434.見分けのつかない科学


 かつてカナミが使っていたときと比べると、『リヴィングレジェンド号』の外装は大きく変化している。

 正式な持ち主であるカナミ・ラスティアラの知らないところで、改装を繰り返してきたからだ。


 少し前、世界を揺るがした『水の理を盗むもの』ヒタキとの戦いで、『リヴィングレジェンド号』はディア・マリア・スノウ・リーパー・ライナーたちの移動手段となり、氷塊の浮かぶ危険な海を行き来した。


 その際に『南北連合』から、世界の命運を任せるに相応しいバックアップを受けたのだ。

 まず、船底には溶かした魔石による被覆コーティング処理がなされた。あらゆる環境や衝撃に耐えられるような装甲が追加され、内部の機関を最新のものに詰め替えたり、高価なモンスターの皮をなめした帆を張ったりと――、武装はディア・マリアの魔法に頼っていたので皆無だが、世界最高の改造を施された。


 そして、『血陸』に流れ着いてからは、血の海と霧に晒され続けたのだろう。


 至るところに、普通ではない腐食や錆が発生した痕跡が見えた。

 それを手先の器用なグレンによって、より使いやすいようにと改修されたようだ。


 新品当時の煌びやかさは、もう完全に失われた。

 非常に重そうで、物々しい。

 よく見れば、所々が荒れていて、痛み、黒ずみ――しかし、代わりに、歴戦の軍船と呼ぶべき力強さを感じられた。


 その生まれ変わった『リヴィングレジェンド号』が、街の一番高い建物に大量の『黒い糸』で括り付けられることで停泊していた。

 すぐさま『一次攻略隊』は乗り込んだ。


 そして、新たな『血の人形』や『血の魔獣』が出てくる前に、碇の代わりとしていたグレンの『黒い糸』を外していき、セルドラが『竜の風』を帆に――ではなく、船体全体に当てることで軽く船を浮かし、とても強引に出航させた。


 さらに、グレンが『黒い糸』で帆を操作し、細かな雑用はカナミが誰かに言われる前にこなしていく。そこからの移動は本当に速く、街の建物を縫うこと数分ほどで、航海に十分な水位を船は得る。


 そこから先は、悠々とした航海だ。

 偶に『血の人形』や『血の魔獣』と邂逅することはあっても、大抵は勢いのついた船の巨体に潰されるか、乗組員の遠距離攻撃によって撃退されていく。

 敵側の強みである異形による『恐怖』は、視認すらされないので活かされようがない。


 ――というのが、すでに数時間前のこと。


 いま現在、甲板の上は静まり返っていた。

 航海によって、潮風でなく血生臭い風が通り過ぎる。


 誰も居ないわけではない。

 私のすぐ後ろには、すやすやとシスの眠るベッドが置かれている。

 帆柱メインマストの上にある物見台では、グレンが周囲を警戒しつつ、船を『黒い糸』で細かく管理している。


 いま居ないのは、カナミ・セルドラ・クウネルの三人だ。

 彼らは船内の適当な部屋を使用して、柔らかなベッドで身体を休めている。

 なので、甲板上で会話は起きようがなく、かれこれ数時間は静寂のままだった。

 敵も、ずっと移動し続ける『リヴィングレジェンド号』を捕捉するのは難しいようで、もう一時間以上は纏まった襲撃がない。


「(…………)」


 端的に言うと、私はとても暇だった。

 『傍観者』だからこそ、見るものがないというのは大変困る。


 私は船の甲板の端っこで、木の柵に手をかけて景色を見るしかなかった。

 時が過ぎ、昼から夜になったことで、『血陸』の様相は少し変化していた。

 ただ、ほとんどが真っ赤なままなので、本当に少しだけだ。


 薄らと広がる赤い霧の上に、僅かに発光をするものが見える。

 どうにか地上まで光を届けようと、月や星々が必死に煌いているのだろう。

 その下には、薄暗くも赤い海。

 思った以上に、海は透き通っている。柵から身を乗り出すと、上がりすぎた水位によって沈んだ街を、僅かな光で観光することが出来た。


 街を真上から眺めるのは、とても不思議な感覚だった。

 まるで空を飛んでいるかのような気がする。


 下々の全てを支配している神様のようで、ちょっと気分がいい。


 とはいえ、ずっと似たような光景ばかり見ていても、すぐに飽きてくるものだ。

 仕方なく次は、世界最高と思われる『リヴィングレジェンド号』の様子を観察する。


 最も目を惹き、異様なのは、『黒い糸』だ。

 船の側面や甲板の床など至るところに伸びていて、たった四本のはずなのに、まるで蜘蛛の巣のように張られている。その長さに際限はないようで、船底あたりでは厚く念入りに巻きついていた。

 おそらく、これがグレンの索敵方法なのだろう。その『魔石線ライン』代わりと言われた糸に触れると、魂まで読み取られる可能性がある。


 珍しい光景だ。

 ただ、これもまた全ての仕組みを理解した後は、どうしても冷めてしまう。


 観察しすぎて新鮮味が失われた船の中、私は途方にくれる。

 ぼうっと血の海を見続けて、もう何分経っただろうか。

 ずっと静かで、何もない。

 なのに眠気がやって来ないというのは、少しだけ辛いものがあったのだが……、その私の苦しみを晴らすように、声が落ちてくる。


「――君は休まないのかい?」


 左腕を掲げて、『黒い糸』を垂らしながら、上から降りてくるグレンだった。

 蜘蛛のような人だ。

 正直、ビー系じゃなくて蜘蛛スパイダー系のモンスターの混じりと言われたほうが納得できる姿である。


 その面白いグレンの姿に、どこか癒されながら、私は答える。


「(あなたこそ、休まなくてもいいのですか? 少し顔色が悪そうです)」

「うん、確かに僕も疲れてる。けど、カナミ君たちをファフナーのところに連れて行くのが僕の仕事だからね。それが終わるまでは頑張るよ」

「(たぶん、私も同じなんだと思います。『第七魔障研究院』の職員として、お客様をファフナーのところまで案内する。それが使命だと、勝手に解釈しています)」

「そう……。君は仕事熱心なんだね。本当にすごいよ」


 グレンは私の隣に立ち、ゆっくりと頷いた。

 セルドラたちの前では、常に緊張感と戦意を保ち、皮肉を交えてばかりだった彼だが、私相手には優しい表情だった。


「(仕事熱心なのは……、ちょっとだけ私の自慢です)」

「でも、その仕事も、あと少しで休憩だ。……あと一時間もないかな? そこで君の仕事は終わる。カナミ君たちの旅も含めて、全てが、終わりだ」

「(あと一時間? 早くないですか?)」

「思った以上に、航海が順調なんだ。たぶん、朝を迎えたあと、すぐにファフナーのところに着くよ。と言っても、彼が立て篭もってる建物の真上に船が着くだけで、そこからが大変なんだけど」

「(そこまで連れて行けば十分でしょう。『一次攻略隊』さんたちは、化け物揃いです)」

「みたいだね。……本当にびっくりしたよ。『最強』時代から、さらに鍛えて、もう誰にも負けないって自信が出てきたところなのに。直に会った瞬間、その自信があっさりと掻き消えちゃった」


 気軽に談笑する。

 いつ誰が死ぬかもわからない『血陸』なのに、私たちは我が家にいるかのように落ち着いていた。


 なにより、グレンとは初対面のはずなのに、とても『安心』できる。


 なんだか懐かしい香りがするのだ。

 研究院で働いていた職員時代に――いや、もう少し前に、嗅いだような気がする。死と血と絶望が混ざり合った独特な香り。


「本当に大丈夫なのかい? ずっと飲まず食わずのようだけど」


 そう私が思案していると、再度気遣ってくれる。


 本当に目端の利く人だ。

 常に誰かの顔色を窺っていると評判だが、それは決して悪いことではないと思う。

 もし彼が後輩職員ならば、将来有望で満点をあげられる。


 グレンは甲板の中央にあるテーブルに、視線を向けていた。

 彼の持ち込んだグラスや皿が並べてあって、中には濾過した綺麗な水もある。カナミという食料庫が来たことで貴重でなくなったとはいえ、それでも彼が『血陸』で必死に集めたであろう水は、中々に手を出しにくい。


(いえ、必要ないみたいです。この身体になってから、飢えも乾きも、眠気もありません。というか、この口、たぶん胃袋まで続いていません)


 遠慮しつつ、私は自らの『血の人形』としての仕組みを教えていく。

 冗談めかして、あーんと口を開けた私の喉奥を、グレンは真剣に覗き込んだ。


 私の言葉に嘘がないとわかると、彼は一歩退いて目を伏せる。


「そう……、それは悲しいことだね。食べるというのは、生きる喜びだ。これじゃあ、人生の意味を一つ、奪われたようなものだ」

「(それは少し大げさですよ。私は平気です。以前から食べることは、余り楽しみじゃなかったので)」


 そう答えると、さらにグレンは悲しそうな顔になっていく。

 そして、私に気を遣ってか、小さな声で「実は、僕も余り好きじゃないんだ。いまのは、ただの先輩の受け売り」と苦笑した。


 笑い合って、ぐらりと船が揺れる。

 私たちは『血陸』の鉄臭い風を浴びながら、他愛もない話をし続けていた。


 途中、とても奇妙な縁だと、私は思った。

 こんな場所でグレンと談笑が出来ているのは、本来ならばありえないことだ。


 私たち二人は本当に奇妙な縁に導かれて、いまここで向き合っている。


「(――それにしても、私の言葉が本当にわかるんですね)」

「うん……。もう誤魔化せないから、白状するよ。君の言葉はよくわかる。君が千年前の研究院の職員だってことも含めて、僕は詳しく聞いてる」

「(聞いている?)」


 それは、誰から?

 と聞く前に、グレンは核心を突く。


「ああ、よく聞いたんだ。そして、詳しく知った。――だからこそ、思う。よくあの男と、君は一緒に居られるね。あの『無の理を盗むもの』セルドラ・クイーンフィリオンと」


 みんなが寝静まっているからこそ、グレンは言葉を飾らなかった。

 表面上は無害な青年に見えても、ちゃんと陰口を叩くときは叩く人のようだ。

 それは貴族社会で揉まれながら育った影響か、それとも生まれ持っての性格か。


「もうわかっているだろう? あの男こそ、君を地獄から逃がさなかった最大の原因だ。あの『魂の理を盗むもの』の研究費は全て、彼の懐から出ていたんだから……」

「(は? え……?)」

「思い出したほうがいい。一度はカナミ君に救われたはずのファニアを、もう一度地獄に落とし直した男たち・・・のことを。千年前、君は彼らに会っている」


 指摘され、私は記憶を洗い直す。

 ファニアを地獄に落としていたのは、ファニアの有力貴族であるロミス・ネイシャだったはずだ。

 当時、そう公には知られていたし、歴史書にだってそう書かれてある。


 だが、はっきりとグレンは断言する。

 男たち・・・と、複数形で。


「(ああ――)」


 カチリと、ずっと引っかかっていた違和感が、ピースが嵌まるように消えた気がした。


 そうだ。

 いま、やっと思い出した……というのは、正確なところじゃない。


 記憶が色褪せていたわけではない。カナミのおかげで、いまの私は人生全てが鮮明で、どれも苦労なく思い出せる。ただ、私の知る『黒髪の男性研究員』と『青髪の竜人ドラゴニュートセルドラ』が、頭の中で上手く噛み合わなかっただけだ。


 カナミと繋がり、セルドラが『元の世界』を旅行するときに、土地に馴染むための変装をしていたことを知っていなければ、ずっと気づけなかったかもしれない。


 しかし、思い返せば、同じだ。

 《ヴィブレーション》の使い方が同じ。

 何より、その声と笑い方が同じ。


 ――生前のファニアの記憶だが、再上映するかのように、はっきりと繰り返せる。


 あれは、千年前の新暦0年のこと。

 『異邦人』カナミが『聖人』ティアラと共に訪れて、悪い領主だったロミスを打ち倒し、『火の理を盗むもの』アルティと『闇の理を盗むもの』ティーダを救い出した。


 しかし、その平和は長く続かない。


 たった三年後。

 『一度目の領主交代事件』のあとの新暦三年に、カナミが見逃したロミス・ネイシャが、ファニアに帰ってくる。


 当たり前だ。

 ロミスが失脚したのは、新たな教祖カナミと聖人ティアラが脅威だったからだ。

 その二人の影響が薄まれば、戻ってくるのは当然だった。


 そして、ここで重要なのは、あのロミスが負けたあと、ただで戻ってくるような甘い人間ではなかったこと。

 さらに、当時の領主ヘルミナ様が、フーズヤーズの『光の御旗』計画の協力で忙しく、その男たちのファニア領への侵入に気づけなかったこと。


 二つの要因が合わさり――


 新暦3年の『第七魔障研究院』の地下。

 フーズヤーズと交流し始めたことで、少しずつ血の気が減ってきた建物の隅っこに、その二人は居た・・・・・・・


 その部屋は、生まれてからずっと清掃員だった私にしか辿りつけない特別な場所だった。

 石造りの隠し部屋で、最低限の灯りすらなく、とても密談に向いている。


 そのとき、ほんの僅かだけだが、扉が開いていた。

 隙間から中の様子を確認することができてしまった。

 私は清掃員の習慣として、外で静かに待とうとしたのだが、偶然にも聞いてしまう。


「――ロミス、遠慮するな。俺はおまえを買ってるんだ。誰よりも、おまえは俺に近い」


 その妙に熱の入った怪しい勧誘を。


 暗がりの中、研究院の装いに黒髪を垂らした巨漢の男が、ここに居てはいけないはずの元領主と話していた。

 このときのロミス・ネイシャは坊主頭でなく、茶の短髪に質素な装いだったけれど、それを見間違えるほど私は薄情な領民ではない。


「ええ、それはわかっております。この私をファニアの中まで手引きしてくれた恩は、決して忘れません」

「俺がおまえを最大限バックアップするつもりだ。これから、おまえが起こす革命クーデターは『北連盟』が後ろ盾となる。資金面も一切気にしなくていいし、もし失敗しても、必ず俺がおまえを保護してやろう。……個人的に、おまえのような仲間が欲しいと思っていたところだ」


 それを私が盗み聞きしたのは、なぜだろうか……。

 運命、ではないと思う。

 この地上から切り離された地獄には、神の目だって届かない。


 死後のいまだから薄らとわかるのだけど、きっと私は探していたのだ。

 セルドラのような男が、ファニアに現れてくれるのを――


「しかし、余りに美味い話だからこそ、どうしても警戒せざるを得ません。なぜ北の総大将であるあなたが、このようなところで一人……。しかも、私の味方をするのです?」

「簡単な話だ。いま北は『宰相』アイドの決定で、じっくりと国を育てる方向で動いている。その間、戦仕事しか能のない俺は、とても暇なんだ。単身の強さを活かして、敵国で破壊工作や引き抜き工作を頑張ってるのが、そんなに不思議か?」


 ロミスは相手の好意を素直に受け止めず、疑う。


 息を吸うように他人を利用する彼だからこそ、この天から降った幸運には罠が潜んでいると確信していた。

 裏にあるものを全て把握するまでは、そう簡単に動けない様子だった。


「ええ、とても不思議ですよ。もし私が『宰相』アイドならば、あなたに国でしてもらいたいことは、いくらでもありますからね」

「……へえ、そうなのか? いや、おまえが言うなら、そうなんだろうな。俺がわからないだけで、そうなんだろう。そうだったのか。アイドも、そうならそう言えばいいのにな。は、ははっ、くはははっ」


 セルドラは意外そうに、聞き返した。

 そして、テンポのいい自問自答の末に、ロミスが正しいと笑った。


 その姿を見て、ロミスは息を呑む。


 あっさりしているように見えて、セルドラにも『理を盗むもの』特有の不安定さがある。

 かつて相対した火・闇・次元の『理を盗むもの』と同じく、この男も常人では理解できない狂気を秘めている。それを感じたロミスは、警戒心を強めて一歩後ずさった。


 セルドラは交渉相手が構えたのを見て、慌てて言い足す。


「いや、待て。ロミス、わかるだろう? 俺とおまえなら、必ず上手くやれる。この素晴らしい研究所を見て、それを俺は確信した。……ここは、とても病人に優しい場所だ。あの毒にも薬にもならなかった『世界樹』の最奥よりも、ここの方が俺の病に効く。おまえは本当に趣味がいい。一種の美しさすら、ここからは感じられる――」


 自分は敵でなく、共感できる相手であることを主張していく。


 そして、ロミスが領主時代に作った『魔障研究院』を、うっとりとした表情でセルドラは褒めた。

 心の底から、素晴らしく、優しく、美しいと思っているようだが――それこそ、ロミスにとってセルドラが交渉相手として恐ろしいと感じる理由だ。


 ロミスが『魔障研究院』を建てたのは、全て実益だ。

 領民から搾取をするのに必要だからであって、決して「素晴らしい」とか「優しい」とか「美しい」なんて感情を覚えたからではない。

 当然、「趣味」なんて一欠片も入っていない。


 見当違いの賞賛で、ロミスとの距離を縮められたと勘違いしたセルドラは、手を伸ばしながら勧誘を続ける。


「誠意を込めて、おまえには正直に話そう。……本当に俺は、ただ好きでやってるだけなんだ。北でやるには難しい趣味を、この敵地なら好きに楽しめる。本当の本当に、ただそれだけだ。何よりも自分の欲望を優先するおまえなら、なんとなくわからないか?」


 理由は、ただ好きだから。

 嘘はないように聞こえた。


 ロミスも同じ判断をしたのだろう。

 嘘ではなさそうだからこそ、より険しく顔をしかめた――が、いつまでもセルドラが不気味という理由だけで、交渉を停滞させられないようだ。


 十分に相手の言葉を吟味したあとに、妥協点を見つけて、渋々と頷いていく。

 肩の力を抜き、その伸ばされた手と握手を交わす。


「……わかりました。『北連盟』を利用させてもらいます。セルドラ様も私を利用するといい。……けれど、何があっても、私はあなたの仲間には絶対なりませんよ。これでも、南の地に愛着があるのです」

「むっ。……俺たちは、気が合うとは思わないか?」

「いいえ、全く思いません。どうか諦めてください。私はティーダ・ランズの件で、『理を盗むもの』と協力するのは懲りてるんです」

「ティーダ・ランズ? そういえば、あの厄介な黒騎士とおまえは『幼馴染』だったって話だったな……。それが原因か。くそっ、タイミングが悪かったな」


 悪かったのは自分でなくタイミングと判断して、セルドラは唸った。


 どうやら、南に潜入している彼は、新暦0年に起こった『一度目の領主交代事件』について知っているようだ。カナミが発案した『理を盗むもの』という名称も、そこで知ったようだ。


 ただ、私が気になったのは、別のところだった。

 『幼馴染』という単語を聞いたとき、ロミスの表情が変わり、小さく「ティーダが黒騎士? 騎士に……?」と呟いた。

 だが、それを誤魔化すように、すぐ別の名前が出される。


「そう言えば、あなたが連れて来たファフナー・ヘルヴィルシャインも、『理を盗むもの』になれるかもしれないという話でしたね」

「連れて来たというより、『里帰り』を促しただけだがな。まあ、可能性があるとだけ言っておく。土台は出来ているし、理論上は到達できるはずだ」

「聞いたところ、彼はあなたをとても尊敬しているようですよ。未だに、味方と信じてもいる」

「……そうだろう。そう俺が……、育てたからな」


 ファフナー・ヘルヴィルシャイン。

 その名前を聞いたとき、私の心臓が跳ねる。


 あの『一度目の領主交代事件』で理不尽な『魔人化』の実験を受けて、生き延び、脱走し――三年の時を経て、戻ってきた少年。

 私とコミュニケーションを取ろうと、ずっと話しかけてくれる少年。


 私は明らかに動揺した。

 結果、清掃員として待つという仕事が疎かになり、少し体勢を崩してしまう。

 物音を立てて、話をしている職員たちの邪魔をしてしまい――


「ん? こいつは……」


 セルドラと目が合った。

 すぐにセルドラは動き、扉を開いて、部屋の中を覗いていた私の姿を晒す。

 いまにも口封じが始まりそうだったが、その前にロミスが口を出す。


「こ、このむすめは……。セルドラ様、心配要りません。使い捨ての下層職員たちのほとんどが、頭をやられています。特に、その娘は人の言葉すら理解できず、清掃しか任されていないほどです。ただ、部屋の前で、私たちの退出を待っていただけでしょう」


 幸いにも、私とロミスは見知った顔だった。

 彼は領主時代に、ファニアの各『魔障研究院』を暇があれば見て回っていて、その際に何度か交流があった。


「清掃員……? へえ。こんな掃除し甲斐のない部屋まで、仕事熱心なことだ」

「もし何かの間違いで彼女の密告が起こっても、信じる者は一人もいないでしょう。間違いなく、誰もが与太話と判断します」


 ロミスが私をよく知っていてくれたおかげで、一命を取り留めたようだ。


 こんな場所で働いているおかげか、私は死の匂いには敏感だ。

 もし、あと少しでもロミスが間に入るのが遅れていたら、未だ私を疑っているセルドラに頭を握り潰されていただろう。そして、いま一声すらあげても、同様の結末が待っているともわかっている。私は静かに成り行きを見守り続けるしかなかった。


「一応、念には念を入れていこう。これから話すときは、部屋の音を『呪術』で消す」


 そう言って、セルドラは手を部屋の壁に置いた。

 その手に篭った『魔の毒』が、波紋のように広がる。


「それは……! もう私には使えなくなったからこそ、羨ましくて堪りませんね。それが、あなたが『世界樹』の先で盗んできた『奇跡』の一つ。属性は『無』でしたか?」

「いいや、これは『無の力』じゃない。フーズヤーズでくすねて――いや、学んだ技術の一つだな。期待してろ、ロミス。この世界には、まだまだ色々楽しいものが残っているぞ。――呪術《ヴィブレーション》」


 《ヴィブレーション》とやらが発動して、部屋の壁と扉が震えた。


 見た目は変わらない。けれど、ぶ厚くなったような錯覚を覚える。

 おそらく、その感覚は間違いではなく、その分厚さで外からの干渉を一切遮断する力なのだろう。


 ――その後、私は部屋の外まで追い出されて、中には入れなくなる。


 もう聞き耳を立てようとは思わなかった。

 誰かに報告しようとも思わなかった。

 というより、どちらも現実的に出来なかった。


 時折、変装したロミスやセルドラとすれ違うことがあっても、声はかけない。

 何食わぬように一礼だけして、清掃に集中し続ける。

 それだけで『傍観者』の私にとっては、面白いことが起きる。


 そうセルドラを信頼できたから、私の思い出はここまでだ。

 それからロミスによる革命クーデターは見事成功して、二度目の領主交代を達成し、ヘルミナ様とファフナーは最下層の『御神体保管室』に幽閉されることになる。



 ――そして、千年後の『血陸』。



 私はセルドラとの出会いを思い出して、グレンの指摘に深く頷いていく。


「(そうでした……。確かに私は、過去にセルドラと会っていた……)」


 ただ、そうだとしても、まだ不思議なことが一つ残っている。


 間違いなく、いまの思い出の中に、グレン・ウォーカーなんて人物は存在しない。

 なのに、どうしてグレンは私以上に、私の人生を知っているのだろうか。


「はあ、よかった。急に動かなくなったから、少し心配したよ」


 グレンは私に近寄り、その手を私の頬に伸ばしていた。

 触れた瞬間、ひんやりとした冷気が伝わる。

 この『血の人形』の身体でもわかるほどに、グレンの手は冷たい。


「思い出してくれたなら、わかるはずだ。……ロミス・ネイシャは、まだいい。彼は野心と欲望を持ち、ただ権力を求めただけの人だ。他者を蹴落とすことはあれど、その積み重ねを決して無駄にはしない。為政者らしい為政者というだけだ」


 その手を、私は握り返そうとした。

 だが、すぐにグレンは一歩離れて、伸ばした手で握り拳を作り、持論を力説していく。


「だが、セルドラは違う。あの男は、ただ遊んでいただけだ。他人を『不幸』にして回っては、楽しそうに笑うだけ。それも自分の手は決して汚さず、安全圏から眺める……! 最低最悪の趣味だ!」


 確かに、セルドラがロミス・ネイシャを手引きしたのは、ただの興味本位の可能性が高い。

 先ほどの《ニュークリア・主鎖断裂ジェノサイズ》を使っていたときの表情も考えると、否定できない。


「ここの血の海の何分の一かは、あの男が原因だ。だから、必ず僕はセルドラに責任を取らせる。『理を盗むもの』の『未練』や『呪い』だとかは知ったことじゃない。単純に、人を殺せば殺した分だけ、人は呪われるべきなんだ。……ああ、そうだ。そうなんだ。その罪を『血陸ここ』で償うべきなんだ。たとえ、死をもってでも――」


 なぜか、途中から、グレンは私を見ていなかった。

 胸に手を当てて、とても必死に言い聞かせていた。

 おそらく、セルドラ相手ではなく、自分に。


 少しずつ、グレンのことがわかってきた。

 だから、今度は私から彼に向かって、手を伸ばそうと思った。

 もう一度、その心と身体の温度を確認したい。


 船の景色よりも面白いものを見つけた私は、柵から離れていく。

 そして、独白し続けるグレンに、いまにも触れる寸前。


 ――立っていた。


 グレンの身体の向こう側に、黒い影が立っているのを見た。


 また……。

 ああ、いつの間にか、まただ……。


 幽霊のように佇み、その黒一色の恐ろしい瞳で、『次元の理を盗むもの』カナミが私を覗き込んでいた。


「――グレンさん。怖い話をしてますね」


 怖いのはそっちだと言いたいのを、ぐっと私は堪えて、『傍観者』に徹する。


 カナミの視線が突き刺さっていたのは私だったが、口にしたのは別の名だった。

 予期せず呼ばれたことで、グレンは驚きながら振り返る。


「カ、カナミ君? 中で寝ていたんじゃ……」

「そろそろ、朝です。ちょっと早起きしちゃいました」


 そう答えたカナミは、とても眩しそうに空を見上げた。

 しかし、赤い霧に包まれていて朝日が昇っているのかは判断しようがない。なのに、彼はその先に光が煌いているのが見えているかのように、その目を細めていた。

 晴れやかな朝を迎えた表情で、私たちの話に加わっていく。

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