478.産まれながらの棄権者



 なぜだ?

 なぜ、地獄に戻った……?


 99層は広いだけで、何もない空間。

 迷宮らしい仕掛けがあるとすれば、血の底なし沼一つのみ。


 その中に、あえて。

 いま抜け出したばかりのファフナーが、自ら飛び込んで、戻っていった。


 あの先は、清掃員ネイシャが作った魔法空間。

 かつて俺が生んだ地獄の一つ、ファニアの『最下層』そのものが待っているはずだ。


 しかも、『血の理を盗むもの』の【二度と戻らない】という悪趣味なルールまで足されている。ファフナーならば、その恐ろしさは誰よりも分かっているはず。それなのに、なぜ――


「お、おかしいぞ、ファフナー……。俺を恨んでいないのか? それとも、狂ったのか? とうとう本当に狂ってしまったのか?」


 そう思わざるを得ない行動だった。


 そして、そのファフナーに合わせて、俺と戦っていた敵グレンも動く。

 後退しながら、地下したに小声で呼びかけていく。


「ファフナー・ヘルヴィルシャイン、感謝する……。これで心置きなく、僕もセルドラを追い詰められる……」


 グレンの言葉から、戦意を感じた。

 俺の揺れる心が少し持ち直す。

 俺を殺すために、最後の力を振り絞ってくれるのかと期待したからだ。


 ――しかし、目に映るのは全く逆の光景。


 グレンは血塗れで後退しながら、『魔人化』を解除していた。

 異形化した部分が、変形して人間に戻る――ことはなく、ドロリと液状に溶けてから、魔力の粒子と化していく。


「な、何を……!? 一体おまえらは、何をしている!? どこへ行く!? グレン・ウォーカァアアアア!!」


 いま、グレンの命を保っているのは、『魔人化』の力に他ならない。

 モンスターの生命力を失えば、心臓のない人間は生きていけない。


 しかし、迷いなく『魔人化』を解いた。

 そして、その後退った分だけ、真っ赤な道を地面に塗っていく。


 出血量が尋常じゃない。

 『魔人化』の解除による損傷以上に、ぽっかりと空いた心臓の穴から、どうしようもない血液が大量に溢れ続けている。


 ま、不味い……。

 不味い、不味い、不味い……!


 命の限界を超えている。

 延命が必要だ。

 ガキだった頃の俺には不可能でも、いまならば他者の回復くらいはできる。

 すぐに俺が駆け寄って、触れれば、今度こそ間に合う……!


「……くっ!」


 しかし、動きにくい。


 依然として身体に『黒い糸』が絡まっているままだった。

 グレンの『魔人化』は解かれて、身体が崩壊しているのに、両腕から伸びた『黒い糸』だけは維持されている。


 無茶苦茶だ。


 意識的に、虫の翅だけを残しているようだが、そんなことをしては『人』と『モンスター』の境目が壊れる。


 普通の人間の肉体が、モンスターの器官を持てるわけがない。

 その自殺めいた愚挙を咎めるべく、俺は叫び止める。


「グレン!! 死ぬ気か!? こんなところで! こんな死に方は、違うだろう!?」


 それを聞いたグレンは、後退の足を止めることなく、首を振る。


「いいや、違わないよ……。セルドラ・クイーンフィリオン、僕たちが綺麗に死ぬ資格なんてあると思うかい? 『生まれ持った違い』なんてものを言い訳にして、人を殺してきた僕たちが? 最後は満足に、望みを叶える? ……あってはならない」


 グレンは拳を握り込み、その翅を引き締めて、逆に俺を止めた。


 見事な捕縛――だが、一切震わせない。

 いま俺は絡み付いた『黒い糸』から抜け出そうと力を入れているのだから、あとは少し震わせるだけで切断できる。


 なのに、グレンはファフナーが去っていった血溜まりを見つめ続けて、呑気に呟く。


「聞こえるんだ、血溜まりあそこから……。『過去』は変えられず、贖罪は永遠にできないと……。だから、もっともっと苦しんで、僕も仲間に入れと……。僕に『引かれた魂』たちの呪詛こえが、地獄の底から……」

「馬鹿が!! 聞こえるわけあるか! あの地下したに、魂は清掃員ネイシャしかいねえ!! おまえに関わる呪詛ものは一切ない! あるのは、精神干渉の魔法のみ! でなければ、おまえの精神疾患だ!!」

「いいや、これが本当の死者の声だったんだ……。スノウさんの言う通り、みんなは僕を許さず、離さず、呪い続けてくれている……。おまえなら合うわかるはずだ、セルドラ」


 こちらを見させようと叫び否定したが、グレンは聞く耳を一切持たない。


 仕方なく俺は、本気の力を全身に込めて、その下に向かおうとした。

 俺の竜の皮膚ならば、鉄線だろうと何だろうと千切れる――


「…………っ!?」


 はずだった。

 『黒い糸』は千切れない。


 ありえない。おかしい……。

 いかに特殊な『魔人』だとしても、たかが虫の翅だぞ……?


 触れるだけで裂けるほどに脆いはず。

 その翅に、竜人ドラゴニュートの俺が捕らわれる?


 俺は困惑と共に、翼も尾も含めて目一杯に身じろぎして、脱出を試みる。

 その間も、グレンは話し続ける。


「もう楽な道は止めよう、セルドラ。いつか悪い自分を『英雄』が殺しに来てくれる……。可哀想な家族は、誰かが代わりに助けてくれる……。そんな都合のいい『夢』からは、覚める時間だ」

「ゆ、『夢』じゃねえだろっ! すぐ手の届くところにいる!! すぐそこに、叶えてくれる神がいるだろうが!!」


 図星を突かれて、俺は咄嗟に言い返した。

 そして、視線を『最深部』に繋がる扉に向ける。


 その先に『悪竜』を討伐してくれた都合のいい『英雄』は存在する。

 そう必死に示す俺だが、返ってくる答えは柔らかく、冷たい。


「カナミ君は、ただの鏡だ。嫌われるのに臆病な少年が、無理して演じているだけだ。余り押し付けるな」

「…………っ!」


 何も言い返せなかった。


 しかし、ここで急に『黒い糸』が緩む。

 俺の頑強な皮膚に触れた『黒い糸』が、溶けるように千切れ出した。


 これで動ける。

 だが、それは『黒い糸』さえ維持できないほどにグレンの状態が、間近・・だということでもある。

 俺は急ぎ、消える『黒い糸』の拘束を振り払い、後退るグレンを追いかける。


「グレンッ!!」

「――魔法《ブラッドロータス》」


 その俺を止めようとする魔法が唱えられた。

 当然、全て無視して、俺は突っ切ろうとする。


 だが、がくりと。

 足首を掴まれたように、引っ掛かる。


「…………っ!?」


 俺の本気の歩みが止められるのは、長い人生でも稀な感覚だった。


 困惑しつつ、下に視線を向けると、グレンが出血で塗った赤い道に――蓮の花の形をした赤い水晶が地面から生えて、花弁がモンスターのように俺の足に噛みついていた。


 水晶の花……? 

 ち、地属性の魔法か……!?


 グレンは地属性の魔法を唯一使用できると、クウネルから情報を貰っている。

 だが、ここまで見事に研ぎ澄まされたものとは聞いていない。


 いや、そもそもだ。いまの状態で、どうしてこんなに硬くて強い魔法を使える? 状況と色からして、血の複合か? まるで『理を盗むもの』のように強固な魔法だ。一度『血の理を盗むもの』代行者となり、特殊な術式を得た? ならば、『代償』は命? それとも、人生? とにかく、不味い。本当に不味い……。こ、このままでは……!


「ああ。このまま、僕はモンスターとして死に、魔石となる」


 頭の中の忙しない思考を、グレンに読まれた。

 驚き、視線を向けると――血塗れで嗤いながら、涙を流している男の姿。


「…………っ!!」


 こちらも少しだが、グレンの思考を読めてしまう。

 だって、同じだ。

 俺も同じだから、分かる。


「な、泣くのは……、まだ許されないと思ってるからだろ? 許されずに、地獄へ落ちるのが怖いんだろ? 楽に死ねる場所まで、あ、あと少しなんだぞ……? なのになぜ、わざわざ苦しみながら、死のうとする? 早まるな、グレン……」

「だからこそ、その『最悪』がカナミ君の『計画』を超える。……これから、僕もファフナーも99層ここで敗れるだろう。残るは、おまえ独り。セルドラ、おまえが継いで歩くしかなくなる」

「つ、継ぐ……? 俺が、何を?」

「『本当の英雄』を」


 グレンは後ろで倒れている妹スノウに、視線を向けた。


 あの末裔が『本当の英雄』の意志を継いでいるというのは、よく分かる。

 だからこそ、俺が継ぐというのは、一切分からない。俺ほど相応しくない男はいない。


「ああ、おまえは誰よりも相応しくない……。だからこそ、誰よりも苦しい道になるだろうな……」

「待て。お、俺は、敵だぞ? なのに、継ぐ? さっきからおかしいと……、何もかもおかしいと、思わないのか?」


 震える声で否定し続ける。

 グレンは後退し続ける。


 もはや致命傷を超えて、死に体も超えている。

 しかし、尋常ではない精神力と戦意によって動き続ける――というのに、俺への殺意だけは一切なかった。殺したいはずの俺に向かって、グレンは話し続ける。


「セルドラ。おまえが継げば、やっと逃げ道がなくなるんだ。……僕は魔石となって、地獄むこうから殺したいおまえを励まし続けるしかなくなる。おまえは魔石を持って、死にたくとも地獄ここの先を生き抜くしかなくなる。……本当に『最悪』な結末だ。だが、それだけが、僕たち二人が本気で頑張れる道だと思わないか? ……なあ、セルドラ。僕と一緒に、頑張ろう」


 怨敵を恨むように苦々しく――しかし、同じ『魔人なかま』と話すように優しく、誘いかけてきた。


 許されない俺たちは、誰よりも楽じゃなくて苦しい道を選ぶべき。

 だから、「一緒に地獄で『不幸』になろう」と、その表情かおから伝わってきて、反射的に首を振る。


「や、めろ……」

「ああ、もう逃げるのはめだ。だって、僕たちは死ぬまで許されないし、死んだあとも・・・・・・許されない・・・・・と分かった……。誰かが・・・いつか・・・許してくれるん・・・・・・・じゃない・・・・。だから、僕は死んでも、ここまでの血が無駄にならないように……、どれだけ無様で恥知らずでも、おまえに叫び続けると決めた……。おまえも……、『邪神殺しの悪竜』を無駄にせず、果たしに行け……」


 その視線が「行け」と、『最深部』に繋がる魔法の扉に向いた。


 訳が分からない。

 本当に、グレンの言っていることがわからない。

 だから、俺は怯えた。


 後退して後退していく死にかけの男に、身がすくんだ。

 そして、ついに死にかけの男の無理は祟り――


「逃げ、るな……。誰かじゃなくて、自らが、行くしかない……、『本当の悪竜・・・・・』として……――、地獄を……、生き、抜け……――」


 途絶える。


 同時に、グレンは後ろに倒れ込んだ。

 妹スノウの下まで辿りつく道半ばで、血塗れの身体を横にした。


 動かない。

 その倒れた身体から、血溜まりが広がって――それ以上に、大量の光の粒子が昇り始める。


 モンスターを魔石に変える術式が、迷宮全体には施されている。レベルダウンの応用で、死した生物の『魔の毒』を残さず浄化して、星の循環に組み込んでいくのだ。


 その影響で、99層に張り巡らされた『黒い糸』が全て消え始めた。

 俺の足を固めていた赤い水晶も、脆く砕け散る。

 それはつまり、いまグレンはモンスター扱いされて、死んだということで――


「……は? …………、……は?」


 し、死んだ……?

 いま、俺の目の前で、グレンが……?


 実感が湧かなかった。

 俺はやっと解放された身体を、ゆらゆらと歩かせる。

 赤い水晶の花の道をパキパキと踏んで、辿った。


 拘束する魔法や『黒い糸』さえなければ、すぐに辿りつく。

 まだ生きているだろうと俺は楽観して、手を伸ばして――血溜まりの上にある冷え切った身体に指が触れて、背筋が凍る。


「――――っ!! あ……、ぁ、ぁあぁああ……」


 もう手の施しようがないと、長い経験から分かった。

 だからこそ、俺は歩き出せたのだと分かって――何も分からない怒りによって、俺は声を膨らませる。


「ば、馬鹿が……! も、もっとあるだろうが……! なのに、なぜ、おまえらは、どうしていつも勝手に、いつもいつもっ、どうして!!」


 喋っていると、グレンに触れた指が突き抜けた。

 迷宮の術式による分解で、もう死体に実体がなかった。


「…………っ! い、現代いまを生きるやつが死んでどうする!? 逆だ! 千年前の死人の俺が、現代いまを生きているおまえに力を託して死ぬ! 過去から未来へ繋がれる物語! で、でないと……、でないとおかしいだろう!? 時の流れってやつがよぉ!!」


 逃げるように、指を引いて、一歩後退った。

 そして、震える指先を誤魔化すように、喉を震わせ続ける。


「そういう物語だった!! やっと俺は『英雄』として、命を落とせる! その命を、次代の『英雄』のおまえが受け継ぐ! さらに、いつかはおまえからスノウに受け継がれて――さらに、次から次の世代へと! 受け継がれていく『英雄』の物語!! グレン・ウォーカーは、これからの人類に必要な財産だった!! 主の『計画』では、遠い未来でたくさんの人を救うおまえの姿が視えていたんだぞ!? 逆に、俺は人類の負債だ!! いつ誰を『不幸』にするか分からない俺は、ここで死ぬべきだった! それを誰もが望んでいた! 俺に『引かれた魂』も、おまえに『引かれた魂』も、誰にとっても『理想』の物語となっていた!! それが『紫の糸』の力!! 神の導きだ! なのに、なぜ!? なぜ、背く!? 神の導きにっ、グレンッ、背くなぁああアァアアアアアアア――!!」


 俺は膝を突き、両手で地面を強く叩いた。


 迷宮全体を縦に揺らす。

 99層の広くて硬い地面に亀裂を入れながら、全力で吠え続ける。


「ファフナー!! おまえも背信者だ!! なぜだ!? なぜ、馬鹿しかいねえ!? クソッ、お人好しの馬鹿しかいねえええぇええ!! ぁああぁあアアア゛ア゛ッ――!! っがぁああアアアアアア――ぁあっ、は、ぐっ――、がはっ!!」


 全力すぎて、咳き込んだ。

 息を吐くだけでなく、喉奥から生温いものが出てくる。

 つまり、吐瀉。


 全てを呑み込む竜人ドラゴニュートは食べるものを選ばない。砂だろうが鉄だろうが、万物を崩す廃棄物だろうが、何でも食らって力に変えてきた。

 その俺が吐いた。


「ぐっ、ぁあっ、がはっ! ごほっごほっ――!!」


 吐き、むせる。

 苦しくて堪らない。

 しかし、『適応』はしない。


 俺の『適応』は薄まっている。それでも、生まれ持った竜人ドラゴニュートの適応能力は高い。『不死殺しの毒』でも一瞬で分解する俺を苦しませる原因が、もしあるとすれば――


「ぁ、あぁ……」


 目の前にあるとしか思えない。

 その毒を盛った男は「地獄を生き抜け」という言葉を残した。


 そして、やっと死ねると思ったのに、独りだけで残された俺は、とうとう――


「どうして、誰も俺を殺してくれない……」


 それを言ってしまう。


 ずっと俺は、止めてくれる「誰か」を待っていた。 

 どう考えても負けるのが役割である門番を受け持ったのは、そのお膳立てだ。しかし、誰も俺に勝とうとしてくれない。殺しにきてくれない。……これも『呪い』か? 『適応』のせいか? それとも、『逃避』か? 俺には二つあったからか? だから、他の『理を盗むものみんな』と違うのか? 


 思考が駆け巡る間も、吐き気は止まらない。


 『状態異常』が自然回復しない。間違いなく、普通の『毒』でなければ、『不死殺しの毒』でもない。もっと別の儀式を経て、特別な条件を満たした毒に、いま俺は冒されている。


 その治らない『状態異常』が悔しくて、俺は悪態をつき続ける。


「あぁあっ、グレン……。グレングレングレン……! くそっ、くそっ……!」


 見事、竜人ドラゴニュート耐性ちからを超えられた。

 グレンは間違いなく、こちらの思惑を全て読んだ上で、俺を乗り越えて行った・・・と言っていいだろう。


 そう。

 行ったのだ。

 死ねば、その魂は『繋がり』を得る。

 全ての魂の貯蔵庫であり、我らが神カナミのいる『最深部』まで繋がる道を経て――


 その道をグレンは選び、99層の門番セルドラを越えて、『最深部』へ先に行った・・・・・


 もちろん、それは言葉遊び。

 弱者の屁理屈か詐欺師の戯言だ。

 しかし、この戦いの結末に、先ほどから俺は敗北感を覚えて仕方なかった。


「お、俺が……? この俺が……、負けた・・・?」


 そんな未来は一切なかった。『計画』は完璧。

 丁度いいところで、俺は恰好良く魔石になっていいと、神に許された流れ・・があった。


 しっかりと「セルドラの『最強』の魔石は、カナミと戦うときに有用だぞ」と思い知らせた上で、唯一俺と必ず『親和』してくれるグレンに託せる……という綺麗な流れが、あった……、のに……。


 グレンは先読みしたのだ。

 そして、俺が流れに身を任せているだけなのを逆手に取った。

 だから、後に残るのは――


「…………っ!! あ、あぁあっ! あぁっ、グ、グレンの魔石がっ……! 魔石がぁあぁぁああああ……!!」


 消えゆく死体の粒子の中に、赤銅色の魔石が残っていた。


 それを見て、悲鳴をあげたのは、俺と必ず『親和』できる――どころか、唯一俺とだけ・・・・・・『親和』すると、一目で分かったからだ。


 さらに、触れずとも分かる。

 この魔石と『親和』すれば、もっと俺は強くなれる。

 あの男の『黒い糸』も『不死殺しの毒』も得て、もっともっと先へ行ける。

 この本当の・・・最強・・』の魔石を食らうことで、さらに高みへと、この俺が――


 お、俺が……、行く……? 

 ここから先……、さらなる高みへ……、俺が? 

 それは……、それは……!


 俺の視線が、グレンが最期に見ていた魔法の扉に向く。 

 その先にいる神話的存在を思い出して、トラウマで身体が弱々しく震え出す。


「ぁああぁぁ……」


 行けない。

 相手が強いとか勝てないとか、そういう問題の話ではない。


 どんなに許されない者でも、容赦なく許してくる神なのだ、あれは。

 もう一度、あの恐ろしい鏡と向き合うくらいならば、俺は自決を選ぶ。


 ――しかし。


 しかし、いま俺が自決したら、この赤銅色の魔石と『親和』できるやつが、この世からいなくなる。


「――――ぅっ! ぅうぅっ、うううぅう……」


 俺は口を押さえて、膝を突き、蹲った。

 グレンと戦い、傷つき、苦しみ――命の託し合いの勝負に負けて、悔しくて、とうとう一筋の涙を右目から零してしまう。


 巨漢の身体を丸めて、嗚咽と共にむせび泣く。

 伝説の総大将であり、無敵の竜人ドラゴニュート様のはずの俺が、余りにも情けなく――


「も、もう……、嫌だ……。どうして、俺だけが、こんな……」


 子供のように嫌がった。

 いますぐ、全てを投げ出したい。


 ――しかし。


 しかし、いま俺が諦めれば、グレンの魔石たましいと人生が無駄になってしまう。

 その事実と向き合いたくなくて、蹲って、口と目と耳を塞いだ。

 このまま、『終譚祭』の終わりまで、俺は逃げたい。


 しかし、聞こえてくる。

 地下したから。

 地と血の底から鳴り響くのは、死者の声――


(――逃げ、るな……。誰かじゃなくて、自らが、行くしかない――)


 容赦なく、死んだあとも・・・・・・励ましてくるグレン。

 慌てて俺は顔をあげて、原因らしき血溜まりを見た。

 それを作ったのは、あの哀れなファニアの少女で――


(――それで許してあげます――)


 清掃員を思い出して、一回蹴られただけで許されたことも思い出した。

 そんな訳あるかと首を振り、この俺が地獄に落とした少年ファフナーに意識を向ける。


(――セルドラさんは誰よりも頼りになる人だ。……きっと俺たちよりも上手く、カナミさんを助けてくれる――)


 もう血溜まりから視線を逸らすしかなかった。

 ただ、その逸らした視線の先には、戦場で丸くなって眠るスノウの姿。


(――私はあなたと一緒に、カナミを助けに行きたい――)


 まだ生きている末裔の前向きすぎる声が、最も受け入れられない。

 起きてもいないスノウに向かって、上ずった声で俺は言い訳する。


「お、おまえら……、お、おかしいぞ? 流れに任せているだけの俺に、な、何を任せられる? おまえらを地獄に落とした俺に、どうして託せられる? 絶対に駄目だ。俺は生きてるだけで迷惑なんだ。もう俺は……、だ、誰も『不幸』にしたくない……」


 震えて、また蹲る。

 経験から、時間で慣れて、過ぎ去ってくれるのを待った。


 つまり、もう一度『呪い』の『適応』だ。いや、これは『適応』に『逃避』か? とにかく、『呪い』だ。神から頂いた『狭窄』もある。上手く『呪い』を活かせば、すぐに俺は、また普通の『幸せ』を感じられるように――


 感じられるように……、なる?

 本当か? 本当になるのか? 


 千年前、『適応』しても、嗤って愉しいのは結局辛かった。

 現代、『逃避』しても、笑って楽しいのは結局苦しくなっている。


 『幸せ』になればなるほど、死にたくなるだけの人生だった。

 だけど、まだ死ねない。

 グレンに負けたせいで、まだまだ俺は許されない。


「うぅううっっ!! ぅぅうぁああっ、あああああぁぁ……」


 嗚咽を漏らした。

 肩を小刻みに震わせる。

 涙で、顔中をぐちゃぐちゃにする。

 ぼたぼたと地面を濡らしながら、限界まで身体を縮ませる。


 これならば、何もかもつまらないほうがマシだったと、楽な道に逃げた自分を後悔して、泣いた。


 大の大人が、余りにみっともない。

 こんな俺が、『本当の英雄』を継ぐだって? 嗤わせるな。


「ぁあぁ、くはっ、はは、ぁが、がぁっ、ごほっ――! あ、ぁあぁ……」


 ――限界だ。


 涙を流しながら、俺は二度目の限界・・・・・・を感じる。

 優しい神様カナミに気を遣われて、『第八十の試練』でも直前で止まっていた限界を、いま俺は超えてしまった。


「グ、グレン……、スノウ、ファフナー、みんな……。お、俺は、おまえらのようにはできない……。先へは、行けない……。だって、俺は……――」


 ゆっくりと顔をあげた。

 涙が零れないようにと、滲んだ空を見上げた。


 迷宮の99層は広く高く、地上のように開けた空間で、まるで空があるように見える。

 ただ、その見上げた空から、いま――血の雨が降る・・・・・・

 98層より上を維持していた『血の理を盗むもの』の力が解除されたのだろう。


 あ、ああ……。

 いま、清掃員あいつは救われたのだ……。

 俺と違い、あのゴースト混じりの少年と心中できたんだ……。


 だから、迷宮が壊れる……。

 千年前から続いた長い血の歴史が、いま終わっていく……。

 みんなみんなみんな、終わっていくんだ……。

 俺独りだけ残して……、みんなだけが先にく……。


 俺は血の雨を浴び続けて、見上げ続ける。

 故郷のようにくらい曇り空だと思った。


 ――生まれを懐かしみ、俺は呟く。


 それは同じ生まれのカナミと舐め合いたかった精神こころの傷口。

 だが、もうカナミは神様だから、俺は独りで傷口を舐めるしかなかった。


「みんな、俺は……。生まれながらに・・・・・・・欠陥品だったんだ・・・・・・・・。その上、環境がクソでな……。『最悪』な儀式のせいで、ほんとどうしようもない『悪竜やつ』になっちまって……。くはっ、くはははっ……」


 血の雨に合わせて、ぼろぼろと涙が零れ続ける。

 大の男が大泣きし続ける。


 だって、もう慣れたはずの傷口が痛い。

 毒を塗られたかのように、精神こころの傷口が痛いんだ。

 本当に痛いから、吐き出すしかない。


「俺は『最強』の生物どころか、生物の欠陥そのものだったんだよ……。なのに、普通の『幸せ』に憧れちまった……。け、欠陥品だから、すぐ逃げこんだ。千年前、神様のところに「どうか、普通の『幸せ』を感じて死ねるように、この世界に『適応』させてください……」って、恥も外聞もなく、『失敗作』のくせによぉ……。情けなくも、神に許しを請いに……。祈りに、行ったんだ……! ぁ、あはっ! く、くははっ、くはっごほっがぁっ、あは、はははははっ、ごほっくははははハハハハッ!!」


 泣いて、嗤って。胃液さえなくなった胃袋から白状はきだされるのは、千年前の一度目の限界・・・・・・

 本当の『最深部』の歴史だった。


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