


でも、次の日の昼にやって来た父は、頬が赤らんでいました。二日酔いが抜けていなかったのでしょう。


そして、母は聞いたんです。昨日の夜は、どこで何をして過ごしていたのかと。父は呆けた顔で答えました。仕事の上司に誘われて、未明町に来ていたと。上司の誘いだから、断ることができなかったと。浮気をしてたのではないから、糾弾の余地はないと。


結局、父は父のままで何も変わってはいなかったのです。母は、父の顔に思い切りビンタをしました。それからどうなったのかは覚えていません。でも、その日の夜には離婚が決まり、母は全てを捨てて再び働き出すのだと言いました。


離婚届に書名をした母は、病院を出ていきました。父は母が部屋を出ていくまでは泣いていました。けれど、それも所詮は演技に過ぎなかったのです。もう大切な奥さんを失ったと知れば、また感情的な演技をして、自分は被害者面をして、そして足を洗うことは無く、むしろ踏み外していくのです。


父は私と生まれて間もない妹を抱えて、車に乗り込みました。深夜2時過ぎ、私はどこに父は帰ろうとするのだろうかと考えていました。けれど、父は知らない街に車を走らせ続け、着いたのはネオンが虚しげに輝くこの街でした。父は1番街の入り口に私たちを放り投げ、妹にこう言いました。


「お前が生まれてきたせいで、俺は大切な人を失ったんだ。ならば、お前も大切な人を失えば良い」と。


そして、姉の私にも同じようなことを言いました。


「姉になったくせに俺と妻の喧嘩を止めようともせず、むしろ俺のことをお前は睨みつけた。捨てられて当然なのだ」と。


私もまだ幼かったので、その時は反抗の仕方も知らなかったし、その威圧的な態度に怯えて泣くことしかできませんでした。父は言いたいことだけを言い放って、車のドアを素早く閉めると、夜の闇に消えていきました。そして、それからこの街での生活は始まりました。






 彼女の話を聞き終えた後、僕は言葉を失っていた。そして、彼女も僕を見つめたまま、何も喋らなかった。


そのまましばらくは、僕らの沈黙の上に喫茶店のジャズが流れ続けていたが、正午を告げる鐘が鳴った。その音で、随分長いことショックを受けて黙っていたことに気づくと、いくつか気になったことを聞いてみようと思った。


「それから、妹さんとはどうなったんですか?」


「途中から私たちは別の人に引き取られたんです。妹がどうなったのかは今となっては分かりませんが、私たちは施設に入ることができませんでした。私は、夜の店に足繁く通うおじさんの家で、十五になるまで暮らしていました。でも、その生活も決して幸せなんかではなく、奴隷のような扱いを受けていました。首に犬用の首輪をつけられ、逃げれないようにされていました。夜になると、おじさんが工事現場の仕事から帰ってきて、汚れた作業着を玄関で脱ぎ散らかして私に抱きついてきていました。私は、おじさんの性奴隷でした。幸い、おじさんは避妊だけはしてくれたので、性病にはかかっていないと思います。でも、私は耐えられなくなって、劣化した合皮の首輪が外れた日に家を飛び出したんです。それからは、夜の店でおじさんと似た数多の猿と抱き合って、それでも生きる道はこれしかないのだと信じてきました」


またもや酷い話を聞いてしまって、聞かなければ良かったと思ったが、一番辛かったのは彼女なんだと思い直した。


「そうですか……。お母さんとは?」


「もうあの日から会ってないんです」


気になったことの答えも、明るいものは一つもなくて、自分はまだ本当の絶望を案外知らないのかもしれないと思った。それからまた、長い沈黙が流れた。


「あの、好きな小説家とか、いたりしますか?」


空気を変えようと試みて、咄嗟に出てきた質問はそれだった。彼女はそれを聞くと、クスリと笑って言った。


「真面目ですか?」


僕は苦笑いをした。


「太宰治かなぁ……」


彼女は何気ない様子で答えたが、僕は前のめりになって反応してしまった。


「太宰治好きなんですか!?」


「あ、はい……。あの影のあるところが好きなんです」


彼女は困惑しながらも、太宰治のことを語り出した。


「私が最初に読んだ作品は走れメロスだったんですけど、国語の教科書って著者の紹介みたいなのがあるじゃないですか。あれで、何回も自殺未遂をした人だというのを知って、親近感を覚えたんです。あ、この人も同じなんだって。それからこの街に捨てられて、人間失格を読んだんです。そしたら、まだ私は生きていたいなって逆に思えたんです。だから、私は太宰治が好きなんです」


僕は驚いた。あの人間失格という本を読んで、逆に生きたいと思う人がいたなんて。


「それ以外には何か読んだことありますか?」


「いや、他は難しいから読めそうにないです」


恥ずかしそうに水を飲んだ彼女は、可愛かった。


「ええ、もったいない。トカトントンとか、面白い話はいっぱいあるのに」


そう言い終えて、僕は自然に、最近行った旅行の話をすることができた。


太宰治の生家である斜陽館に行ったことや、北海道で目にした幻想的な風景、乳搾りが上手くいかなかった話など、あったことの全てを楽しげに僕は話し、彼女もまた、話が面白いと口では言わずとも、そんな雰囲気を全面に漂わせながら、話を聞いていた。


けれど、その旅の結びに、大切な人が死んでしまったこともまた、話さなければならない事実の1つだった。彼女は、お通夜に出てくれると言った。


「君の名前を、知りたいんだ」


僕がいかにも、辺鄙な場所にある高校で友達を初めて作る時のような名前の聞き方をすると、彼女は数秒黙り込んでから言った。


「源氏名で良いですか?」


苦しくなった。思い切り胸を引きちぎられそうな思いだった。彼女は実名を捨てて、この街で生きていく覚悟をしているのだ。救ってあげたいと思っても、普通の学生である僕がどうすることもできない気がした。僕が泣きそうな顔をすると、彼女もまた泣きそうな顔をした。


「ちょっとごめん」


僕は席を立って、化粧室へと逃げた。鏡の前で溢れるものを、誰にも気付かれないように、水でひたすら顔を洗うフリをした。やっと心が落ち着いてくると、彼女の元へと何も無かった様子で戻った。


「帰ろう」


会計に向かう僕の手を、彼女が遠慮がちに握った。


「もう会わないとか言わないでね」


どうしようもなく、くすぐったい感覚が全身を這って、逃げるように喫茶店を出た。

きっと僕はまた、彼女に会いに来てしまうだろう。






 お通夜の後は、なかなか眠れずにいた。それが夏特有の蒸し暑さによるものなのか、恋の病によるものなのかは分からなかった。


床に投げられたリュックサックが月光に照らされて、僕を招いているように見えた。僕はベッドから立ち上がり、リュックサックを漁り始めた。ガサゴソと色々な物を取り出すと、リュックサックの底に紙切れのようなものが入っていた。僕はそれを恐る恐る取り出して、電気スタンドの下で文字を読んだ。


『マリンバイブ 杏夏(あんな)』


磯の香りがしてきた。それはただただ恐ろしく水深のある海の香りだった。これはきっと、彼女が喫茶店で僕が席を外していた間に書いた、店の名前と源氏名だ。


そんな彼女の心を海に例えるとするならば、今まで灯台の窓から見下ろすだけだった僕は、今日、地上に降りてきて、浅瀬に足を踏み入れ初めてしまったのだ。その水温は、父親に捨てられた悲しみと、苦しい生活を歩まなければならない社会への憎しみと、やり場のない怒りが混じりあって、なんとも言えず気持ちの悪いものだ。でも、波は絶え間なく強く打ち寄せて、僕はそれに呑まれてゆく。いずれは死んでしまうと分かるのに、その深さを知りたくて、どんどん足のつかないところまで泳いでいってしまうのだ。きっともう、出会う前には戻れない。拒絶感を持ちながらも、きっとこの店にも足を伸ばしてしまう。ああ、こんなにしんどい恋をするのは初めてだ。いや、これはもしかしたら恋なんかではなくて、自分よりも酷い境遇で暮らす彼女への単なる同情でしかないのかもしれない。でも、死んでしまうのだとしても、彼女の色の無い海に花を添えて彩りたいと思ってしまう。この気持ちを、好きと言うのだろうか。あの長旅で買ったお土産は、全部彼女にあげることにした。僕は夜の海から引き上げるように、ベッドに飛び込んですぐに目を閉じた。






 数日後、僕はまた未明町に来ていた。何度見ても代わり映えしない喧騒に溜め息をつきながら、スマートフォンの位置情報アプリに表示された線を辿るように杏夏の元を目指していた。その道すがら、僕がアプリに気を取られて前を見ず歩いていた時に中年サラリーマンに肩がぶつかったりもしたが、それだけで少なくとも5分は説教をされ、また深く溜め息をついた。


店名、マリンバイブ。どういう意図でつけた名前なのだろう。でも、そこら辺の露骨で低俗な名前の店名よりは、まだ控えめにも思えた。


10分ほど歩くと、その店はあった。眩しすぎるネオンと、まるで品の無い言葉と、これでもかと言うような肌色が貼られたその店の入口は、僕の足を退けさせた。入口に近づくにつれて気持ちの悪さは増していき、今にも倒れてしまいそうな足取りだったが、それでもなんとか持ちこたえて、扉を開けた。


ミラーボールが照らす店内に、杏夏の姿は見えなかった。連絡も無しに来てしまったのを申し訳なく思ったのと同時に、そもそも欠勤なのではないかとも思って焦った。


「本日は誰をご指名されますか? コースはどれを選ばれますか? どれだけ手前までイキますか……?」


重ねられた質問を一度咀嚼して、このどれに対しても答えがないという答えが導き出された。というか、どれだけ手前までイクかという質問は、厭らしさを間接的に表現している辺りが却って厭らしく感じてしまった。


「いや、そうじゃなくて、このお店で働く杏夏さんに用があって来てて……」


必死に伝えた言葉にオーナーらしい男性は、舌打ちをして言った。


「あ、奥にいるから」


奥に消えていった男性を見送って、店内に目を移した。どんよりと湿っぽい店内で、見たくないものを見てしまった。


「バレなきゃ良いんだよ」


人間としてレベルの低そうな背の小さいおっさんは、超えてはいけない線をその瞬間、超えた。目の前で繰り広げられた淫らな行為に、僕は吐き気を催した。その行為にはなんの恥じらいもなく、下品にしか感じなかった。そんな景色に気を取られていると、隣に杏夏が来ていた。例の胸元が強調された服を着て。


「なんで指名してくれなかったの?」


咎めるような表情で見つめる杏夏に、僕は思ったことを伝えるしかなかった。


「いや、どっかで話せないかなって思ったんだよ……。てかさ、杏夏はこんな所でずっと働いていたいわけ?」


みるみる杏夏の表情は引きつっていき、僕はその瞬間、自分の言ったことがどれだけ身勝手で偏見的でお門違いなことかを知り、そして、後悔してしまった。


「私だってヤリたくてヤってるんじゃない!」


杏夏が言うであろうことにもう察しがついていた僕は、咄嗟に耳を塞いでいた。数秒後、凍りついた店内の異常な空気を感じた経営陣が店の奥から出てきて、僕に近づいてきた。


「君、ちょっとこっち来てくれるかな」


一瞬無抵抗の素振りを見せて相手を油断させ、僕は店を飛び出した。


「逃げて!」


杏夏の叫び声を背に、僕はその街を駅まで駆け抜けた。駅前は、妙に乾いた夜風が吹いていた。






 昨夜、SNSで杏夏に謝った僕は、条件的に許しを得た。その条件は、〝夜の店への偏見を捨てること〟だった。確かに、そこで働くしか生きていく道がない人だっているし、そこに複雑な事情が絡んでいることは分かっていた。曲がりなりにも考えた。


けれどその矢先、朝のニュースに知ってる店の名前が出た。マリンバイブ。

女性従業員が本番行為を追加料金で客に迫り、その瞬間を警察にガサ入れされたらしい。それも実はオーナーによる指示であったことから、マリンバイブは摘発され、当分の間、休業することになった。


必死に働いていた杏夏が、ひたすら可哀想だった。彼女の生活を支えていた唯一の仕事は、一夜にして奪い去られてしまったのだ。僕も朝食を食べる気になれず、焼きたてのトーストと目玉焼きをテーブルに置いたまま立ち尽くしていた。


数十分後、杏夏から電話が掛かってきた。ワンコールで出ると、杏夏の啜り泣きが聞こえてきた。


「どうしよう、私死んじゃうよ……」


病人のようなか細い声だった。


「ちょっと待ってて、あの喫茶店で話そう」


僕が落ち着かせるように言うと、杏夏は分かったと鼻水を啜りながら言った。


「死なないでね……?」


僕は電話を切る前に、叫ぶようにそう言って、昨夜の寝間着のままで家を飛び出していた。






 こんなに地下鉄の間隔が長く感じたことが、今までにあっただろうか。静かな駅のホームで線路をじっと見つめて、目当ての電車が来たら一番に乗り込むのだと、競争心に近いような焦燥を感じていた。ああ、杏夏はまさか、いっその事死んでしまおうなんて考えて、今にロープを結んでいるのではなかろうか。嫌な妄想が重なっていき、電波の悪い地下にも関わらず、また電話を掛けてしまった。


「大丈夫? 生きてる……?」


「うん、大丈夫だよ。待ってるから」


僕の問いかけに優しく答えた杏夏は、恐らく喫茶店にもう到着しているようだった。BGMに喫茶店のレコードが聞こえたので、それはほぼ間違えのない根拠だった。僕は安心して、あの街を目指す電車に乗りこんだ。早く抱きしめてあげたいと思った。恋愛感情とか、そういう色めいたものは置いておいて、彼女の悲しみは分けてほしかったし、何よりも人の温もりを感じてほしかった。彼女に恋をしてから、今が一番愛おしく感じている気がした。






 喫茶店に着くと、窓際の席に杏夏は座っていた。僕は対面の席に座って、顔を覗き込んだ。杏夏は、目が赤くなっていた。一晩中、泣いていたのだろう。空に雨雲がかかっていた。


「悲しかったよね、自分の大事な職場が無くなってしまって。テレビの前の視聴者は色眼鏡で見るかもしれないけど、杏夏にとっては命の次くらいには大事なんだよね」


僕は言葉を選びながら、必死に声を掛けた。杏夏は僕が言葉を掛ける度に泣きそうになって、映画みたいに雨は強くなっていった。杏夏は一頻り泣いて、落ち着きを取り戻した。


「なんか食べようか」


僕はフレンチトーストを頼んで、杏夏もそれを真似るように同じ注文をした。外を見ると、雨はもういつの間にか止んでいて、2人で雨宿りをしていたようにも思えた。


「きっとこれからは良いことが沢山あるよ」


再び顔を出した太陽を見ながら、そんなことを言った。


「杏夏、これからはどうしていくの?」


一番気になっていたことだった。杏夏が仕事を失って、これからどうやって生きていくのか。杏夏は、平然と答えた。


「やっぱり、私には未明町の仕事しかないかな。普通のお店じゃ生活費を稼いでいける気がしないし、そもそも水商売やってた私を取ってくれる職場なんて無いよ」


杏夏の顔には迷いが無さそうに見えた。でも……。


「いや、俺はもう、杏夏がそんな格好をして、その歳で夜働く姿なんて見たくないよ。これを機に、お昼の仕事をやってほしい」


「でも、そんなこと言ったって、私の生活はどうなるの?」


僕は、待ち構えたように答えた。


「一緒に暮らそう」


杏夏はそれを聞くや否や吹き出した。


「何を言うのかと思ったら、そんなこと言い出して。私と直斗だけで、暮らしていけるなんて思えない」


杏夏には、本当にこの仕事をやめる気が無いようだった。僕はもう、なんとか折れさせようとするのを諦めて、目を瞑った。


やがてフレンチトーストが来ると、2人でそれを黙々と食べた。時計を見るともう正午で、お腹が減っていたので、順序は逆だけれども、僕はスパゲッティを頼んだ。杏夏もオムライスを頼んで、二人とも食事を終えたタイミングで僕は言った。


「今日これから、デートしようよ」






 午後、2人で電車に乗った。初めての僕らのデートは、お台場になった。まだ車内は乗客が少なかったから、別にもっと余裕を持って座っても良かったのだろうけど、僕らはぴったり肩を寄せ合って話していた。太宰治の『葉桜と魔笛』は面白いよって話をしたり、杏夏がハマった最近気鋭の小説家の話をされたりして、あっという間に僕らはお台場に着いていた。東京湾の風を受けながら、僕らはヴィーナスフォートを目指した。


そこに着くと、まずは噴水が目に入った。お洒落な女性がここかしこを歩いていた。中世ヨーロッパを再現した街並みに佇む杏夏は輝いて見えた。


「よし、好きなの買っていいよ」


僕もそれほど財布に余裕があるわけではなかった。でも、お小遣いを貰えてる以上は、何もしなくてもお金を稼げるのだから、幸せな生活をしているのだと思う。僕とは違って働き者の杏夏を見て、好きな物はとことん節約しているのだろうと思った。あの店のユニフォームのような、体型を強調する洋服を着ているのが可哀想に見えたし、その服によって華奢な身体が露わになっていて、もっと食べさせてあげたいとも思った。今日は好きな服や化粧品を、好きなだけ選んで良いと言った。杏夏は嬉しそうにはしなかった。申し訳なさそうな顔をしていた。でも、僕も一緒に選ぶよと言って一緒に回ってあげたら、安心したような顔で選び出した。彼女は、今まで欲に蓋をしていたのだろう。そもそも、選び方というものを知らなかった。だから、まずは今のトレンドを教えてあげて、その上で自分が着ているのを想像できるものを選ぶと失敗はしないのだと教えてあげた。


ゆっくり時間を掛けて、洋服や化粧品を選んだ。オーバーオールやデニム地のジャケットや、ショート丈のスカートや、有名な化粧水を買ってあげた。そこから、お化け屋敷にも行ったりして、2人で想い出を作った。でも、そんな時間も長くは続かなかった。


「今日、新しい仕事の面接があって、もう帰らないと間に合わない……!」


彼女は急に時計を見て焦り出した。


「今日はもう良いじゃん、今度にしてもらいなよ」


優しさのつもりで言ったけど、彼女は心ここに在らずという感じだった。


「いや、生活が掛かってるから……。ごめん! またね! 今日は楽しかった!」


僕に今日買ったものを持たせたままで、杏夏は夜闇に消えていってしまった。彼女は、24時が迫るシンデレラのようだった。僕はしばらく、そこに立ち尽くした。






 嵐の入相、雷鳴が轟いて、胸騒ぎがした。財布だけを持って家を飛び出し、あの街を目指した。電車の中で、駅のホームで、幾度となく人とぶつかった。切符を取り忘れて、舌打ちをされた。でも、それよりも暴れ出す胸が痛くて、ただひたすらに杏夏が心配だった。不安で仕方がなくなって、電話を掛けた。


「たぁ、すぅ、けぇ、テ……」


途切れ途切れで聞こえてくる声には、吐息が混じり、喘いでるようにも聞こえた。でも、恐らくこれは、合意の上じゃない。電話が切れる直前には、痛いという単語がはっきり聞こえ、きっとこれは犯されているのだろうと気づいた。最寄り駅を慌てて駆け出した。


新しい杏夏の勤め先を見つけ、傘を道端に捨てて飛び込んだ。杏夏が、裸で泣いていた。初めて見た、生身の姿だった。雪のように白くて儚く、ボロボロと涙を流していた。血が出ていた。絵の具を水で流す時みたいな、生々しい色だった。肝心の老害は、男性従業員数名に取り押さえられ、逆ギレのように暴言を吐いていた。僕の中で怒りが吹き荒れ、それは溢れた。


「おい! いい加減にしろよ老害! 俺の彼女に何やってくれたんだよ! 金払えよ! 示談金なり慰謝料なりあんだろ! 風俗に散らす金あんなら払えんだろ!」


暴言を吐いても吐いても怒りは収まらず、裸のままの杏夏にコートを着せた。


「早くこんなとこ逃げよう」


そう言った瞬間、窓の外で稲妻が走り、物凄い音がした。そして、店内の電気は全て落ちた。僕はそれを合図に杏夏の手を引いて、店を出た。嵐の中を跳ねるように駆けて、近くのホテルに身を隠した。


「ここなら大丈夫。2人なら、大丈夫。」


息を切らしながら、杏夏を思い切り抱きしめた。杏夏は泣きながら、崩れ落ちた。


「朝が来るまで、沢山話していよう」


部屋に入ると、光ひとつ無い夜が僕らをそこでひっそりと待っていたようだった。






 夜に誘われた僕らは、ベッドに軽く腰かけて、唇を重ねた。


「苦しい?」


僕は杏夏に囁くように訊ねた。


「ううん、心地良い。最初の1回も、直斗とが良かったのになぁ」


杏夏はしみじみ言った。


「それ、どういうこと?」


分かっていたのに、冗談だって言ってほしくて、僕はその意味を聞いた。


「今日さ、一線越えられちゃったんだ……。あのおじさんが、ギリギリまでって言ったのに、」


咄嗟にまた、口を塞いだ。


「分かった、もう言わなくて良いから」


どうしてだろう。どうしてこんなにも、神様は不平等なのだろう。この子は、何も悪いことをしていないのに。この純粋さを見てもなお、悲しみや苦しみを与えるのだろうか。泣きたかった。彼女と共に日々を歩むほど、泣きたいことばかりだ。でも、彼女の方が泣きたいだろうから、僕が涙を見せちゃいけないんだ。


僕はぐっと悲しみを堪えて、備え付けの冷蔵庫へと向かった。溶けかけのアイスクリームを全部持ってきて、1本ずつ一緒に消化していった。


スマートフォンの雨雲レーダーで、嵐が過ぎ去ったのを知り、窓のカーテンを開けた。


「見てよ、星がこんなに綺麗だよ」


杏夏を窓際に呼び寄せた。


「うん、綺麗。直斗と一緒で良かったよ」


そんな甘い台詞を吐いて、杏夏は僕の肩にもたれかかってきた。


「ねぇ、こんな時に月が綺麗だって言うんじゃないの?」


杏夏は口の横にチョコをつけたまま言った。


「何、そんな在り来りなことは言わないよ。杏夏は、この人生で巡り会ってきた中で、一番の憧れだよ。花よりも、月よりも、ずっとうっとりしちゃうような、憧れなんだ」


こんな言葉、普段なら恥ずかしくて言えない。でも、今夜限りのロマンチシズムに全てを任せれる気がしていたのだ。


「ああ、このまんまずっと朝が来なければ良いのにね」


「ほんとそう」


僕らは唇だけでは足らなくなって、お互いの渇きを満たすように、重なり合った。僕らにとっては、この暗闇が一番心地良かったのだ。






 それでも朝はやってきて、杏夏は酷くメイクの落ちた顔で、僕の横に寝ていた。


「電気直ったみたいだから、杏夏、先お風呂入ってきていいよ」


もはや一緒にお風呂に入っていたような姿なのに、僕はそんなことを言った。杏夏は泣きべそをかいて、弱音を吐いた。


「私まだ、全然傷が治らない。直斗に助けてほしいなぁ」


身体はもう大人の一歩手前なのに、幼稚園児みたいに手を泳がせる彼女が、ただひたすらに可愛かった。


「分かったよ」


杏夏を両腕に抱えて浴室まで連れていき、一緒にお風呂に入った。その後、ゆっくりとホテルの朝食を食べ、部屋に戻った。


「これから、どうしようか」


杏夏はちゃんとメイクをし直して、言った。


「あの有名なサメの映画が観たいな」


「分かった」


僕は手を握って、ホテルを出て、そして、未明町を出た。


「もう2度と戻らないよね」


「うん、もう2度と」






 電車に乗る時、杏夏は清々しい顔をしていた。僕らは、杏夏の暮らす4畳半の部屋へ向かっていた。最寄り駅のレンタルビデオ屋で例のサメの映画を借り、杏夏の家に初めて入った。こぢんまりした中にも、インテリアへのこだわりなんかが感じられる点で、僕の中の評価は高かった。


2人で映画を見て、近くの飲食店でランチを食べながら、その話をした。とっても盛り上がって、ずっと話していたかった。でも、昨日家に帰らなかったことから、祖母の連絡が来ていた。早く家に帰ってきなさいとのことだった。僕が帰宅しようとして、杏夏に背を向けたら、背後から抱きつかれた。


「帰らないでよ」


「いや、でも……」


「私、1人暮らし寂しい」


数秒間の沈黙で、気持ちが満ちるのには十分だった。


「じゃあ、一緒に暮らそうよ。2人で暮らせる家を建てようよ。社会って場所から、逃避行するんだよ」


杏夏は頷いた。


「分かった。じゃあ直斗は、おばあちゃんにその事を伝えてね」


「分かった。明日から、2人で働ける場所を探しに行こう」


約束を交わした2人は、晴れ晴れしい顔で歩き出した。






 家に帰ると、祖母が駆け寄ってきた。


「どこ行ってたのー! 連絡もつかないしー!」


祖母が本当に心配そうな顔をして言うので、僕は申し訳なさそうにして説明した。


「いや、それがさ、最近通ってる場所で、生活に苦しんでる人を見つけてさ、一晩付き添って泊まったんだよ。しかも、そこが停電しちゃうもんだからさ……」


祖母は依然として同じ顔で訊ねた。


「え、その子はどうなったの?」


「いや、無事に家には帰れたっぽいんだけどさ、俺と同世代で一人暮らしをしてるんだよ。その生活はもちろん苦しそうで、水商売をしていたんだよ。俺はさ、真剣にその子と二人で暮らしたいと思ってるんだ」


僕は、しっかり祖母の目を見つめて言った。外でカラスが、馬鹿みたいに鳴いた。


「直斗はどれくらい本気なの?」


「彼女のためだったら、悪魔の囁きに乗って、自らの寿命を減らしても良いくらいには本気だよ」


祖母は、僕の渾身の表現に笑った。


「寿命減らしちゃダメでしょう。でも、それくらい直斗が本気なら、私は安心だわ。これから、どうしていくの?」


「本気で働いて、杏夏、いや、彼女との家庭を築くつもりだ」


祖母は久々に、満面の笑みを浮かべた。


「直斗も大人になったわね。私ももう、先は長くないから、好きにしなさい」


杏夏とだったら、どこまでも船を進めていけると思っていた。






 翌朝、例のレンタルビデオ屋で集合し、僕らは職業安定所を目指した。そこへ向かう道中、僕と杏夏はこれからの希望を話していた。


職業安定所に着くと、僕らは別々のブースに案内された。色々と難しい話もしたが、最終的に、僕は自動車工場で、杏夏は美容室で働くことが決まった。


それからの日々は多忙で、どうしても週1くらいでしか杏夏とは会えなくなっていた。家を建てるまで、僕らは貯金をするつもりだったが、まずはアパート暮らしから始めようということで、半年ほど経った頃に、僕らは同居し始めた。






 杏夏が怪しくなり始めたのも、この頃だった。隙間風が吹き込むアパートの一室で、一緒に暮らせている幸せを掴みながら、たまには一緒にお風呂に入ったり、眠れない夜にこたつで語り合ったりしていた冬のことだ。


杏夏のお腹が異様に膨らみ始め、挙動不審な行動をとるようになったのだ。僕が冗談を言っても、一向に笑うことなく、何かに怯えるような目つきをしているのだ。


ある夜のことだった。


僕の帰りは7時くらいで、杏夏よりもいつも早いので、その夜も、アパートの狭いキッチンで料理を作っていたのだ。


作っていたのは、焼き魚と煮物で、比較的時間が掛かったのだが、いつもは料理が終わるくらいには杏夏が帰ってきていたのだ。でも、その夜は、異様に杏夏の帰りが遅かった。不安はどんどん積もり、電話を掛けたが、ワンコールで切られてしまった。


結局、杏夏が帰ってきたのは11時過ぎで、その夜だけは僕の話に耳を傾けることすらしてくれなかった。冷めた焼き魚と煮物を加熱し直す杏夏の姿を、横から見ていた。なぜか、バルーンの空気が抜けたみたいに、杏夏のお腹は薄くなったように見えた。


深夜になって、ベッドから抜け出した杏夏は、隣の部屋で何かを書いていた。それを見たい気持ちは強くあったが、見てしまったら何もかも終わってしまう気がして、眠ったふりを続けていた。

不思議な夜だった。






 杏夏と暮らし始めて、初めての春がやって来た。アパートの前の桜は、綺麗に色づいていた。2人とも珍しく休みが合ったその日、僕らは一緒に昼まで眠っていた。起き抜けにカーテンを開けて、窓を見た杏夏は、「桜が綺麗だよ!」と騒いで、僕はその背後から窓に視線を移した。こうして2人、季節の訪れに感動を覚えるような、些細だけれど愛おしい瞬間を大切にしたいと思った。


「ねぇ、今年の夏、旅行行こうよ」


杏夏は桜をぼんやりと眺めながら、曖昧な反応をする。


「あ、うん、そうだね」


あの夜から、ずっとこうだ。杏夏は、ずっと明後日の方向を見つめて、笑うことを抑えつけられているようだった。


「杏夏、君は被害者だよ。ずっと何かの重圧に耐えてるように見えるけど、そもそも杏夏は1ミリたりとも悪いことなんてしてないんだよ」


僕は必死に言葉を投げ掛けて、杏夏は必至にそれを跳ね返した。


「分かった。夏まで、頑張るから」


杏夏は必死に言葉を振り絞ったようだった。


「俺がそばにいるから」


その日は2人で、久々にまた映画を観た。






 雨の季節になって、僕らは旅行の計画を立てていた。お金があまり無いから、国内でも遠い場所には行けなかった。行けて、せいぜい関東か東北の辺りまで。沢山話し合って、鎌倉の方に行くことになった。家に関しても、話をした。来年には、小さくても良いから二人で暮らせる家を建てよう。不動産屋はあれにして、構えるのはあそこにして、と、実現できるかも分からないような夢を出し合った。でも、雲行きは次第に怪しくなっていった。






 夏の旅行、初日。

僕らは電車に乗って、鎌倉を目指していた。杏夏は嬉しそうな顔で、行く前から麦わら帽子を馬鹿みたいに被って、僕はそれを笑っていた。鎌倉旅行は、2泊3日の予定で、鎌倉もそう遠くはなかった。けれど、夏ということもあって、湘南の海なんかには、人が波のように押し寄せることは想像していた。


鎌倉に着くと、まずは『鎌倉文学館』という場所に行った。ここは、薔薇園が綺麗で、それバックに杏夏とのひと時を切り取った。また、ここには川端康成などの有名な文豪の直筆原稿が展示されていて、とても感動した。


その後、『江の島岩屋』という場所にも行った。そこは天然の洞窟で、奥の方に進む途中で、蝋燭を渡されたりもして、なかなか雰囲気があった。杏夏はびくびくと怯えて、僕の肩にしがみついていた。けれど、洞窟の中には歌碑があって、そこには与謝野晶子が詠んだ「沖つ風 吹けば またたく 蝋の灯に しづく散るなり 江の島の洞」なんて風流な詩があったりもして、僕は終始興奮しながら歩いていた。


岩屋を抜けると、僕らは急に腹が減り、どこかランチを探すことにした。二人でネットを見ていると、あの村上春樹が通っていたという食堂を知り、僕らはそこに出向いた。


平屋っぽい造りのその食堂は、異国を感じさせる名前でありながら、出てきた刺身定食は新鮮で、日本人であることに感謝さえさせた。


「ご馳走様でした」


食堂を出て、僕らは海水浴場に足を伸ばした。夕方の海水浴場は、帰る客の方が多かった。海岸線に沈む夕陽に、僕らは見惚れていた。でも、誰もう来ないと思った海岸に、家族連れがやって来た。沢山の子供を連れた家族で、余裕の笑みを浮かべながらやって来たのだ。


「いやぁ、次出来るのは何人目だい?」


夫は妻にそう問い掛けた。


「もう6人目になるわねぇ」


お腹を擦りながら、妻は言っていた。


それを見るなり、杏夏の柔らかい笑顔は引きつっていき、海に背を向けてしまった。


「もうホテルに帰りたい」


杏夏の今にも泣きそうな顔を見て、髪を優しく撫でた。


「分かった、帰ろう」


陽が傾いた海岸を後にして、僕らは近くのホテルへとチェックインした。楽しいはずの時間さえ、彼女は許さなかった。備え付けの椅子に腰掛け、ただ何も話しかけないでほしいと言うように海を見ていた。無言で夕食を食べ、僕らは眠った。






 夜、潮騒が妙に耳に入ってきて、目覚めると、一緒に寝ていたはずの杏夏がベッドからいなくなっていた。部屋を見渡しても、彼女の姿は無く、僕は焦って電話を掛けた。部屋の中、Sudarenの『セミシグレ』が流れた。



いつの間に過ぎ行く季節に

ちょっと待ってよと声をかけても

急に静まる蝉の声で戻れないことを僕は知る

いつの間に過ぎ行く夏休み

虫取り網で掴もうとしてた

今が一番甘いんだって教えてくれたセミシグレ



そんなフレーズを聞いて、僕はホテルを飛び出した。今が一番、甘い。もう、これを逃せば戻れない。苦しいほど、今の自分にピタッとハマるフレーズだった。


さっきまでいた海岸に戻ると、杏夏は立ち入り禁止区域の消波ブロックの上にいた。僕がヴィーナスフォートで買ってあげた衣服を沢山着込んで、飛び込み、沈む気でいるのだろう。月が彼女の横顔を青白く照らして、もう救いようがないようにも見えた。死なせてあげた方が、楽なのだろうか。でも、僕はまだ彼女にしてあげられることが沢山あるように思えた。


「杏夏ぁぁぁぁぁ!」


青春映画の一コマみたいな、恥ずかしい叫び声を上げた。慣れないことをして、咳き込んだ。それでも、杏夏が死ぬくらいなら、僕が死にそうなくらい声を上げた方がまだマシだと、そんなことを思ったんだ。


「杏夏ぁぁぁぁぁ! まだ俺、杏夏に何も残せてやれてないよ! もう死んじゃおうとか、そんなこと考えないでよ! 悩みがあるなら何だって言ってよ!」


杏夏は、足元から崩れ落ちて、泣いているように見えた。助けられた、そう思った。けれど、海風がその瞬間強く吹いて、杏夏は、海に落ちた。僕はバスローブを砂浜に脱ぎ捨てて、海に飛び込んだ。


「死ぬなよ! 死ぬなよ!」


僕は昔習っていた記憶を必死に手繰り寄せながら、海を泳ぎ出した。


杏夏を何とか、引っ張り上げた。気管に水が入り、死にそうになった。それでも、この行動に間違いがなかったのだと、僕は信じるしかなかった。






 杏夏が書いた遺書には、こう書いてあったそうだ。


「私は、あの街で出来た子供を捨ててきてしまいました。子供が出来たと分かったタイミングで、あなたの吸い殻を使って、出生前親子鑑定をしました。残念ながら、私のお腹に宿った子供は、あのおじさんの子供だと思われました。私は自らの犯した罪を、一番苦しい方法で償いたいと思っています。身勝手でごめんね。私は、海に身を投げます」


彼女は病院で3日間の療養を受けた後、警察署で詳しい事情聴取を受けることになった。それでも、直斗には杏夏が全部悪いとは思えなかった。


この歪んだ社会の中で、苦しい生活を強いられる若者が何人いるんだろう。それを助けることもせず、駄目と分かりながら罪を犯す彼らを、なぜ大人は救ってあげられないんだろう。この世の中で、生きられなかった赤児も、生きている心地のしない若者も、さして変わりはしないだろう。好きな人が収監されても、僕は生きていかなければならない。苦しくても、生きていかなきゃいけない。この彷徨える不幸たちに気付いた僕が今、やるべきこと。それに気づいた朝、初めて本物の光を見た気がした。僕が、苦しむ人を助けなければならないのだ。


風端直斗は、新しい朝に向かって船を漕ぎ出す。

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