463.誰もが生まれ持ったもの
海が赤い。
空も赤く、雲も赤く、太陽も赤く。
水平線まで波一つない真っ赤な水面が広がっていて、赤以外は何もない。
物音一つなく、静かだ。
風もなければ、匂いもない。
世界の終わりのように何もなくて、全てが止まっている。
怖ろしく、奇妙で、
そんな赤い水面に、僕は立っていた。
なぜ立っているのかもわからなければ、どうやって立てているのかもわからない。
未知の赤一色に、本能的な感情が湧き立った。
毛先のような恐怖が、目の裏をくすぐる。
いますぐにでも、逃げ出したい。
目を閉じて、この光景を忘れて、目を覚ましたい。
そう思えるほどに、ここは現実感がなくて、嘘臭くて、幻のようで――
(――落ち着け。これは夢だ、ライナー・ヘルヴィルシャイン)
足元の水面が急に、ぼこぼこと泡立った。
初めて音と波が生まれ、僕の名前が呼ばれてしまう。
この奇妙な状況の原因が、声から識別できた。
声の主は、つい最近僕たちの仲間となった元『血の理を盗むもの』代行者。
ゴースト混じりの魔人ファフナー・ヘルヴィルシャイン。
ご先祖様の言葉によって、ぎゅっと目を閉じたいのを我慢する。
眠っていることを思い出して、この赤い夢を意識的に見続けていく。
(そうだ。そのまま、身を委ねろ。……心配せずとも、血を呑ませて術式を教えるのは、千年前だとよくある手法だ。俺の故郷ファニアだと、何度も繰り返されている。なにより、俺は専門家だ)
夢の中、この状況が魔法の継承であると説明された。
なんとか患者を落ち着かせようとする医者のような優しい声色は続く。
(そう、俺は血の研究者だった。故に、他の『理を盗むもの』たちと違って安全に、おまえの血に刻まれた全てを照らし合わせ、検証してみせよう)
そう、いま僕は――ライナー・ヘルヴィルシャインは検証されている。
それはご先祖様と合うかどうか。
上手く『親和』できるかどうか。
もっと強くなれるかどうか。
それが、この真っ赤な夢にかかっていた。
借りものだろうと何だろうと、少しでも力を得たい僕は、ファフナーさんの言うとおりに落ち着いていく。
この血の海のように波一つ立たせず、状況を受け入れていく。
継承に必要なことを、直感的に僕は理解できていた。
だから、全神経を研ぎ澄ませて、集中していくのだが、
(それと、解き明かさせても貰う。あの日、カナミさんの隣にいた『聖人』様が、君たちの血脈に遺した『
当のファフナーさんが、余り継承に集中してくれていなかった。
鮮血魔法の継承は二の次で、本命は僕の中にある『聖人』ティアラの遺物の確認であると、その興奮して少し上ずった声から伝わってくる。
あのキリストとラスティアラが『告白』し合った日に、ティアラさんが僕に託したものが彼は気になっているらしい。
何度も僕は「僕の中にあるのは、ちょっとした記憶だけ。それも穴だらけで、全く役に立ちませんよ」と繰り返した。しかし、彼は「いや、あの少女ならば、きっと何かを遺しているはずだ! だって、あの少女だぞ!?」と言って、全く信じてくれなかった。
いつの間にか、ファフナーさんの信仰対象の鞍替えが起きていて、ティアラさんとラスティアラへの憧憬が増している。
正直、僕の中のティアラさん像は「滅茶苦茶いい加減で、性格悪くて、他人任せで、絶対に信用してはならない女」だ。
千年後のファフナーさんに『双剣の騎士』という役割を遺した理由は、「適当」か「嫌がらせ」の二択だと思っている。
その僕の不満は、ちゃんとファフナーさんに伝わっているようで、ちょっとした言い訳の言葉が足されていく。
(す、少し確認をするだけだ。そんな顔するな、ライナー。ノワールの『星魔法』と、シアの『使徒レガシィの器』を解析しつつ、君の双剣に秀でた『剣術』も分析するだけで……)
本当に面倒臭いご先祖様だ。
とはいえ、こうしてまともにコミュニケーションを取れるだけでありがたいと思っている。
聞けば、カナミに敗北したことで、狂っている振りを止めたらしいが……まだ狂信者っぷりは身体に染みついている気がする。
ティアラさんの行動に一つでも不可解なことがあると、全力で
そして、そのバカ真面目で真っすぐな姿は、どこか兄様や姉様に似ていると思った。
その『繋がり』を認めたとき、血の海に変化が生まれ始める。
ぼこぼこと。
また血の水面が泡立ち、少しずつ干上がっていく。
水平線まで陸地が浮かび上がっていくのは、夢のような光景だった。
だが、まさしく夢だと知っている僕は、その変化を冷静に見つめ続けた。
数分後に、新たな陸地が完成する。
僕は水面でなく、どこかで見たことのある荒地に立っていた。
辺りには無数の枯れ木と瓦礫が散らばり、ぽつぽつと倒壊した家屋が目に入る。
草花はなく、一面が焦げ茶色。あとは、僅かに火と煙によって、赤と灰色があるくらいだろうか。先ほどまでいた場所と違って、冷たい風が吹き、しっかりと血の臭いがした。
その色、温度、臭いに包まれていると、強い郷愁にかられる。
(――ここが、君の血に刻まれた生まれ故郷か)
懐かしいのは、当たり前だった。
目の前で倒壊しているのは、この僕の生まれた家だった。
かつて戦火に呑みこまれて、あっさりと滅んでしまった小村を僕は見回していく。
(そして、その家が千年前から連なる高貴な血の屋敷――)
違う。
生家の跡地をよく見て欲しいが、屋敷ではない。
廃嫡した血筋の隠れ家というわけでもない。
そんなに立派なものではなく、よくある小村のよくある家だった。
連合国といった都会の家屋と比べると貧相かもしれないが、いまの時代の一般家庭だと思う。それが、僕が生まれた家だ。
(貴族の生まれですらない? ならば、何か特別な本か言い伝えか何かが……)
ない。
特別な教養など、僕にはない。
本なんて高価な趣向品は、一冊だってなかった。
村を含めて、そう裕福ではなかったから当然だ。
大した伝統はなく、特別な強さだってなく、どこにでもあった村だった……だから、当然のように戦火に焼かれて、世界の地図から消えてしまった。
よくあることだ。
大国の庇護下にない地方だと、こういうことはよくある。
そして、戦火に巻き込まれたあと、もう行く当ても帰る当てもなくなってしまうことも、本当によくあること。
自分から売り飛ばされるために、戦場を漁る商人や賊を探す子供は多かった。
ただ、その中、僕は運が良かった。
僕が故郷と家族を失い、荒地を彷徨っていたときに見つけてくれたのは、南の正規軍だった。
(…………っ! そういうことか。そこで運命的に出会ったのが、ヘルヴィルシャインの騎士だったというわけだな)
いや、無名の兵士に助けられた。
その後、その人に引き取って育てられることもなく、とある孤児院に移送された。
その移送が、あなたの考える『聖人』ティアラ様のご加護かどうかはわからない。
そう言われればそうかもしれないと、否定はできない。
ただ、僕は思っている。
そこには、誰の
もし僕に何か特別なものがあったとすれば、それは――
「僕を拾ってくれた無名の兵士が、この世界を生き抜く立派な『人』の一人だったというだけ」
その上で、幸運が重なったのだと思っている。
幸運の最たるは、この大陸で有名な四大貴族の末席に加わることだろう。
ここから先は、鮮明に覚えている。
いや、逆にここまでの記憶が辛すぎて、子供だった僕は本能的に考えないようにしていた可能性が高い。
とにかく、僕は孤児院に預けられて、そこで新たな人生を歩み出した。
幼い僕は全てを失い、孤児院で悲しみに暮れていた。
しかし、決して立ち止まることなく、人助けをし続けていた。
幼いながらも自分の幸運を理解して、周囲の恩に報いようと、孤児院に少しでも貢献しようとしていたらしい。
自分のことながら、立派だと思う。
亡き両親も立派な人だったのだろう。人助けが回りまわって自分のためになるという教えを遺してくれたのだ。もちろん、子供心ながらに、誰かを助けることは正義で、恰好いいからという憧れも混じっていたと思う。
だからこそ、当時の僕は孤児院で誰よりも前向きで、明るかった。
ただ、いま思えば、その明るさは他にも理由があったとわかる。
はっきり言うと、『素質』。
僕は『素質』が高いから、故郷を失っても、親を失っても、明るく振る舞える余裕があった。
その身も蓋もない現実を、よく知っていたのは四大貴族ウォーカー家。
あの家が、戦時下の孤児院でも元気な子供を漁っていたおかげで、僕は見出される。
これも、そう珍しいことではない。
『素質』が高い子供は、金持ちに
ファフナーさんの生きていた千年前と違って、『ステータス』というものがある以上、この風習は必然のこと。
こうして、ウォーカー家に拾われた僕は、貴族の仲間入りを果たす。
しかし、その後すぐにヘルヴィルシャイン家の養子となってしまう。
性格の問題だったと聞いている。
数週間の問答で、僕は英雄に向かないとウォーカー家の人たちに診断された。
人助けの精神はいい。しかし、献身的すぎるのは、リーダーに向いていない。『素質』はあれども先導者となれなければ、家に利益はもたらされない。この生まれながらに守護者めいた性格は、騎士や従者のほうが向いている――という話の流れがあって、当時のヘルヴィルシャイン家当主が、僕を引き取ることを承諾したらしい。
そこから先は、ライナー・ヘルヴィルシャインの記憶として、かなり新しい。
連合国フーズヤーズの一等地に建っていたヘルヴィルシャイン家の屋敷に連れられた僕は、そこで直系の兄や姉を守護する盾として育てられていくことになる。
屋敷で、色々な人たちと出会った。
まず憧れの長兄ハイン・ヘルヴィルシャイン。
それと最も年の近い七女フランリューレ・ヘルヴィルシャイン。
この兄様と姉様と一緒になって、やっと僕の本当の人生は始まったと言っていいだろう。
もちろん、その二人だけじゃない。
ヘルヴィルシャイン家の屋敷は連合国の一等地に建てられていて、四大貴族の社交場として利用されることが多かった。
とはいえ、末席どころか拾われ貴族の僕が、正式に参加することは一度もない。兄様や姉様の従者として後ろに控えるのが常だった。
基本的に、社交場のメインとなる屋敷の中は、大人たちの領域だ。
なので、思い出は屋敷の庭の場面が多い。
そこに並ぶ顔たちは、四大貴族の屋敷に招待されながらも年若い――もしくは、何かしらの問題を抱えた変わり者たちばかりだった。
その中に、まだ若いパリンクロン・レガシィが似合わない貴族服を着ていたのを覚えている。あいつは姪のシア・レガシィと行動を共にすることが多かった。
そのすぐ近くでは、ウォーカー家の拾われ貴族たちが集まっていた。
確か、幼いグレン・ウォーカーとスノウ・ウォーカーの二人もいた。
年は離れども背の変わらない二人はいつも一緒で、とある男性と楽しげに話しているのをよく見た。
「――スノウちゃん、グレン君。余り離れちゃ駄目だよ」
この大庭だと、最年長の男。
名は確か、ウィル・リンカー。
リンカー家はウォーカー家の分家で、魔法の才能豊かなテイリという妹がいたはずだ。彼は
僕の人生とは余り
だが、ファフナーさんの鮮血魔法は彼を捉えて離さず、その声を拾った。
「ねえ、二人とも……。『本当の英雄』とは何だろうね? せっかくだから、ここで一緒に考えようか」
英雄……?
少し懐かしい単語が出てきた。
すぐに幼き竜人スノウ・ウォーカーは「誰でも殺せるくらいに強くて! 誰にも囚われない自由な人!」と答えて、隣の義兄グレンから「スノウさん、絶対違うと思うよ」と諫められる。
その答えにギルドマスターのウィルは苦笑いを浮かべて、やんちゃな期待の新人に向かい、託すように教えていく。
「もちろん、強さも大事だね。でも、英雄として大事なのは、誰かを倒そうとする力じゃなくて、誰かを守ろうとする心だと思うよ。守り切らないと、英雄って呼んでくれる人がいなくなっちゃうからね。スノウちゃんには、その守る力がちょっと足りないかな?」
「えー、そうですかー? 守るよりも倒すほうが、絶対大事だって私は思います!」
血気盛んな時期のスノウに、当時のギルドマスターが手を焼いている。
さらに言えば、すぐ近くで話を聞いていたギルド『エピックシーカー』サブマスターの扱いも同様だろう。
話の続きをパリンクロンが「『本当の』って言葉が付くほど、嘘くさいものはないな。俺はスノウと同意見だぜ?」と拾って、隣の姪っ子シアから「伯父さん、自分が一番英雄とは程遠いタイプだからって! あー、昔はこんなんじゃなかったのに!」と騒ぎ出し、賑やかさが増していく。
その様子を、遠目に見ていた。
夢を見る僕だけでなく幼少の僕も、遠くから食い入るように見つめていた。
その僕の足元には、記憶にない血溜まりがあった。
ぼこぼこと泡立たせて喋るのは、僕と共に記憶を見ているであろうファフナー。
(あそこにいるのは、幼少のグレンと
ウォーカー家の集団に向かって、ぶつぶつと「違う」「そうではない」「しかし、どうして?」と、何かを考え込んでいる。
すると、隣から優しい声が聞こえてくる。
「ライナー? ラウラヴィア国の人たちが気になるのかい?」
隣に立っていたハイン兄様が聞いた。
夢を見る僕に――ではなく、幼少の僕に。
幼い僕が素直に「はい。気になります」と頷き返すのを見て、微笑と共に話し続ける。
「ギルド出身の人って、いつも賑やかで、ちょっと羨ましいよね。……そうだ。こっちも負けじと、『本当の騎士』についてでも考えてみようか? ライナーはそういうの好きだろう?」
好きだった。
このときの僕は、誰よりも騎士というものに憧れていて、神聖視していた。
ただ、その話の振りに答えるのは、同席していた姉の元気な声。
「いいですわね! そういうのが、わたくしも大好きですわ! 『理想』の騎士様のお話! いつかお会いしたいですわー!!」
当時のヘルヴィルシャインの屋敷だと、この三人で集まっていることが多かった。
拾われ貴族の面倒をよく見てくれた二人には感謝しかない。
「はあ、フラン……。大事なのは、私たちが騎士として大成することであって、他人に求めることじゃないよ。あと、いつも思うけれど、フランの『理想』は乙女の妄想が入り過ぎで、現実的じゃない」
「むっ! 『理想』の高さに関してだけは、ハインお兄様に言われたくありませんわ! わたくしより、ずっとずっと妄想が入っているのを、わたくしは知っています!」
兄様と姉様が仲良く話すのを、幼い僕が微笑を浮かべて眺めている。
もう再現できない光景に、少しだけ目頭が熱くなる気がした。
そして、当時の僕は、敬愛する二人の会話が途絶えたところを見計らって、口にしていく。
自らの信じる『本当の騎士』の在り方を。
「ハイン兄様、フラン姉様。『本当の騎士』とは、弱きを守り強きを挫き、苦しむ人々を助け、誰よりも誠実であることだと思います。つまり、とても献身的であり、決して主に逆らうことなく、無私の心で仕え続ける者。フーズヤーズ騎士道の心を片時も忘れず、レヴァンの戒律も遵守する。『本当の騎士』といえば、それはハイン兄様のことでしょう」
媚びを売っているわけではなく、そう心から思っていた。
ただ、兄様は少し向こうにいる『エピックシーカー』ギルドマスターのウィル・リンカーと同じ表情になる。
それは期待の新人の思い込みが激しくて、年長者として困った顔。
兄様は苦笑しながら、託すように教えてくれる。
「そう言ってもらえるのは、嬉しい。けど、違うんだ、ライナー。確かに、私は『本当の騎士』を目指しているけれど、まだまだ程遠い。本当の主すら、見つけられていない」
「兄様が程遠い? そんなこと……、絶対にありません!! 兄様は誰よりも立派な騎士です! まさしく、伝承のヘルヴィルシャイン! 『騎士の中の騎士』とは、兄様のこと!!」
すぐに幼い僕は否定した。
その兄様の謙虚な姿は恰好いい。
けれど、それは謙虚過ぎると苛立ち、受け入れることはなかった。
「弱きを守り、苦しむ人々を助ける……。ヘルヴィルシャインの基本理念だね。とても大事なことだ。でも、『本当の騎士』は、決して主に逆らわないことではないと思うよ。――むしろ、逆だ。騎士でありながら、騎士の範疇を超えて、主命に逆らってでも守り通そうとする。その心の強さこそが、『本当の騎士』になれる条件だと私は思っている」
「まあ! なんて素晴らしく、ロマン溢れる条件! この場だとわたくしが一番近いですわね! 騎士の職務を超えていると、よく言われますから!」
姉様は答えたが、幼い僕は答えなかった。
兄様の答えも姉様の答えも、受け入れることはできなかったからだ。
「はあ、本当にフランは……。もうそれでいいよ。君は君の道を邁進するのが、一番いい」
「やりましたわー! お兄様のお墨付きを頂きましたわー!」
どこか諦めた様子でハイン兄様は認めて、フラン姉様は大喜びで両手を上げた。
それが、とても懐かしくて、居心地がよくて……。
過去を視る僕は、少し泣きそうになり、視界が滲む。
…………。
本当に仲が良かったと思う。
拾ってくれたウォーカー家の性格診断のおかげだ。
僕はヘルヴィルシャイン家と合っていた。
ただ、いま見直すと、少しだけ印象は変わる。
このときの亡きウィル・リンカーと亡きハイン・ヘルヴィルシャインの言葉が、少しだけわかる気がする。
ハイン兄様は謙虚というよりも、自虐的な人間だった。
フラン姉様は自信家というよりも、傲慢な人間だった。
もちろん、敬愛する二人は自虐も傲慢も乗り越えて、騎士として大成していくのだが……とにかく、その二人の背中を幼い僕は少し勘違いしながら、追いかけた。
いつかハイン兄様のように、謙虚でありつつ完璧な騎士になりたかった。
いつかフラン姉様のように、自信たっぷりの強い騎士になりたかった。
二人の背中から学び、追い続けたのは、きっと――
(――
足元の血が泡立ち、そう告げた。
僕の血に刻まれた記憶を読み返して、血の専門家としての助言が入る。
(ライナーという少年は、物心つくまえに戦火に呑まれてしまい、特殊な環境に置かれていた。ゆえに、まともな愛情を知らずに生きてきた。俺には異常な家族愛を、兄と姉に抱いていたように感じる。亡き兄には、もちろんのこと。姉代わりのフランリューレに対しては、少年らしく熱く激しい想いを――)
大事な選択肢だ。
これに頷けば、少しはファフナーさんと人生が『親和』する。
逆に、この血の声に頷かないと、鮮血魔法の継承は成功しない。
わかっていたが、自分の心に嘘をつくことはできなかった。
(ファフナーさん。よく言われますけど、違います。確かに、フラン姉様を僕は深く敬愛しています。それは認めますが、だからと言って、異性としては見ていません。見られませんよ、あんな人)
確かに、フラン姉様は異性として魅力的だったかもしれない。
だが、僕が何よりも敬愛しているのは、その姿の美しさよりも心の美しさ。
学び、追いかけようとしたのは、ヘルヴィルシャインの名に相応しい精神。
(僕が兄と姉の背中を追いかけた理由は、ただ一つ。それは、僕が『ライナー・ヘルヴィルシャイン』になったからでしょう。家名を頂き、憧れの騎士にしてくれた。その多大な恩に感謝して、血族を敬い、思想を学び、背中に続きたいと願った。それだけ。――『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』、あなたは違うのか?)
(俺……? 俺も……、あの憧れの背中から、色々なものを学び、どうにか追いかけようと……、していた……?)
逆に僕が問い詰めて、血の声は震える。
どうにか僕に血を受け入れさせようと説得の言葉を考えてくれていたようだが、すぐにご先祖様は降参していく。
(違うな。――
はっきりと告白した。
自分の幼少期の心を、いまだからこそ素直に認めていく。
そのときだけは学者っぽさはなくて、とても軽い口調だった。
(そういや、いつか俺もネイシャを名乗れたらいいなとか思ってたなぁ。ただ、そこに特別な意味は一つもなくて……、普通の初恋の話だったんだ。小さい頃ってのは、そんくらいの切っ掛けで、面倒な勉強だって死ぬほど頑張れたもんだ。くははっ)
年を取って、成長して、子供の頃はわからなかったことが解き明かされていく。
だから、いつも年長者たちは後ろを歩く者たちに託しておこうと、色々なことを教えてくれたのだろうか。それは、いまになってわかるのは少し遅いけれど、いまになってわかるのが少し嬉しいこと。
ファフナーさんは僕と同じ気分のようだった。
(……ああ、そうだな。いまの俺だから、わかるんだ。俺はヘルミナ・ネイシャという女性を、姉のように慕っていたとかじゃなくて、異性として好いていた。だから、俺は彼女の隣に立とうと必死だった。確かに、おまえとは違うな)
(はい、違います。残念ですが)
共感はできても、明確に違う。
生まれ持ったものも違えば、ルーツも違う。
それを僕とファフナーさんは認め合っていく。
『親和』できないことが確定してしまい、途端に僕は吐き気を催す。
幼い僕でなく、現実の僕の身体の不調だ。
ゆえに、この過去の記憶は途端に歪んで、急激に遠ざかっていく。
(くっ、ぅっ――!!)
耐え切れない吐き気だった。
もう目を強く閉じるしかなかった。
この現実感のなさを夢と認めて、優しい幻を掻き消すときが来た。
夢幻から目覚めていく。
過去を抜け出して、いまを生きる僕に戻っていく。
ぎゅっと強く閉じた目を、次に開いたときは、もう――
◆◆◆◆◆
「がぁっ!! がっ、は――、ごほっ、ごほっ――!!」
吐き出す。
びしゃりと。
真っ赤な血が付着したのは、黒い液体のようなもので構成された家屋の床。
平時なら、ぞっとする吐血だ。
けれど、これは負傷でも病気でもなければ、自分の血ですらない。
呑まされた血を受け入れられず、外に追い出しただけ。
だから、すぐに吐き気は治まって、僕の体調は元に戻る。
どうやら、立ったまま、ずっと意識が飛んでいたようだ。
その僕の目の前で、同じように血を吐き出す女の子二人を認識していく。
「おっ、おええええぇええぇえ――!!」
黒い泥で作られた家の中で、黒の『
その隣では、パーティーリーダーのシア・レガシィが口に手を当てている。そして、手に付着した血を見て、悲鳴をあげる。
「ひ、ひゃぁあぁあ――! 赤い! 赤いいぃいぃ、おっかないーーー!!」
僕を含めて三人が、血を吐き出してしまっていた。
血を呑ませた男は、僕たちの目の前で研究者のように顎に手を当てながら、頷く。
「ふむ。一人も合わないか。上手く魔法を継承できれば、戦力アップできると思ったんだが」
一般的に、この時代では術式が刻まれた魔石を飲み下すことで、新たな魔法を身につける。
しかし、術式が刻まれた血を直接飲ませることでも、継承は可能だ。
千年前の継承の儀式を、ファフナーさんは僕たち三人に施してくれたのだが、結果は全敗だったようだ。
『血の理を盗むもの』となっていた男の力が、誰にも繋がらないとわかり、僕は落胆する。ただ、ファフナーさんだけは継承以外の目的もあったので、その調査結果を面白そうに報告していく。
「しかし、驚いたな。女の子二人の血筋は明らかに作為的で、魔法の継承も惜しかった。だが、ライナー・ヘルヴィルシャインには何もなかった。――本当に、何も。ティアラ様の祝福である『血の糸』さえ、一切見当たらない」
その言葉に、ティアラさんへの信仰心の強いシアが「やった」と少しだけ喜んでから、意見を出す。
「あのー、ティアラ様の『糸』というのはわかりませんが……。本来の聖人様の御予定では、ハインおじさんが……いや、ハイリ姉が、いまここにいたんじゃないでしょうか? あなたと話していると、少しだけハイリ姉と話しているような……、そんな少し懐かしい気分になるんです」
かつて自分たちのパーティーにいた頼れる存在を口に出して、蒼褪めた顔のノワールも小さく「ハイリ姉……」と名前を出して、顔を歪ませた。
その二人の反応を見て、ファフナーさんは答える。
「騎士ハインとカナミさんを材料にした『
もし、いまここにいてくれたら、本当に心強いだろう。
しかし、兄様は一年前の『聖誕祭』で。
ハイリさんは一年前の『世界奉還陣』で。
どちらもパリンクロン・レガシィを相手にして、死んだ。
ファフナーさんは自分の力を受け継いでくれるかもしれない名前が出て、思い悩みながら、視線を足元に向けた。
しかし、すぐに顔を上げて、前向きに仕切り直していく。
「いない人を望んでも仕方がない。俺の魔法の継承は諦めて、いまここにある力だけで最終確認に入ろう」
戦力の増強は諦められる。
そこまで話が進んだところで、すぐ近くのベッドで横になっている元『最強』の探索者グレン・ウォーカーが身体を起こした。
「……何度も言うけれど、『無の理を盗むもの』セルドラ・クイーンフィリオンは、僕に任せて欲しい」
ここに到着したときと比べると、かなり状態はいい。
過剰な『魔人化』は抑えられて、発声器官が整い、傷も塞がっている。
しかし、最期の灯という言葉が似合う顔色の悪さだった。
間違いなく、グレンさんは次に『魔人化』を解いたとき、死ぬ。
その決死の覚悟をした男に、ゆっくりとファフナーさんは頷き返す。
「構わない。君の故郷の口伝もあるが、それ以上にセルドラさん自身が望んでいる気がする」
少しでもグレンさんに休んで欲しいのだろう。
ファフナーさんは安心できるような言葉を足して、彼に限界まで休息を促す。
「セルドラさんはグレンに任せる。代わりに、カナミさんは俺が必ず止めよう。あの人を最初に『救世主』として見てしまった俺には、その責任があるはずだ。止める為の力も……、きっとある」
キリストを止めることを約束して、それにシアとノワールが同意していく。
「適材適所ですねー。ちなみに私は、こっそりと伯父さんの形見を返してもらって、ちゃちゃっと逃げます!」
「基本的に、私はシアの協力をする。けど、ファフナーがカナミを倒すって話なら、嫌がらせの援護くらいは期待してもいい」
むすっとした顔のノワールはファフナーさんを好いてはいない様子だが、同じ相手と戦うならば共闘してもいいようだ。
もう出発直前だが、形だけでも新パーティーが整っていくのを感じる。
その様子を、ずっと僕は一歩引いて眺めていて、一人で状況を再確認していた。
こうして、のんびりと新パーティーの調整をする時間があったのは、キリスト一行が悠長な凱旋を選んだくれたおかげだろう。
あの非常に移動が遅い船旅は、追い抜こうと思えば簡単に追い抜ける。
事実、一年前の僕は、『リヴィングレジェンド号』で移動するカナミ一行を、陸路から追い抜いた。
だから、いま時間の心配は全くしていない。
危惧しているのは、一つの『悪感』だ。
――『理を盗むもの』との戦いが、事前の予定通りにいくわけがない。
ある種の諦観でもあった。
相手は、あの『理を盗むもの』を全て内包する男。
生粋のトラブルメイカーであり、僕の主。
絶対に方針通りにはいかないし、事前の作戦も計画も必ず破綻する。
ただ、だからと言って、こうして話し合うことが無駄とは思ってはいない。
ファフナーさんやシアたちの話し合いを見守り続けていると、ふと思い浮かぶものがあった。
それは、僕が守れなかったほうの主の遺言。
――「いつか、私たちは
その変な話をされたのは、キリスト・ノスフィー・ラグネの三人が死んだ前日あたりだったか。
あの日も、こんな風に顔を合わせて、狭い部屋で話し合っていた気がする。
『大聖都』地下の屋敷で「カナミが敵になるかもしれない」と聞いたときは、全く意味が分からなかった。
だが、いまの僕たちの状況を見事に指し示している。
ラスティアラは何らかの理由で予期して、僕たちに託してくれていたのだろう。
ただ、託されたものは少ない。
ラスティアラは作戦や計画どころか、行動の方針すらくれなかった。
託されたのは「仲間との絆が大事!」というあやふやな
あと繰り返していたのは――
「『
事あるごとに言っていた気がする。
そして、そのラスティアラの遺言を呟いたのを聞いたシアが、顔を明るくして僕に近づいてくる。
「おっ、そーですよー。『みんな一緒』に! だから、せーので行くんですよー! さっきから、我関せずって顔をしてて、抜け駆けする気かと思いきや! ライっちも、ちゃんとわかってて安心安心!」
「わかってる、リーダー。タイミングは、しっかり合わせるさ」
未だに僕を疑っているシアに向かって、殊勝な態度を見せておく。
合わせはする。
するが、まあ、余り意味はないだろう。
きっとラスティアラの『みんな一緒』は、そういう意味じゃないはずだ。
そんな普通のことを考える
僕の馬鹿主たちは、どっちも頭がおかしいんだ。
だから、『みんな一緒』というのは「せーので、ラスボスを同時攻撃」とか「みんなで足並み揃える作戦」とか、そんなまともな話な訳がない。
あの女は「死んでも想いが通じていれば、永遠に一緒」と、本気で思っていた頭お花畑だ。
兄様と一緒で、別に揃っていなくてもいいのだろう。
むしろ、揃ってないからこそいい。揃ってないのに揃うのが、
ラスティアラは人を『人』でなく、物語として見る悪癖があった。
いまの僕だからこそ、そして兄様の弟だからこそ、わかる。
感じたくないけど、嫌でも感じるのだ。
これから始まる『終譚祭』は、みんなの物語の終わりでもある。
それは、つまり――
ファフナーさんは、『
グレンさんは、『本当の英雄』を見つける物語。
シアは、断たれた『繋がり』を取り戻す物語。
ノワールは、求め続けた『聖人』に届く物語。
――全ての物語が、一斉に閉じ締められるということ。
この地下空間に『糸』は届かないはずなのに、引っ張られる感覚があった。
無茶苦茶なティアラさんの特訓の成果だが、ここにいる全員から例の
「ライナー・ヘルヴィルシャイン……? 何か言いたいことはないのか? もう本当に、最後だ」
ファフナーさんが大事な最後の会議で全く意見を出さない僕を見て、近づきながら聞いた。
困った。
言いたいことがあるとすれば、それは「もし勝てるとしたら、それはラスティアラ・フーズヤーズだけ」ということ。
そのラスティアラが死んでいるから、いくら僕たちがあれこれ考えても無駄。という意見は呑み込んでから、それっぽいことを言ってみる。
「そうですね。全力で行きましょう。もう過去も未来も、血脈も『糸』も、複雑に絡み合いすぎて誰の予測もつかない。だからこそ、あとは本気で生き抜くのみ。たとえ反則的な『未来予知』や『運命操作』があったとしても、ぶっちぎってやりましょう」
「ああ、それは大事なことだ。それは、そうなのだが……」
その重要性はわかっていても、もっと具体的な戦術が欲しい様子だった。
以前から思っていたことだが、『理を盗むもの』たちは気弱で心配性すぎる。
なので仕方なく僕は、きちんと言葉にして伝えておく。
「その上で大事なのは、『みんな一緒』だってことを忘れないことでしょうね、きっと。以前、ラスティアラがそう言っていたのを、いま思い出しました」
「『みんな一緒』……? あのときの少女が、そんなことを言っていたのか? ならば、それはとても重要なことだろう。なにせ、あの少女の言葉だ」
「あとマリア、ディア、スノウの三人は、そのラスティアラの大親友です。重要だと思いますよ。ほんとやばいやつらなんで、あの三人組」
「確かに、あの三人は戦局を左右するだろう。三人とも、『血の理を盗むもの』代行者だった頃の俺を、軽く圧倒してるからな。だからこその『みんな一緒』か。ふむ、やはり重要なのは、人数……?」
どうやら、上手く誤魔化せたようだ。
僕の意見を聞いたファフナーさんは、ぶつぶつと「いや、しかしだ」「あの少女は一人で虹の如き力を得ていた」「得ていた仕組みからすると、ここは――」と呟き始めたところで、先ほどの記憶の続きを思い出す。
あの日。
キリスト、ラスティアラ、ラグネの三人が死んだ日。
地下屋敷の食堂で、主ラスティアラ・フーズヤーズはノスフィーを膝に乗せて撫でながら、こう言っていた。
(カナミってばさ、ノスフィーちゃんを元お嫁さんだからって、なーんか全部『なかったこと』にしようとしてる節あるよねー?)
ラスティアラは冗談めかしながら、恐ろしい事実を添えて、あえて仲間たちの地雷原を突っ走った。
その意味もまた、いまだからわかる。
ラスティアラは自らの死期を悟り、未来を憂い、色々と焦っていた。
だから、あえてノスフィーの逃亡も見逃して、ディア、マリア、スノウと本心からぶつかり合って、仲間たちとの絆を再確認した。どこかへ向かって、急ぐように。
(そういうところが、カナミにはあるから。だから、ディア、マリアちゃん、スノウ、リーパー、ライナー。みんな、お願いね)
そのお願いは「ノスフィーを無視するカナミを、みんなで叱れ」という意味だと思っていた。しかし、本当の意味は――
――どうか、最後の敵『相川渦波』は、みんなで倒して欲しい――
その願いに、いま、他の四人も気づいているだろう。
そして、それぞれがそれぞれの解釈をして、独自に動き出してくれているだろう。
例えば、リーパーは『審判役』と嘯いて、ずっとカナミを見張ってくれている。
残りの三人のディア、マリア、スノウは連合国に潜んでくれている。他にも、パリンクロンとハイン兄様とラグネさんの三人が亡き今、最もラスティアラと付き合いが長い騎士もいる。
「向こうの心配は要らないな。あのセラ先輩が付いてる」
僕が尊敬している騎士セラ・レイディアントも、きっと連合国にいる。
無論、あの人だけじゃない。
他にも連合国には、僕たちの援護をしてくれる人たちが一杯いる。
だから、単純な戦力面は余り心配はしていない。
「――はーい! よーし、それじゃあ新パーティーの最終確認、終わりでーす! そろそろ行きましょーかー。なので、この黒い家は、もう壊しますよー。『終譚祭』に忘れ物はありませんかー? みなさーん」
間の抜けたシアの声を合図にして、最後の作戦会議終了が告げられ、黒い泥の家から出ていき始める。
僕は真剣に話を聞いていなかったが、ファフナーさん・グレンさん・ノワールの三人は決死の面持ちで、引率するリーダーの後ろをついていっている。
そのさらに後ろを僕はついていき、誰にも聞こえない小さな声で、呟く。
「行きましょう。兄様、ハイリさん……、みんなも。一緒に、『最深部』まで――」
連合国で開かれる『終譚祭』に向かう。
その新パーティーの最後尾を、僕は口元を緩ませて歩き出す。
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